蛍(吸血鬼シリーズ6)

 しばらく滞在する予定であるそのコテージからは、草原が見渡せた。そしてその先には小さな湖と深い森が続く。

 オーナー夫妻がこの静かで美しい自然に魅せられ数年前に建てたという。その環境の良さと夫妻の人柄が評判を呼んで、さらに増築する予定だと聞いた。

「カナダは久しぶりだろ」

「そうだね」

「スノーボードのシーズンではなくて申し訳ないけど」

「気にしないで。スノーボードはゲレンデのあるところならどこでもできるし。……それに多分ここ、小さいころ来たことある。地名なんて覚えていなかったから、ここの風景を見て初めて朧げな記憶が蘇ったんだ。宿泊したのは、このコテージではなかったと思うけど、多分近くだよ」

 そうだ。確かこの近くに別のコテージがある。

「そうか。偶然なのか運命なのか……懐かしいかい」

「うん。いろいろ思い出すね」

 オーナー夫妻の説明では、冬には小さなゲレンデで遊べるが、夏である今は近くの湖で釣りができる以外、特に目を引くアクティビティがあるわけではないと言う。ただぼんやりとくつろぎ森を散策するくらいの静かな時間に癒されるだけの場所だと笑った。

 昔と同じ、何も変わっていない。森や草原や湖を吹き抜けてきた風が運ぶ、樹々や草や水のにおい、静かな世界が心地よかった。

 結局、ランガが吸血鬼の体に慣れ心臓を交換するまでに六年かかった。それから約束通り、ふたりで世界中を旅してまわっている。

 極寒の雪原から灼熱のサバンナまで世界中を巡るのは楽しかった。暑いのは苦手というのは人間だったころと変わらない。吸血鬼になってまで熱中症でぶっ倒れたのには驚いた。

 愛抱夢の説明によると。吸血鬼とはいえ肉体も精神も半分以上が俗世に固定された人間のものだから別に不思議なことではないらしい。人間だった頃の気質や嗜好や体質をそのまま受け継いでいるという。食べ物もそう。好物は変わらない。では生まれついての吸血鬼はどうなの? と問えば、僕だって俗世に固定されているからこそ、こうして人間界に存在し活動できるんだ——などと意味不明なことを話される。その説明はよくわからないと言えば、そのうちわかる——とまたもやはぐらかされた。

 たまに秘書である忠——愛抱夢が言うところの従僕——が合流してくることがある。ただ、忠は、いつもさりげなくそばにいて、あまり行動を共にすることはない。

 愛抱夢は人間社会に溶け込み、表向きにはさまざまなビジネスを手がけていた。有能な愛抱夢の秘書はそのビジネスにとってなくてはならない人材らしい。愛抱夢が大きな信頼を寄せていることは間違いないのだろう。

 吸血鬼だって人に紛れて生活、まして旅をするにはそれなりに金がいるのだ。金儲けもおろそかにできないと愛抱夢は笑う。ならば、俺は何もしなくてもいいのかと訊けば、いろいろ勉強して世の中がわかってきたら手伝ってもらうけどそれまで僕は君の保護者だ。ある程度は僕が教えるけどいずれ家庭教師でも雇うから覚悟して——などと言われて少々面白くなかった。

 その宣言どおり六年の間なぜか勉強させられた。退屈であったけれど、今から思えば、人間社会の中にいて馬鹿にされない程度には、まあ役に立ってはいる。

 ただ、ランガの見た目はあの頃とは全く変わらないティーンのままだ。精神年齢——特に恋愛感情的なものは肉体年齢に引きずられるという。だからランガを子供扱いすることは当然だと愛抱夢は主張する。本当は成人しているだけの年月が経っているはずなのに。


 夕食後、コテージ周辺を散歩することにした。

「外へ行ってみようよ」と愛抱夢を誘ったのだけど、タバコを燻らせながら「これ吸い終えたら追いかけるから先に行ってて」と言われた。

 時間は夜の九時近かった。日の入り直後の薄暗い草原を見渡せば、ランガと同じように周囲を散策する人が散見される。幼い子供も目につき家族連れが多いことがわかった。

 目的は——

 無数の黄緑色の光が飛び交っていた。ホタルだった。これも昔のままだ。とにかくすごい数のホタルだ。ホタルがそこまで珍しいものではないのだが、この数には圧倒される。

 ——まるで草原が燃えているみたい……

 母さんのはしゃぐ姿が目に浮かんだ。

 ふと草むらの中でモゾモゾと蠢く影に気がつく。

 野生動物か? と目を凝らせばどうやら人間の子供のようだった。近くに親らしき人影は見当たらない。

 その子供が立ち上がりランガの方を向き、目を瞬いた。

 六歳か七歳くらいだろうか。そんな小さな子供が親から離れてこんなところにいるなんて不用心過ぎる。繁華街ではないのだから、そこまで危険な人物はいないとは思ったが、一応声をかけた。

