花火(吸血鬼シリーズ8)

 ひゅるひゅるるーとうねりながら夜空を駆け上がっていった打ち上げ花火は、色とりどりの大きな花を咲かせた。やや遅れてドーンという爆音が鳴る。光と音の速度には差があって目と耳に伝わる情報がずれるのだ。

 ドン、パパン、バリバリバリ……花火大会、終盤のクライマックス。立て続けに打ち上げられる花火は次々に上空で開き、火花が雨のようにように海へと降り注いでいった。

 日本の花火は繊細で演出は美しく芸術的だ。

 明かりを落としたホテルの一室で愛之介はランガと花火を見物していた。

 チラリとランガの様子を確認すればホテルの窓に顔をくっつけるようにして真剣に魅入っている。パッと花火が開いて消える直前に放つ強い光露が、ランガの顔を照らし表情に深い陰影をつくった。

「どうかな。はじめての日本の打ち上げ花火は」

「すごい。綺麗だ。ここから見えるなんてラッキーだね」

「ふふっ……偶然だったけどね」

 そっと彼の肩に手を置く。

「どう? 少しは気分が晴れたかな」

「え……あの……」

 困惑した顔で口ごもった彼の頭をポンポンと軽く叩いた。

「この僕が気がつかないはずないだろう。話したくなければ話さなくてもいいよ」

「ごめん。でも別に嫌なことがあったわけじゃないんだ。むしろすっごく楽しかった。沖縄のスケーターと滑って……」

「ほう……どんなスケーターだった?」

「今年から社会人だって言っていたから、年齢は……俺が人間だったら多分同じくらいなんだと思う。すっごく楽しそうに滑る人だった。だから一緒に滑ってたくさん笑って——俺も、とても楽しくていっぱい笑った……」

「ふーん。それなのに泣いたんだ」

「泣いてなんか……」

 そこまで言いかけて彼は目を伏せた。

 ホテルの部屋で自分を待っていたランガのぼんやりとした心ここに在らずといった様子におや? と思い、彼が顔を上げた瞬間わかってしまった。目が充血していて目尻が赤く腫れていたのだから。かといってその場で追求して彼を困らせたくはなかった。

 それでも……

「ランガくん。僕の目は誤魔化せないよ。今の君はとても辛そうだ。話して楽になると思えるのなら話してくれないかな。解決策が見つかるかもしれない」

 ランガは黙ってうなずいた。

「あのスケーターともう二度と一緒に滑れないんだなって思ったら、なんでだろう。涙が止まらなくなって……割り切っていたはずなのに。今までだってもう会えないんだなって寂しい思いをすることもあったけど別に泣くほどではなかったんだ。こんなこと今までなかった……」

「どんな人だった?」

「うん。印象的な赤毛だったよ。不思議な人だったんだ。初対面のはずなのに懐かしい感じがして。どうしてだろうね……俺、この人から昔スケートの楽しさ教えてもらったんだな。たくさんの仲間と一緒に滑ったんだなって思い出したんだ。でもさ初めて会ったんだからそんなわけないのにね。俺、どうしちゃったんだろう。頭おかしくなったのかな。記憶捏造しちゃうなんて……」

 ——赤毛か……

 愛之介が視た仮想未来で覚えがある。ランガの親友になる可能性を持った少年が赤毛だった。

 あるはずのない赤毛と過ごした時間の記憶。それは別のランガが辿っただろう時間軸だ。あのとき愛之介が介入していなければ彼の父親が命を落とし全く違うルートを生きていて、あの赤毛と出会っていた。そして、普通の少年たちのように青春を謳歌することになったのだろう。

 無限にあるだろうランガの可能性——交錯するはずのない並行世界——そのはずが愛之介の介入により接触し綻びが生じた。そのため別ルートの記憶と繋がってしまったのだ。これからも、このようなことは何度でも起こるに違いない。その度にランガは混乱して情緒不安定になることは避けられない。しかし、かといってこれ以上介入することはリスクにしかならない。

 今の自分にできることは……

 ランガを抱きしめ耳元に唇を寄せた。

「僕が君の未来を変えてしまったからなんだ。変えていなければ辿っただろう君の記憶が流れ込んできたせいなんだよ。辛い思いをさせてすまなかったね」

「愛抱夢のせいじゃないよ。あなたが変えてくれなければ父さんは死んでいた。でもそれより……俺が覚えている愛抱夢についての記憶は本物なの? 小さいころから一緒に遊んでくれていた、あの思い出も、もしかして……と思うと俺……」

