オルゴール(吸血鬼シリーズ5)
父王が崩御した。
報告によれば、あっけない最期だったらしい。
愛之介が父王の命で人間社会の中にひっそりと潜み、王の器候補を探しているとき、その一報を受け取った。
もともと器探しなどは表向きのこと。実際は父王の命令とはいえ素直に従う気はなかった。そこで痺れを切らした愚かな王は、俗闇に降り立ったのだという。
いや……催促されるたびにのらりくらりとかわし、やる気があるのかないのか、わからない息子に不意打ちで説教をかまそうとしたらしい。ちょっとした気まぐれ、お茶目のつもりだったのかもしれなかった。
実に三百年ぶりの人間社会は、父王の目にどう映ったのだろうか。
三百年——吸血鬼など魔族たちにとって、大きな変化など起こらないだろう年月だ。父王も一緒に降り立った臣下も、三百年前の迷信のみが吸血鬼など魔族への対抗手段だった非力な人間のイメージから抜け出せないでいた。
人間世界に降りてすぐにその事件は起こった。愛之介のところまで辿り着くこともできず、殺害されたという。科学という武器を手に入れた人間のハンターにだ。
三百年という年月は、数世代も入れ替わる人間からしてみれば長い歳月だ。その三百年——特に、ここ百年ほどの科学技術の進歩は凄まじい。魔族の持つ魔力など軽く凌駕する力を人族が手にしていたというのに情弱の老体どもは、そんなことなど微塵も知らなかった。知ろうとせず人間を下等生物とただ見下し甘く見ていたのだ。
さて、そのあと起こった問題は、誰が王位を継ぐかだった。当然のごとく愛之介を次期王にという声がほとんどだった。
しかし、そんなこと言われても愛之介は王の権力に興味はなかった。何より、王位に就けば頻繁にランガと会い、彼の成長を見続けることは難しくなる。冗談ではない。
そこで父の摂政であったタカノに王位を押しつけた。虎視眈々と最高権力の座を狙っていたタカノとしては渡りに船、棚からぼたもちだったといえる。狂喜乱舞して小躍りしたいだろう衝動を抑え、わざとらしい渋面を作り「偉大な王の跡を継ぐなど恐れ多いが、自分の使命として精一杯務めさせていただく」などと殊勝なことを言ったときには吹き出しそうになった。
所詮、この男も老いぼれだ。前王と同じく肉体はそろそろ限界。ということで案の定器探しは継続となった。
まあいい。父王より遥かに小物であるこの男は操りやすい。その証拠に奪われていた片翼は難なく取り返すことができた。
「父さんが死んだ……」
その日、部屋に招待したランガは愛之介の顔を見るなりそう言った。
酷い顔色だ。疲労がありありと見てとれる。
「……」
しばし見つめ合い、彼にかける言葉を探した。その短い沈黙にランガは察して目を伏せた。
「そうか。愛抱夢はもう知っているよね……」
ランガの額がコツンと胸に当たり、その頭をそっと抱きしめる。
もちろん知っていた。
「ああ……残念だったね」
父親が亡くなった夜だ。ランガはなかなか眠ろうとしなかった。浅い睡眠に入った瞬間を逃さず、反仮想空間にあるこの部屋へと連れてきたのだ。
父親の死を実感として受け入れるには、まだまだ時間がかかるだろう。
幼いころからランガの成長を見守ってきた愛之介だ。彼と父親の関係はある程度理解しているつもりだった。それでも自分には縁のない親子の情だ。愛之介も最近、父王を亡くしたばかりなのだが、ランガが感じているような悲しみや喪失感を知ることはなかった。それは吸血鬼だからという理由ではない。人間には意外かもしれないが死別による喪失感は吸血鬼に無縁のものというわけではない。人間だろうが吸血鬼だろうが、生前の関係性に依存しているだけだ。
ランガは父親から深く愛されていて、ランガもまた父親を愛していた。自分と父王にはそれがなかった。それだけの話だ。
ランガと父親の強い絆は、眷属に引き入れる際の最大の障害だと考えていた。ならば、その父親が失われたことは、好機と捉えることもできるのだが——迷っている。
