飛翔(吸血鬼シリーズ1)

 新月の夜は、煌めく星々が月のように明るく感じる——それを星月夜という。

 大きな窓から外を眺めていた男は、振り返り従僕に声をかけようとして眉を寄せた。

 様子がおかしい。いや……理由はわかっている。

「王よ……どのようなご用件でしょう」

 問えば従僕の口が動いた。普段の彼の声ではない。

「おまえの口から直接聞きたかったのだ。一族の高貴な血を最も濃く受け継いだ我が息子、愛之介よ」

「王をはじめ重鎮方のために、成すべき責務は果たしております。人や動植物からだけではなく、世闇の中に人知れず潜む強力な魔物からも精気を集め、あなたの犬に持たせ運ばせているではありませんか。まだ足りませぬか」

「それは問題ない。しかし……もうひとつ私に差し出すものを、まさか忘れてはおるまいな——贄だ。あれから相応の時間が経った。まだ見つかる気配はないのか?」

「もちろん、そちらを最優先に探しております。しかし、残念ながら王の入れ物となり得る器など、おいそれと転がっているものではありません」

「その言葉に嘘偽りはないな」

「もちろんです。それとも焦っておられるのか。冥界の王であられる父上の肉体はとうに限界なことは存じております。俗世では己の形態を保つこともできない、という噂も耳に……」

 王は苛立った強い語調で愛之介の言葉を遮った。

「黙れ。聞いたふうな口を利くでない。高く飛べぬようおまえの片翼はこちらで預かっておるのだ。おまえは愛する息子——私の最高傑作だが、それと同時に手駒であることを忘れるな。従順とは言い難いが、まあ良かろう」

「王の寛大なお心に感謝いたします」

「ふむ。吸血鬼は気高く種としての名誉を重んじる。いくら知性を持つとはいえ人間など下等な生き物だ。それでも魂を消し去れば、その肉体のみを器として利用することは可能だ。それ以外でならば暇潰しの玩具にするか、よくて隷属させ道具として使うだけの存在よ。その程度の価値しかないものに感情を向けるべきではない。まさか向けてはおらぬと信じておるが。それをゆめゆめ忘れるな」

「心しておきましょう」

「それと最後に、ひとつ忠告してやろう。おまえが器としてふさわしくないと判断したとしても、私が本気で力を行使すれば強制的におまえから奪うことなど雑作もないのだ。今までは甘い顔をしてきたが、これ以上の好き勝手は——わかっておるな」

 強い圧がかかる。不覚にも一瞬たじろいだ。そして、言うだけ言って愛之介の返答を待つこともなく、父王は去っていった。

 間違いなく気付いているのだろう。いずれにしろあまり時間はないのだ。

「愛之介様……私は今……」

 自我を取り戻した従僕が、キョロキョロ周囲を見回した。

「ああ、いつものことだ。王がまたおまえの口を介して連絡を入れてきた」

 父王が愛之介に直接介入しようとするとき、こうして王の隷属である忠の体を使うのだ。意識は完全に乗っ取られている。その間の記憶を持たない忠は、愛之介と王の間で交わされた会話内容を知らない。

「申し訳ございません」

「不可抗力だ。謝る必要はない。それと何度も説明しているが、たとえここでおまえを始末したとしても現状は変わらん。代わりなどいくらでもいるのだから、新しい監視を押し付けてくるだけだ。変な気を起こすな」