「大丈夫だよ。それは本物の記憶だ。ふたり共通の思い出なんだ。間違いない。不安だったら直接僕に訊けばいい」

 肩口で彼がほっと息を吐くのがわかった。

「よかった……」

 からだを少し離して彼の頬に手のひらを添えた。

「忘れないで……僕たちは人生も生死すら共有している運命共同体なんだ。これから何年も何十年もかけて僕と君の愛へと記憶を塗りつぶしていくことになる。だから……怖がらなくていい。僕がついている。君は何も心配しないで」

 こくりとうなずきランガは窓に視線をやった。すでに外は静かだ。

「花火……」

「終わったようだね」

 華やかに開催されたショータイムは、いつの間にか閉幕していた。

 見物客は散り散りに帰途につき、花火大会の興奮を引きずった一部の連中は、今頃飲み会で盛り上がっているのだろう。まだそんな時間帯だ。これからさらに二次会三次会へと流れて、深夜——いやそれどころか朝まで飲み明かす酔っぱらいだっているに違いない。


 ベッドの上にランガを横たえ、上半身を片方の肘で支え浮かせた体勢で見下ろした。

 真っ白なシーツの上に散る水色の長い髪は柔らかい間接照明の光を受け煌めき、雪原を流れる川の清らかな雪解け水を想起させ幻想的で美しい。その髪をそっと持ち上げる。それにしても随分と伸びたものだ。彼を自分の眷属にしたときは確か顎までくらいの長さだったのに。

 歳を取らない——厳密には肉体の変化が緩やかすぎて人間の寿命では知覚できないだけなのだが——吸血鬼とはいえ髪や爪の伸びる速度は人間と変わらない。髪や爪は消耗品であるのだから当然だ。そんなにゆっくりではボロボロになるだろう。

 今のこのホテルの部屋の光量と光の色調はちょうど夕暮れ時くらいの感じだった。吸血鬼は闇の勢力に属する一族だ。それなのにランガは光と闇が切り替わるごく短い時間に見られる黄昏色がよく似合う。

 おそらくこの子は完全な闇にはなりきれないのだ。

 ランガの頬に手のひらを添え顔を覗き込めば薄明かりの中、淡い色の唇が小さく笑んだ。

 たまに自分が空っぽに感じられるのだとランガは自身の存在の希薄さを訴えた。やがて排除される人間界の異物なのではないのか。その感覚が今——あの赤毛と出会ってから特に強くなったようだ。

 怖かった。そのときの彼はあまりにも儚げで、今にも愛之介の前から消えてしまいそうに見えたから。

 今までだって錯綜した記憶がランガを混乱させてしまうことは何度かあった。しかし、ここまで彼を取り乱させてしまうことはなかった。それだけその赤毛は改変されていない時間軸のランガにとって大切で強い絆を結んだ相手だったのだろう。

 ランガが決めたこととはいえ無二の親友を奪ってしまったのは自分だ。まだ子供でしかなかったランガに未来の可能性と希望を説いて諭すべきだと善良な人間なら言うだろう。

 だが残念ながら愛之介は善良でも、ましてや人間でもない。あの雪山にあるコテージの前で出会ったあの瞬間、すでに心は決めてしまっていたのだ。この子を最初で最後の自分の眷属にすると。

 ランガは愛之介のために創造され生まれてきた存在だ。他の誰のものにもならない、愛之介が所有すべきもの。そのことを疑ったことはなかった。もしそんな運命に逆らい彼を手放してしまえば、心の空白はこの身が滅ぶまで埋まることはなく苦しみは続く。

 今後、愛之介の前にランガ以上の存在は現れない。誰もランガの代わりになれない。それだけは間違いなかった。

 愛之介は顔を見つめたままランガの水色の髪に指を絡めたり、頭を撫でたり、頬をさすったりを繰り返す。そんな愛之介にランガはいかにも居心地が悪そうだ。

「あの……」

 戸惑いを含んだ声に「いや、僕のイヴは綺麗だなと思って」と笑いながら先手を打てばランガは不満そうに唇を尖らせ、ふいっと目を逸らせた。

「何を言い出すかと思えば……それより気が乗らないんだったら……」

「少しくらい見惚れていたっていいだろう」

 愛之介は仰臥しているランガの上から覆い被さり、頬に唇を落とした。

 耳たぶを甘噛みすれば、首をすくめたランガから、バスルーム備えつけのシャンプーやボディソープの残り香がふわりと鼻腔を掠めた。その香りに混ざる仄かなランガの体臭を嗅ぎ取った瞬間、寝ぼけていた五感が一気に目覚めていく。