吸血鬼の寿命は長いが不死ではない。不死であるのならば、このような滅びゆく種にはなっていないだろう。地上にのさばる人間と違って、吸血鬼はゆっくりと確実に種としての死を迎えようとしている——いわば絶滅危惧種だ。ワシントン条約の附属書Ⅰにでも記載しておいてくれ。
この流れは止められない。吸血鬼のDNAは人間の血と交ざることによってのみ引き継がれていくのだろう。その運命に抗い、すべての種の最上位、支配者であろうとする父王は往生際が悪いと思えた。
しばらくじっと愛之介の胸に体を預けていたランガは、何かを決心したように顔を上げた。彼の顔が間近に迫り、二の腕を強く掴む。指が食い込んだ。
「お願いだ。愛抱夢。父さんを生き返らせて。愛抱夢ならできるよね。もう一度、父さんに……俺を会わせて……」
思いっきり見開いた目から涙が溢れ出した。
ランガの頭を撫でながら、しばし考える。
普通に考えれば不可能な願いだという意識は、当然ランガにだってあるのだろう。吸血鬼にそんな能力があるなんて話は聞いたことなどないと、誰よりもランガが一番わかっているのに、それでも泣きながらそんな無茶なことを訴えずにはいられないのだ。
しかし、ランガの想像に反してそれはできるのだ。やろうと思えばできる。愛之介の持つ特殊能力ならば。
そのことをランガに打ち明けてしまって良いものか——迷いつつもランガには本当のことを話しておきたかった。
「それには代償が必要だ。代償……というべきかどうかわからないが、願った君に何らかの影響が出るっていうこと。良いか悪いかわはわからない。いや……良い影響なんてほとんどないんだよ」
「それは本当? 本当に……できるの?」と、彼は体を少し離し愛之介に真剣な眼差しを向けた。
「可能か不可能かと問われれば、可能だ。それでも僕が介入できるのは小さなことだけなんだ。大きな歴史の流れ、本流には介入できない」
「それなら死んだ父さんを生き返らせるなんて無理じゃないの?」
「君のお父さん——いや、誰であっても個人の死は大きな歴史の流れから見れば、些細なことなんだ。ほとんどの人の生死は歴史の本流に影響を与えない。川に小石を投げ込んでも流れが変わったりしないようにね。それと、生き返らせるというのとは違う。僕ができることは、君のお父さんが亡くならないよう、過去を改変し仮想未来——未来の可能性を探ることだけなんだ」
「そう……だったらお願い。父さんが死なないような未来になるようして。何でもするから」
「僕の特殊能力は、吸血した相手の血を辿り過去に介入し仮想未来を視る。お父さんが生存している未来に改変したとしても、君がお父さんに会いたいという願いが叶うとは限らない。最悪ランガくんがいない世界になってしまうかもしれないんだよ。それでもいいのかな」
「いいよ。父さんと母さんが、幸せならいいんだ。父さんがいない世界なんて俺にとって、どうせ意味なんてないんだから」
自棄になっているのか。疲労も併せ、今のランガにまともな思考力も判断力もないと考えたほうがいいのかもしれない。それでも、冷静になったとしても彼の決心は変わらないように思えた。
ランガの頭を撫で、あやすように背中をポンポンと軽く叩いた。
「きみの心は決まっているようだね。わかった。できる限りのことはしよう。だが君がいなくなる未来に繋がってしまうようなことはしない。できない。僕にとってランガくんがいない世界など価値はないのだから。それがクリアすべき最低条件だ」
「いいよ。少しでも可能性があるのなら、お願いだ。愛抱夢」
すべてを明かしたわけではないが、嘘は何も言っていない。騙しているわけでもない。
ランガの首筋に牙を当てた。
「次に目が覚めたとき、現実世界にいても君は、僕のことやここでのやり取りを覚えている。迎えに行くから部屋の窓はロックしてはダメだよ。そのとき改めて僕と血の誓約を交わし君の血を通して過去に介入しよう。後戻りはできないよ。いいね」
「ランガくん、起きて」
体を軽く揺すった。
「ん……」
顔をしかめ、うっすらと開いた瞼から青い瞳が覗いた。
「僕が誰だかわかる」
目を擦りながらランガは体を起こした。
「愛抱夢……来てくれたんだ」
「そう。迎えに来たよ。……おいで」
