風邪をひいた日

 愛之介の脇の下から引っ張り出した体温計とランガは睨めっこする。

「えっと、三十七度三分か……下がったね。でも、びっくりした。愛抱夢でも風邪をひくんだ……」

「ランガくん……何でもいいけど僕のことを〝バカ〟みたいに言わないでくれない? そんなに僕が風邪をひくことが不思議なのかな?」

「ん? 愛抱夢っていつでも颯爽としていて風邪なんてひかなさそうに見えるから驚いただけだよ。それよりバカと風邪ってどう関係があるの?」

 ランガが不思議がるのも無理はない。こんなこと言うのは日本だけだ。

「日本ではね、昔から『バカは風邪をひかない』なんて諺があるんだ」

「日本では、バカだと風邪ひかないんだ。カナダだとバカでも風邪ひくよ」

 もう大学生なんだから、そう言葉通りに受け取らないで欲しい。

「今どきそんなこと信じている人などいないけど、それを持ち出して人のことをからかうだけで。実際、風邪は誰に対しても分け隔てないよ」

「それより、たまたま今日、休みで良かったけど、そんな体調で明日は仕事行くの?」

「明日は休めないからね。熱もだいぶ下がったし」

「それは解熱剤を飲んだからだろう。明日のことは明日考えるとして今日はゆっくり休んで。それと水分摂っているだけで何も食べていないんじゃないの。何か食べる?」

 食べるかと言われてもピンとこない。というか食べたくない。

「食欲ないなぁ。何かこう……つるっと喉を通って……ひんやりと冷たくて甘いものだったら食べられるような気がするけど」

「冷蔵庫に栄養補給ゼリーがあったけど持ってくる?」

「味気ないなぁ」

「わがまま」

 そこでふとあるものが冷蔵庫で冷やしてあることを思い出した。

「そうだ……冷蔵庫にいただいた福島県産白桃の缶詰があったはず。とても美味しいから君とデザートに食べようと思って冷やしておいたんだけど、ちょうどいい。なぜなら〝風邪には桃の缶詰〟だろう!」

 風邪には桃缶と言い出したのは誰だったのか。でもあれなら食べられそうな気がする。

「え? 日本ではそうなの?」

「ああ……とはいえ今の君たちくらいの若者どころか僕の世代でもそんなこと知らないかもね。なんせ僕が子供のころ風邪をひいて寝込んでいたとき、当時の使用人のお婆さんがそう言って食べさせてくれたものだから……そのときは涙が出るほど美味しいって思ったよ」

「へえ。俺、用意してくるよ。冷蔵庫の中ね」

「冷蔵庫の上から二段目の右奥にあるから」

「わかった。愛抱夢は待っていて」

 キッチンへ向かおうと背を向けたランガに一言声をかけた。

「ランガくんの分も忘れずにだよ。一緒に食べよう。すごく美味しいんだ」

「うん。そうする」

 それから少しの時間をおいて、ランガは深めの器に缶詰の桃をシロップに浸したまま持ってくると ベッドのサイドテーブルの上にトレイごと置いて「食べて」とすすめてきた。

 からだを起こしてベッドに腰掛け、目の前に置かれた器を見れば、愛之介の前に置かれた器に半割りの桃が三切れ、ランガの前の器には一切れ……

「君は一切れでいいの?」

「うん。俺は普通にご飯食べられるし。桃缶はまだあったしね。愛抱夢はちゃんと食べて」

「ありがとう」

 ふたりは同時に両手のひらを胸の前で合わせた。

「では遠慮なく。いただきます」

 フォークで一口大にしてして口に入れる。ランガをみれば、そのままかぶりつき目を見開いた。

「美味しい! これ、すっごく美味しい」

「だろう」

 目を閉じる。

 とろんとした舌触りに程よい甘さ。熱っぽいからだに染み渡る……閉じた瞼に涙が滲んだ。

 ——ああ、しあわせ……

 幼いころ風邪をひいて熱を出すとちょっと嬉しかった。少ししんどくはなるけど、具合が悪いと周りの大人たちは優しくなる。あの伯母どもでさえ小言は減り叩いたりしてこないのだ。

 何より——名前も忘れてしまったけれど、当時使用人でいた優しいお婆さんが食べさせてくれた桃缶が……

 目を開けば、器に残ったシロップをごくごくと飲んでいるランガと目が合った。

 ——もっと、しあわせ……

 愛する人が目の前にいて、いつも以上に優しいのだから。