さよなら(吸血鬼シリーズ9)

 愛之助は傍らで眠るランガを起こさないよう、そっと上体を起こす。

 窓から入り込んだ夜風が、アロマキャンドルの細い炎を揺らしていた。

 ランガの額にかかった髪を指でそっとどけるが、彼は目を閉じたまま身じろぎもしない。まるで泣き疲れて眠ってしまった子供のような顔だと愛之介は苦笑する。今のランガは普段より幼く頼りなげに見えた。

「ランガくん……」

 呼びかけても反応はなかった。目を覚ます気配もない。

 今夜の——さっきまでのランガは明らかに様子が普通ではなかった。この腕に抱き寄せてみれば、どうにも拭うことのできない違和感。それが最後まで消えることはなかったのだ。

 いつもの彼は、抱かれてしまえば快楽を追い求めることにどん欲だ。それなのに今日はただすがりついているように感じた。密着した体を少しでも離そうものなら、愛之介の背中にまわされていたたランガの腕に力がこもり、「愛抱夢」ともうひとつの名を何度も何度も呼んだ。

 袖を引っ張られる感覚に視線を落とす。愛之介のナイトウェアの袖を握りしめるランガの白い指が見えた。

 これでは、ひとりぼっちにされることを何よりも恐れる幼子と同じだ。

 交錯した多次元の記憶はランガを混乱させ続けている。沖縄で赤毛と出会ってそれがより顕著になった。あるはずのない記憶が彼の精神に干渉する。

 現状のランガが手に入れ損ねた幸せな記憶ならば、現実に引き戻されたとき大きな喪失感に苛まれる。それが不幸な記憶ならば、近い将来それが起こるのではないかと不安に怯える。

 その度に「僕がいる愛している」と何度でも囁き、その肉体に感じる確固たる現実感で理解させるしかない。ただ愛を注ぎ痛みを伴う強い感覚で彼を満たしていくのだ。君は今ここで、僕に愛され間違いなく存在するのだと。愛之介以外を求める理由など何もないのだと彼が納得するまで。

 上半身をベッドの上に倒し横になり、肩肘で上体を支えランガの髪をそっと梳けば、瞼をピクリともさせず熟睡していた。そんな彼は、お気楽な子供にも見えた。そして目が覚めれば何事もなかったようにけろっとして、いつもの彼に戻っているのだろう。そんなことの繰り返しだ。

 どうしたものか。

 自分に依存してくれるだろうことは想定内だった。むしろ願ったり叶ったりだったといえる。しかしそれでも、ここまで情緒不安定に陥り混乱し苦しむ彼を見たかったわけではない。これは自分が予期していたことから大きく外れる。ただ不覚だった。

 愛之介の口もとに皮肉な笑みが浮かび、続いて苦いものが込み上げてくる。

 誤魔化すな。自覚しろ。依存しているのはむしろ自分なのだと。ランガが愛之介に依存する以上に愛之介自身がランガを必要としているのだ。ランガのいない世界など何の価値もない。

 ふと、無様にもつれ合う白と黒の翼を幻視した。

 なるほど。ふたりで羽ばたくことも許されないということか。

 お互いを欠くべからざる伴侶と認識していたとしても、手を携え高く飛翔することは叶わず、底の見えない暗く深い淵へと翼を絡ませ沈んでいくしかないのだ。

 ならば共に堕ちよう。

 俗闇に別れを告げ、アダムとイヴがいる楽園——エデンへと。