「それでも……」

「いつか、王がおまえにかけた首輪を俺が外してやる。そして新しい首輪を与えてやろう。だから待っていろ」

 従僕は驚いたように目を見開いた。

「なんだ。不満か?」

「とんでもありません……それで先ほどは、何か緊急の用事だったのでしょうか」

「いや、ただの催促だ。器のな」

「器……」

 従僕の表情が曇った。

「心配には及ばぬ。……それよりひとりにしてくれ」


 幾重にもかけられた結界を抜け部屋に入ると、少年はベッドから立ち上がり大きく伸びをした。

「よく眠ってた……気がする」

「やあ、おはよう。ランガくん」

「おはよう。愛抱夢……あなたがいるということは、ここは夢の世界だね」

「厳密には夢とは違うけどね」

「でも現実でもないんでしょ?」

「そうだね」

 ランガに紅茶と焼き菓子をすすめる。

 菓子を頬張り紅茶で流し込んで彼は「おいしい」と笑った。なんてラブリーな笑顔なんだ。この子に出会ってはじめて癒しというものを知った。

「不思議だよね。俺、いつからとは覚えていないんだけど、物心ついたときには、この部屋に来てあなたと会っていたよね。そのことを、ここにいるときは色々思い出せるんだ。なのに現実世界に戻るときれいさっぱり忘れている。愛抱夢のこともだよ。ねえ、どうなっているの?」

「それは企業秘密」

「愛抱夢のことだけでも覚えていられるようにって、できない?」

「それは……現実世界に戻ってまで、この部屋のことや僕のことを覚えていられていても困るんだよ。申し訳ないけど」

「そう……残念」

 ランガに出会って何年経つのだろう。あれはランガがまだ三歳くらいのときだったか。はじめて彼の姿を目にして驚いた。幼い子供の体に無限の可能性を感じ心が震えた。

 この子はあの王の器になり得る。もちろん今すぐではない。二十年以上は待つ必要があるだろう。それまで定期的にその肉体の成長をチェックする必要がある。器になり得ることが確定するまでランガを王から隠し通さねばならない。なぜかそう強く確信した。

 それは正しい直感だったと今でも思う。

「君はいくつになった?」

「年齢? 十四歳……もうすぐ十五歳になるよ」

「そうか」

 あの王の器として成熟するには、まだ十年ほどの時間を要するだろう。

 最終的に肉体のみを利用する。結果的に必要のない命を奪う——その目的で探し、見つけ出し、血で縛った。そして、今もそのことを隠しながらこうして逢瀬を重ねている。なのにそのときが近づくにつれ、失いたくないと心は揺れる。

 眷属として自分のものにできるまで、あと三年は最低かかる。バレなければそれで済むのだが。もちろん従僕はランガのことを知らない。ただ、厳重な結界を施したこの部屋に、愛之介がたびたび籠っているることは、知っている。ならば父王が怪しむのも当然だ。

 あの様子からすると、すでに薄々でも勘付かれていることは間違いない。だとすれば時間はない。どうしたものか。

 少なくても父王とはいえあの老いぼれに、この美しい体を器として差し出すことなどあり得ない。ああ、絶対にだ。

「あのさ、俺を吸血鬼にする気?」

「さあ、どうしようか。君はどうしたい?」

「まだよくわからない。愛抱夢とはずっと一緒にいたい。でも俺、いい吸血鬼にはなれそうもない。だって血が苦手だから」

「ふふ……吸血鬼は血を食事にしているわけじゃない。それは人間の妄想で作り出した創作さ。人間による猟奇的殺人を吸血鬼の仕業だって混同させたんだ」

「でもあなたは俺と会うたびに血を吸うじゃないか」

「そんな量は吸ってないだろう? あれでは腹の足しにはならないくらいだ」

「そうだったんだ……」

「僕たちの命の糧はあらゆる生物や魔物から得る精気だ。個別に好みはあって何を狩るかは嗜好次第さ。確かに僕たちは血を吸うけど、それは契約の儀式だよ。吸血行為はその力を行使するために必要なだけで、血液そのものをを養分にしているわけではない。わかった?」

「なんとなく。で、俺ははどんな契約をさせられているの?」

 ここは適当にはぐらかすことにした。

「君も吸血鬼になってみればわかる。試しになってみようか」

 ランガはブンブンブンと首を振った。

「うっ……もう少し考えさせて」

「冗談だよ。まだ早すぎる。あと二年は成長してくれないと僕の眷属にはできない」

「あのさ、吸血鬼って太陽の光浴びると灰になっちゃう?」

 おお……またかわいい質問を。

「そんなことはない。あの有名なドラキュラだって日中、普通に歩き回っていたと小説の中では書かれている。宵闇に紛れ獲物を狩る方が都合がいいから、自然と僕たち吸血鬼の活動は夜になるけど。日光に弱いわけではないよ」