「君はひとりなの? お父さんとお母さんは?」

 訊けば子供は黙って指差した。その方向にはランガたちが滞在しているのとは別のコテージがある。

「ひとりでここまで来たのかな?」

 子供は頷き「光っていたから」とぽつり。

 ホタルに気を取られ、ここまでひとりで来てしまったのか。それにしても口がまわる子供ではないらしい。昔の自分がそうだったが。

「お父さんもお母さんも心配している。俺が送っていくよ」

 そう言いながらゆっくりと近づき、しゃがんで子供の頭を撫でようとして手が止まる。

 薄明かりの中でもわかる青い瞳、水色の髪。

 この子は……

 そのとき「ランガー!」と子供を呼ぶ声が聞こえた。

「どこにいるの。返事をして」

「あ……父さんと母さんが呼んでいる……」

 子供はランガに「ありがとう」と小さく手を振ってから背を向け両親の元へと走って行った。

 親子の会話が聞こえてくる。

「ランガ。そこにいたのね」

「黙って出て行ってはダメじゃないか」

「もう、心配かけて」

「ごめんなさい。窓からたくさんのホタルの光が見えたから」

「そうね。まるで草原が燃えているみたい……でもダメよ。ひとりで出て行っては」

 ——まるで草原が燃えているみたい……

 母さん……

 そうか。あの子は。もうひとりのランガなんだ。

「ランガくん。待たせて悪かった」

 名を呼ばれ振り向けば愛抱夢が立っていた。

「もう……タバコ吸うのに何分かかるんだよ」

「ははは……ドアの前でここのオーナーに捕まっちゃってね、世間話につき合わされたよ」

「自分だって結構ノリノリで話していたんだろう。どうせ」

「バレたか……それにしても」

 愛抱夢は草原に視線をやった。ランガも同じ方向を見やる。

「すごいホタルの群れだ」

「昔のままだよ……」

「ここの景色のこと?」

「そう……ホタルがたくさんいて……思い出したんだ。この近くにコテージがあってそこに父さんと母さんと泊まったんだ……夜、窓からホタルの光がたくさん見えて……ホタルを見たの初めてじゃなかったんだけど、こんなにたくさん群れて光っているのは見たことなくて、ついフラフラと外に出ちゃったんだ。父さんと母さんがほんの少し目を離した隙にね」

「そりゃ、両親心配しただろう?」

「そう……血相変えて探しにきた。最初はコテージ内に隠れているのかと軽く考えたらしいんだけどいなくて、焦って外を探し回ったって後で説教された」

「君は今でもそういう——なんていうのか、何かに気を取られるとそっちに夢中になるようなところあるからね」

 愛抱夢はニッと笑って頭を撫でてくるからその手を払い除けてやった。いい加減子供扱いされるのはムカつく。

「俺、そんな子供じゃない」

「そうやってムキになるところがね」

 何も言い返せないことが悔しくて、黙ったままゆっくりと明滅するホタルを眺めていた。

「知っているかな。ホタルは光で愛を囁いているんだ。光の瞬きとか微妙な違いで意中の相手に恋人がいるかどうかを判断している」

「え? 愛抱夢は虫のことにも詳しいんだね」

「僕は虫について詳しいんじゃない。愛について詳しいんだ」

 詳しいことには変わりないんだからいいじゃないか。それなのに妙なこだわりがある。

 それから、二時間くらい草原周辺をふたり寄り添い散策していた。ふと気づくとホタルの光が弱まったような気がした。

「あまり光らなくなったね」

「そうだね……おそらく相手が見つかったんだよ。僕たちもそろそろ部屋へ戻ろうか」

「わかった」


 部屋に戻って時計を確認すると深夜になっていた。シャワーを浴び、寝支度を整える。

 ベッドに腰掛ける愛抱夢の膝に乗り、彼の首に腕をまわす。軽く唇を重ねてから、パジャマのボタンを外しゆっくりと胸を開いていった。分厚い筋肉に覆われた逞しい胸を指でなぞっていく。愛抱夢はそんなランガの頭を撫でた。