手を差し出せば、ランガはその手を迷わず取った。彼の体を引き寄せ、首に牙を当て強く血を吸う。この量の吸血は初めてだった。この力を行使するにはある程度の量の血が必要だった。
首筋から口を離すと同時に、がくりと崩れ落ちるランガの体を腕に抱き留めた。
——ゆっくり、おやすみ。ランガくん。次に目が覚めたときには、すべてが終わっているよ。せめてこの選択が、君と僕にとって平穏な結末に繋がることを祈ろう。
あれからランガは静かに眠り続け一週間になる。いつ目を覚すのか。それは今日かもしれないし、一ヶ月後、あるいは一年後かもしれない。
ランガの枕元に座って話しかける。それは日課だった。
「君はお寝坊さんだね。いつになったら目が覚めるんだい。僕もね、力を使い過ぎてしまって少々疲れたよ。だから今は休養中。ああ、庭の薔薇が盛りだ。この屋敷の庭園にはたくさんの種類のバラが植えられている。この寝室にも飾っておいたよ。真紅の薔薇だ。とてもいい香りだろう。このバラの香りが僕は一番好きなんだ。力強いのに澄んだダマスク香。すごく古い品種でね。見た目にはもっと形の整っている薔薇もあるんだけど、香りはこれが一番だ」
額にかかる前髪を指で退けた。あどけない寝顔だった。
「目が覚めたら君は人間ではなくなった自分に戸惑う——いや、怒るだろうか。約束していた最終確認を取らずに君を僕の眷属——吸血鬼にしてしまったことを。これしか方法がなかった。そうしなければ君は消えてしまっていた。もともと存在しないものとなってしまうんだ。瞬時に決断を下さなければいけなかったから時間をかけて考える余裕なんてなかった。これが僕の力の限界……」
ランガの血を介して過去へと遡ってみたところ想定外のことが判明した。ランガと血のつながりのある両親の過去へと介入する必要があったのだ。理論上、可能なことは知っていたのだが、はじめてのことだったので少々慌てた。それでもなんとか対処できた。
ランガの父親の生死についての分岐点、それは予想していたよりも過去——ランガが誕生する前にあった。父親の命を救うには、ランガが生まれない時間軸に修正することが必要不可欠だったのだ。
なんと皮肉なことか。
しかし、当初に交わした約束どおり愛之介としては、ランガを失うわけにはいかない。そこで急遽ランガを自分の眷属にして、人間の時間軸から切り離した。
父親を失ったまま人間として生きるランガの仮想未来も視た。
そこで知ることになったランガの持つ、いくつもの可能性。親しい友人もいなかったランガに親友ができること。大勢の仲間たちと楽しく笑い合えていること。アスリートとしての輝かしい活躍も視えたのだ。
ランガの幸せだけを願うのなら、たとえ父親を失ったままであったとしても、過去の改変などせずに人として与えられた人生を全うしてもらうべきだったのかもしれない。
父親との死別で負った喪失感も哀しみもいつか癒える。必ず乗り越えることができるのだ。未来には新しい友人たちとの出会いもある。ランガの前には無限の可能性が満ちていた。
だとしても、こうしてしまったことに後悔はない。これは自分のわがまま——切実な譲れない願いを最優先させただけのことなのだ。
ランガを手放すことなど考えられない。耐えられない。おそらく自分は純血の吸血鬼として最後の生き残りになるだろう。ならば、その最期の瞬間まで運命の伴侶と共にありたい。それを願って何が悪いのか。
当初、ランガを吸血鬼にするのは、もう少し成長してからの予定だった。あと五年……許されるのなら十年ほど待って、自分と同じ肉体年齢になってからが理想だったのだが、これも抗えない定めだったのかもしれない。
花瓶に先ほど庭で摘んだ澄んだ香りの芍薬の花を生けていたとき、ランガの寝返りを打つ気配に振り向いた。
ついに目覚めのときだ。らしくもなく緊張する。
ランガは、うっすらと目を開き、ぼんやりと天井を見つめていた。
「おはよう、ランガくん」と声をかける。
首をゆっくりと回したランガと目が合った。体を起こそうとするランガの背中を支える。
「愛抱夢? ここはどこ?」