「そうなんだ」

「ランガくんは覚えていないだろうけど、君と出会ったのは日中だったよ。快晴の青空の下、雪の中にいた君は清麗な輝きを放っていて——そう、天使かと思ったんだ」

 器探しの命を受けて俗世へと降り世界中を放浪したのだが、あの雪山にあるコテージ前での出会いは運命だった。

 圧倒的な光の眩さ——この子になら焼き殺されてもいいと本気で思った。

 ——名前は?

 ——ランガだよ……だれ?

 ——愛抱夢

 ——アダム?

 考える前に指が伸びていた。

 契約だ。

 無邪気に近づく幼子を抱き上げ首に犬歯を当てた。

 それ以来ふたりの物理的距離とは関係なく、この子が眠ってさえいれば半仮想のこの部屋へ呼び出すことができるようになったのだ。

 吸血鬼の血でもってこの子の血を懐柔——縛った。


「さあ」と手を差し出せば、ランガは素直に愛之介の前へと歩み寄った。

「見せて」

「うん。わかった」

 頷くと彼は身につけたパジャマを脱ぎ始める。

 脱ぎ終えると「どうしていつも俺の裸を見たがるの?」と少し頬を赤らめ、手に持ったパジャマでなんとなく股間を隠しフイッと横を向いた。その恥じらう様子が愛らしくて頬が緩んだ。

「君がちゃんと成長しているかどうか確認しているだけだよ——後ろを向いて」

 くるりと背を向けた彼の白い背中から尻、足へと視線を流していった。まだ未熟な筋肉ではあるが優美なラインだ。あと数年もしたら、どれほど美しい肉体を持った青年に成長するのだろう。

「本当は、もう少し俺が大人になったら食べる気なんじゃない?」

「まさか。そんなもったいないことなんて、しないよ」

「俺を眷属にできるかどうかチェックしているってこと?」

「まあ、そんなところ。けれどそのときになって君が嫌だと言うのなら、無理強いはしない」

 これは嘘だ。心はもう決まっている。

「おいで。次に会う約束——契約をしよう」

 ランガを抱き上げると、ベッドへ横たえ覆いかぶさった。

 その意味を理解した上で、ランガは潤んだ瞳で愛之介を見つめる。ランガは愛之介の首に腕をまわし強請るように引き寄せた。

 白い首筋に顔を埋め牙を当てる。

「ん……あ、あん……」

 ランガは身を捩りながら愛らしい喘ぎを漏らしはじめた。

 吸血は麻薬だ。抗うことのできる人間などいない。ましてランガがそれを知ったのはごく幼いときだ。その意味も理解できず与えられる快楽を無防備に受け入れ、刹那的な気持ちよさを無邪気に求めてきただけだ。

 あと数年だ。

 青年へと成長したランガは、愛之介の官能を大いに満たしてくれるのだろう。

 過去、中には蔑むべき人間に思いを寄せ、執心のあまり堕ちた同族もいたと聞く。そんな連中は木っ端の雑魚吸血鬼だと軽蔑され、取るに足らないものとして処分されることもなく放置された。彼らは人と交わり、やがて血は薄まり人間社会へと吸血鬼の血は溶け分散していったのだという。

 吸血鬼は孤高の存在である己に誇りを持つ。愛は個ではなく種へと向けるもの。他者を求めることも執着することもない。

 それらは浅ましい感情だと老いぼれどもは嘲笑うだろう。

 ああ笑いたければ笑え。ならば吸血鬼が滅びゆく種であることも道理よ。

 自分はランガを決して手放さない。手放すことはできないと認めよう。片翼を取り戻すことができなくとも、この子——ランガの持つ白い翼でより高く翔ぶことを選ぼう。

 しがみつく腕にぎゅっと力がこもる。そして、熱い吐息がかかり、掠れ震える声が耳に甘く響いた。

「愛抱夢……だい……す……き……」