 ナイトウェアのはだけかけた合わせを大きく開きランガの胸の上に手のひらを置くと、そのまま下腹から脇腹へと指を滑らせた。滑らかな肌理と温もりを求めて。

 その間、触れるだけの口づけを何度も交わし、さらりとした肌を重ね、ピタリと合わさった胸と胸で共鳴する鼓動を聞く。ほっとするような安堵感に満たされていく中、口づけや愛撫が先ほどまでとは異なった色を帯びてくるのにさほど時間はかからなかった。

 胸の突起を押さえつけるように手のひらでなぞり上げれば、ぴくんと背を震わせ、小さく息を詰める。

 乱れ始めた息とともにゆるゆると伸ばされた腕が愛之介の首にまわされた。

 首筋に感じる湿り気を帯びた吐息が妙に熱っぽくて、体の芯が疼く。再び重ね合わされた唇を強引に舌で割り歯列を割って穿たれた舌は、さらに深く相手を求める。噛み合うような深い口づけを飽くこともなく交わせば、飲み込むこともかなわぬ唾液がランガの頬を濡らしていった。

 微かに感じるとれる体臭、髪に絡みつく指遣い、耳元で感じる熱い吐息や低く囁かれる声音のくすぐったさ、すがるように絡みついてくる腕。そんな五感に訴えるものすべてが光の少ない世界では意想外であり、それゆえ官能的だった。

 実際こうして腕に抱けば、無防備に身を任せてくる。それは愛之介にとって、抱きしめ慈しむべき相手であり自分の支配下にある存在だった。

 孤独を埋めてくれる唯一の存在——イヴ。

 なぜ……などといちいち考えるのもかったるく、ただ欲しいと思うままに求め、求められるままに与え続ける。何も不満はない。自分はこれほど安らげる場所を知らないのだ。

 不意に、陶然とした表情でうっすら開いた瞼から覗く青い瞳が、焦点を取り戻しふたりは数秒だけ見つめ合う。しかし、何かを切望するかのような瞳はすぐに閉じられてしまった。

 痛々しい思いが鋭いナイフの切っ先となって、愛之介の胸を貫いた。

 そんな痛みを振り払うかのように、愛之介はランガの肉体をただ求める。乱暴に犯し、己の欲望のまま貪った。

 烈しく交わりながら、腕の中で快楽に溺れるランガの小さなすすり泣くような鳴き声を聞き、ただ揺さぶり荒々しく突き上げる。そして、いつまでも何度でもランガの名を呼んだ。


 すっかり目が覚めてしまったようだ。いや、そもそも吸血鬼など闇の一族だ。人間社会に紛れ活動するときだけ人族の活動リズムに合わせているだけの話だ。

 傍らで、小さな寝息をたてているランガを起こさないようそっと離れた。

 ブランデーボトルの底に少しだけ残った琥珀の液体すべてをグラスへ移した。

 顔を上げれば薄暗がりの中、アイボリー色のブランケットにくるまりシーツに頬を押しつけて眠るランガが目に入る。眠ったというより蹂躙され尽くし気を失ったと言ったほうがいいのかもしれない。苦痛を伴うだろうことを承知で何度も何度も己の体力と精力が続く限り、ただ暴力的に犯し続けた。強い痛みと共に自分の存在だけを刻みつけ、ランガの虚な内面を満たしたかったのだ。

 また触れたくなって枕元に静かに腰かけた。顔にかかった水色の髪を指でそっと退かす。穏やかで飾り気のない寝顔だった。たまらない愛しさが込み上げてくる。

 そして、答えは返ってこないことを承知で問うてみた。

「あのとき——君をこちら側に引き入れたあの瞬間に、全てのボタンが掛け違えられてしまったんだ。でも既に後戻りはできない。そんな僕を君は許してくれるかな?」

 しばらく髪をもてあそび目尻にそっと唇で触れた。

 そのとき——

 ——愛抱夢はしつこいなぁ。俺が望んだことだよ。

 そんなランガの声が耳奥で確かに聞こえた。