「僕たちの愛の居城」
「あれ……なんか体が変だ」
ランガは自分で自分を抱くように腕を胸の前でクロスして、うずくまった。違和感があるのは当然だ。
「落ち着いて聞いて欲しい。君はもう普通の人間ではない。僕と同じ吸血鬼だ」
ランガはかっと目を見開き、掴みかかってきた。
「だって……約束! 俺まだ決めていない。俺のこと騙したの? 父さんを助けるって嘘をついて」
「安心して。君のお父さんが生きている時間軸に改変することはできた。けれど、それをすると、どうやっても君が消えてしまうんだ。君が生まれなかった世界にしないとお父さんを救えなかった。でも君が消えてしまう世界には絶対にしないと説明したよね。そこで咄嗟に君を僕の眷属にした。君が消えてしまわないためには、こうする他なかったんだ。君に確認を取れなかったこと、許してほしい」
腕を掴む指の力が、ふっと抜けて、ランガは愛之介の胸に額を押しつけほっと息を吐いた。
「そう……父さん生きているんだ。よかった……よかった……」
「確認しに行くかい? 元気なお父さんを」
「うん」
木製オルゴールの蓋が開く。静かに奏でられるのはアダージョ。哀愁を帯びたメロディーだ。
その旋律に聞き入っていた女性の瞳からポロリと涙が落ちた。
「菜々子。どうしたんだ。何を泣いている」
部屋に入ってきた夫が妻の肩をそっと抱いた。
「なんでもないわ。不思議ね……なぜ涙が出たのかわからないのよ。このオルゴールの音色を聞くと切なくて胸が締めつけられる——なぜかしら。何か大切なことを忘れているような気がして……」
「長い間、待ち望んだ子供が生まれるんだ。神経質になるのは仕方ないけど、リラックスして。胎教のため買ってきたオルゴールなのに、聞いて泣いていては世話がないよ。まったく」
じきに母になる彼女は、ふっくらとしかけたお腹を撫でた。
「ふふふ……そうね。ありがとう。オリバー。でも、結婚してすぐ、妊娠もしていないのに胎教の為だってオルゴールを買ってくるなんて、気が早かったわよね。あなたは」
「確かに。それがよくなかったのかな。本来の目的にはなかなか使えなかったね。ずいぶん待たされた。そうそう、名前はもう決めてあるんだ」
「男の子か女の子かもまだわかっていないのに?」
「男の子でも女の子でも大丈夫な名前だよ。ランガにしよう。もちろん君が良ければだけど」
「どういう意味?」
「子供とは一緒にスノーボードをやりたいんだ。それなら雪にちなんだ名前だといいなと考えて色々調べた。そうしたらイタリア語で雪崩のことを〈valanga〉っていう。それで半分だけ取って〈Langa〉だ。どう?」
「そんな風にぶった斬った名前、雪と関係する意味になるのかしら。……あら?」
菜々子がチラリとオルゴールを見た。
「どうしたんだ?」
「一瞬、見えたの。男の子が——水色の髪の小さな男の子がオルゴールをニコニコ笑いながら覗いているところが。間違いない。生まれてくるのは男の子よ」
「おいおい。本当か?」
「ふふ……でも、意味はともかく、ランガ、ランガ、ランガ……いい響きね」
——ランガ……
「ランガくん、気が済んだかい?」
もうすぐ父と母になろうとしているふたりを、気配を消し窓からそっと見守っていた少年の肩に手を置いた。
振り向いたランガは、手の甲で涙を拭った。
「もう、父さんも母さんも俺のこと、覚えていないんだよね」
「そういうことになるね。ここは君が存在しない世界なんだ」
「生まれてくる子供は、俺の弟か妹になるのかな?」
「そうだとも言えるし、君そのものとも言える」
ランガは不思議そうな顔をして首を傾げた。
「どういう意味?」
「君のもう一つの可能性ってことだよ」
「難しくてよくわからない。……あのさ、暖炉の上に写真が置いてあっただろう。前は家族三人で写っていたんだ。でも、父さんと母さんふたりの写真になっていた。生まれたらまた三人になるね。あとさ、オルゴール。あれは、胎教にと結婚してすぐに父さんが買ってきたと聞いた。気が早いって母さん笑っていた。アダージョ……だったかな。小さな頃はよくオルゴールの蓋を開けては聞いていた。聞くと落ち着くんだ」