「欲しくなったのかな」

「うん。いい?」

「もちろん、どうぞ。それにしても慣れてきたね。最初のころ、あんなに嫌がっていたのに。少しずつ吸血鬼らしくなってきたかな」

「食事ではない……特にお腹が膨れるわけでもないのに心が欲しがるんだ。体の中で血を通して愛抱夢と色々繋がっているような感覚になる。うまく説明できないけど」

「それは嬉しいな」

「あ、言っておくけど、俺、愛抱夢以外の血は絶対に嫌だし、あなた以外から吸われるのも嫌だ」

「ふふふ……僕だってランガくん以外は、吸うのも吸われるのも頼まれたってお断りだよ」

 ランガは愛抱夢の胸に唇を押しつけ、くすぐるように舌を這わしてから、ちょうど良さげな場所を探り出し牙を当てた。

 つっと吸えば、口の中に広がる甘い香りにうっとりする。吸う度に愛抱夢の体がピクリと震え、ランガの肩を掴む彼の指に力が入った。

 この瞬間がランガは好きだった。

 ランガは胸から顔を離し「ごちそうさま」と唇を拭った。

「満足した?」

「うん。愛抱夢も?」

「そうだね」と答えた愛抱夢が、ランガのパジャマのボタンに指をかけた。

「血を吸うだけではなくてね。君の全てを全身全霊で愛したい。どうかな」

「俺も……」

「あーでも、今の僕はブレーキが効かず一方的になってしまうかも。いいかな」

「いいよ。俺、あなたに好きにされて嫌だと思ったことないから」

「それなら遠慮なく」

 愛抱夢は目尻を下げ嬉しそうな笑顔で唇を重ねてきた。


 戯れるようなキスを飽きることなく繰り返し、全身をていねいに愛撫したあと両膝を割り、熱いものが入ってきた。

 徐々に呼吸は乱れ動きは激しくなっていく。獰猛な怪物がランガの下半身に喰らいつき鋭い牙で内臓を食い荒らしていく。そこまでイメージして、そもそも吸血鬼は怪物だしランガ自身もそうだったことを思い出す。自分はいつまで経っても人間気分が抜けていないらしい。

 とめどなく口から喘ぎが漏れる。そんなランガを見ながらキスをしようと体をかがめたとき腰がグイッと進み、その瞬間走った衝撃に、鋭い悲鳴が喉から迸った。

 その音量にランガ自信がぎょっとする。一棟一棟は離れているし窓はきっちり閉まっているとはいえ、頭の片隅が冷える。察した愛抱夢が言う。

「防音はチェック済みだから、安心して。気を散らさない」

 愛抱夢がランガの脚を抱え体重を強くかけてくれば、結合がぐっと深くなる。ランガは白い喉を反らせ小さく呻いた。

 うっすらと目を開けば深紅の瞳があった。ランガをただ見つめている。腰の動きが速く激しくなっていき、ランガの中で硬さを増した愛抱夢のモノが、奥を突き上げた。思考が切れ切れになる。痺れるような感覚。逃げようと無意識にずり上がっていった腰を引き戻された瞬間——悲鳴のような鳴き声が夜気を震わせた。

 それでも愛抱夢は漕ぐ力を緩めない。柔らかい粘膜を抉り奥へ奥へと……ふたりの体が粉々に砕け、残ったふたつの核が、光を帯び混ざり合いながら暗い淵へと沈んでいった。

 それは、永遠に番う魂——ランガの中に愛抱夢がいて愛抱夢の中にランガがいる。


 ずっしりと重い……なのに心地良い。心を落ち着かさせてくれる重さだ。覆いかぶさり荒い呼吸を繰り返す愛抱夢の背中に手を回す。汗でしっとりと濡れていた。

 のしかかっていた重みが消えたことで、ランガはまぶたを開いた。霞んだ視界の中で見下ろす愛抱夢にようやく焦点が合った。深紅の瞳がランガをじっと見つめていた。

 彼の指がランガの髪に触れた、ランガは微笑んだ。

「ねえ、もうひとりの俺……幸せになれるかな」

「ん? どうして急にそんなこと。この場所に来て子供の頃の思い出に浸っていたせいかな」

「……きっと、そう。なんとなくね。まだ子供だろうけど、いずれ俺が追い越されるんだなって」

「僕が視た仮想未来は絶対ではないけど、幸せだよ。もちろん成長していくうちに色々なことはあるだろうし、悩んだり苦しんだりも当然するだろう。人間にとって乗り越えられないようなものではないよ」

「ふーん。それなら、もうひとりの俺は、もうひとりの愛抱夢と会えるのかな?」

「もうひとりの僕か……吸血鬼は数えるほどしか残っていないからね。もうひとりの僕が存在するとしたら人間のはずだよ」

「そうか……あの子も……もうひとりの愛抱夢に会えるといいな……」

「あの子?」

 ちょっと言葉の選択を間違えたけど、そこは笑ってごまかそう。

「何でもない。気にしないで」

 ランガは微笑み、愛抱夢の頭を引き寄せ唇にキスをした。