「そうかい。オルゴール、君が欲しければ探させよう」
「ありがとう。でも違う曲がいいかな。明るい曲が。あとさ……俺、本当に、いない人間なんだなって……よくわかったよ」
そうだ。この世界のどこを探してもランガが存在した痕跡を見つけることはできないだろう。
「僕を恨んでいる?」
ランガは首を横に振った。
「あなたは精一杯、できる限りのことをやってくれたんだ。俺がここに残ろうとしたらどうやっても、父さんは救えなかった。そうだろう?」
「ああ。僕の力が及ばなくて済まなかったね」
「気にしないで。わがまま言ってごめん。俺が決めたことなんだ」
「では帰ろうか。僕たちの愛の居城へ」
バサリと翻ったマントでランガを包み、愛之介はそのまま窓辺から飛び立ち闇空へと吸い込まれていった。
それからしばらくの間、屋敷に篭もり静かな時間をゆったりと過ごすことにした。
ランガはひとりで眠るのを不安がり、いつも愛之介のベッドの中へと潜り込んでくる。愛する両親の中から自分の存在がすっぽり消えてしまったのだ。これは一種の分離不安症と解釈できるのだろう。
そんなランガを抱きしめキスを交わし素肌と素肌を直接重ね、全身隈なく愛撫し——と、やることは所詮人と人とのまぐわいと変わりはしない。そこに吸血の催淫効果がプラスされるくらいだ。
人間とは違う吸血鬼の身体感覚に戸惑い混乱もしているが、いずれ慣れるだろう。人として生きた年数の習慣、嗜好などが吸血鬼になったからといって、そうそう変化するものではない。現にランガは今でもまだ血が苦手だ。愛之介の血を欲するようになってくれるのは、まだずっと先になるのだろう。
人間だってミルクから始まり、成長に従って離乳食、そしてやっと通常の食事になるのだから似たようなものだ。少しずつ練習していけばいい。
ランガが吸血鬼の肉体に慣れ、安定するまで何年でも焦らず待つつもりだ。
忠は、従来通り従僕として愛之介に仕え、同時に新王タカノの目として愛之介を監視していた。もっとも父王の精度には及ばず、その目を欺くことは造作もないことだった。
そういえば、タカノがランガを見つけ、不満を露わにするというアクシデントがあった。眷属とする前になぜ自分にその肉体を器候補として報告しなかったのか。あと十年もすれば理想的な器に育っていたのかもしれないのにと。無論、従僕の口を通してだった。
ブツブツとうるさかったが、「この少年は器として適合者ではありませんでした」としらばっくれた。所詮、傀儡として王に仕立てた老いぼれに過ぎない。寄る年波に勝てるはずなかろう。
吸血鬼の寿命は長い。その長き時間を持て余し何の目的もなく——あってもせいぜい権威欲をを満足させることくらいで、ただ刹那的な享楽のためだけに、殺戮と残虐なゲームに明け暮れる。それが父王だった。タカノはそれをスケールダウンしただけのくだらない男だ。哀れなことだ。
そんな男のために器を探す気は、露ほどもなかった。いずれ器が見つかったと虚偽の報告をし、タカノが俗闇へと降りてくるように仕向ければよい。
そのとき吸血鬼ハンターにタカノを狩らせる。すでにそのための準備を着々と進めているのだと聞いていた。愛之介も秘密裏にハンターたちに協力し、情報を提供している。
そう、忠も知らないところで愛之介とハンターは密かに手を結んでいた。
自分が直接手を下すことは簡単だ。しかし、それをするとなるとランガに危害が及ぶリスクがある。ランガは自分の弱みであると、ぼんくらタカノですら認識しているとみて間違いないのだから。
自ら動かないで済むのならそれに越したことはないのだ。最後まで愛之介はタカノを補佐する優秀な臣下であり次期王だ。
ふたりの生活が少し落ち着いてきたあたりで、ランガがポツリと言った。
「愛抱夢の中から俺が消えたりしないよね」
「何を言い出すのかな。ランガくんは。それは絶対にないから安心してほしい。僕たちは血の刻印の下に繋がっている。それはどうやっても切れないんだよ。それに何より僕は君を愛している」
ランガは目を輝かせ「愛抱夢……大好き」と抱きついてくる。すかさず後頭部を掴み柔らかい唇にキスをした。
毎夜のセックスは省くことのできない儀式だ。
まだ人間と同じ食事しか摂れないランガに精気を分け与える意味合いが大きい。もちろんそれだけではなく、ランガにとっては精神安定剤のようなものなのだろう。愛之介にとっても、欲望を充足してくれる刹那的な快楽であると同時に癒しだった。
同族に引き入れる前——まだ人間の子供であったランガに吸血されることの快感を教えている。幼いランガは意味もわからず愛らしい喘ぎを聞かせてくれた。あまりにも非道な所業だと今更ほんの少しだけ胸が痛むのは、人間社会で長い時間を過ごし、人の思考や感情に馴染み過ぎてしまったせいだ。
それにしても、今のランガは快楽を求めることに躊躇いがない。
今も、きれぎれの激しい喘ぎ声が白い喉を震わせている。その鳴き声は愛之介の快楽中枢をコントロールできない強さで刺激した。
そうだ。さすが僕のイヴ——最高に官能的だ。
ベッドの上で体を繋げたまま、天使の白い羽と取り戻した黒い両翼がパタパタと羽ばたき絡み合った。
不思議なことに、はじめて肌を合わせた瞬間から、何もかもがしっくりと馴染んだ。ランガは愛之介が望むように自らの肉体を迷うことなく差し出してきた。愛之介もランガは体のどの部位が感じやすいのか、どう扱われるのが好きなのか、肉体の隅々を当たり前のように知り尽くしていた。言葉を交わさなくても、まるで長い年月をともにした恋人同士のように。
そんなこと当然のことではないか。ランガは唯一無二の探し求めた存在——イヴなのだから。
滑らかな白い肌。とろけそうに柔らかい唇。それなのに、しっかりとした骨格。若い筋肉。
未成熟な危うさを持った肉体はひたすら甘く、愛之介を酔わせた。
自分の荒々しい息が、ランガの鳴き声が、体を合わせぶつけ合う音が、深い闇の中へと溶けていく。
求め合うふたつの魂が共鳴している。抱き合ったまま大きなうねりの中へと、愛之介は飲み込まれていった。
そこは深い深い海の底……深淵にある楽園——エデン。
重い体をゆっくりと持ち上げた。頬に手のひらを当てれば、うっすらと開いた瞼から青い瞳が除き、ランガの形のいい唇が淡い笑みをつくる。
その儚げな風情に得体の知れない恐怖に囚われた。
——消えないでくれ……
「ランガくん!」
呼ぶ声が思わず大きくなった。ランガは目をパチパチさせて不思議そうな顔で愛之介を見た。
「どうかした?」
「あ、いや……そうだ、ランガくんがもう少し落ち着いたら、心臓を交換しよう」
「えー? 交換って何か意味があるの? 手術するのは嫌だからね」
「まさか。そんな物理的な交換ではないから手術なんてしないよ」
「交換するとどうなるの?」
「ふたりの命が共有される。君の死は僕の死になり、僕の死は君の死になる。もちろん君が嫌でなければの話だ」
「言っていることがよくわからなかったけど、いいよ。それで。だって俺、愛抱夢のいない世界で……ひとりぼっちは嫌だから」
「僕もだ。よかったよ……意見が合って」
「そうだね」
「それと、心臓を交換したら、ふたりで旅に出よう」
「旅ってどこへ?」
「世界中」
「それならスノーボード、またやりたいな」
「もちろんできるよ。君はスケートボードやったことある?」
「ないんだ。スノーボーダーは結構スケートやっていたから、俺もオフシーズンにやってみようかなって思っていたんだけど……」
「ではやってみよう」
「愛抱夢はやったことある?」
「実はある。しかも結構すごいスケーターだったりする」
「へえ。滑るの見てみたい」
「では、早く旅へと出発できるよう、君は吸血鬼の体に慣れないとね」
「わかった。頑張るよ」
あと数年はかかる気はするが、吸血鬼にはさほど長い時間ではない。心臓を交換したら出発しよう。世界中をふたりで見てまわろう。
吸血鬼のプライドも美学も拘りも……ランガ——イヴという存在の前には、もうどうでも良いことに思えた。
何もかもを捨ててふたりで旅立とう。
それは……最後の吸血鬼が、ただ終わりへと向かう旅。
了