哀しい笑顔

「無駄なおしゃべりは、お互いの気を散らし感度を鈍らせるからね」という言葉の意味を考える暇もなく、気がつけば猿轡を噛まされていた。思わず外そうと口にやった手は、しっかりとした長い指に掴まれ強い力で引き剥がされる。

 それからランガはベッドの上へ簡単に押し倒されてしまった。

 迂闊だった。ある程度の間合いを取ってからの掴み合いなら互角にやり合える自信はある。しかし、こういった近接戦だとウエイトがものをいう。全体重でのし掛かられればなすすべがない。

 結局あれよあれよという間に手足を拘束具で固定されていた。そして、最後の仕上げが黒いテープによる目隠しだったらしい。

 ランガをきっちり拘束し終えた愛抱夢は、落ち着いた動作でバスローブの合わせを開いていった。胸から腹にかけて空調で冷やされた夜気がひんやりと触れ、愛抱夢の手のひらが胸に置かれる。

 意味がわからず混乱した。

 軽い遊びのつもりなのだろう愛抱夢のこういった突飛な行動には慣れたし、楽しむこともできるようになっていたのだけれど、ここまでくると流石にパニックだ。目をテープで覆われて見えないはずのニンマリ顔が、脳裏にくっきり浮かび内心舌打ちをした。

 せめてもう少し前情報が欲しかった。前もって説明してくれればそれなりの心構えを持てただろうし少しは協力したかもしれない。

 そこではたと気づく。もしかしてアレがアレだったのか? と。

 冷静にここ一週間の記憶を遡れば、愛抱夢は親切にもヒントを提示してくれていたのだ。

 確か数日前だったか「注文していたものが届いてね」と海外通販で手に入れたらしい透明ビニール袋に入ったままの商品写真を添えてメッセージをくれていた。革製で金具のついたストラップと黒い布紐がまとめて透明ビニール袋に入っている。他の袋は……黒いガムテープっぽいものと……なんかよくわからないやはり黒いもの。

 それから通話で少し話した。「よさそうだろう?」と声を弾ませる愛抱夢に「それスケートと関係あるの?」「ない」「ふーん」というやりとりで終わらせていた。

 スケートに関係なければそこまで興味もなく、ランガはそのことを秒で忘れていた。

 ……って、それ全部今使っているこれらの道具じゃないか!

 あのときのやりとりが悔やまれる。ランガがさっさと会話を切ってしまっていたのだ。ヒントというか補足説明を引き出しておけばよかった。

 想像力が足りなかった。あの嬉々として見せびらかす愛抱夢の得意顔に、もっと警戒心を抱くべきだった。それと確か写真のパッケージにはブランド名もはっきりと写っていたと思う。せめてそこできちんと調べればどのような目的で使う道具なのか予測できたはずだ。

 えっと、こういうときの日本語は……「後悔先にたたず」——だった。


 不意に唇にあたたかく濡れたものがペタッと触れ、反射的に背が跳ね、くぐもった呻きが漏れた。数秒遅れて愛抱夢に唇を舐められたのだとわかる。虚をつかれた。

 なるほどそういうことか。

 目を塞がれている以上こういった愛抱夢の行動の先を読むことができない。愛抱夢からも今夜は最後まで口をきくことはないと宣言されていた。ならば予めこちらの意思を確認してくれることはない。次に何がくるのか予測できないのだ。

 さらに口も塞がれている。こちらから要望や快不快を言葉にして伝えることはできない。はじめのうちは何とか話そうと試みたが「ウガウガ」とか「フガー」などという音にしかならなくてさっさと諦めた。

 つまり愛抱夢の行為すべてが、一方的かつ前触れもなくいきなりされるということだ。しかも抵抗の手段は奪われている。

 愛抱夢の唇は耳を掠め、首から胸をゆっくりと這っていった。その一方、手のひらは背中から尻、内ももをさわさわと撫で回す。敏感な場所を丹念に愛撫しながら降りてきた唇は、やがて内腿にたどり着き舌を這わせ軽く歯を当ててきた。

 ベッドの上に両手足を拘束され、目元に巻かれた黒いテープで視界を塞がれた今の状態では、能動的な活動の一切を封じられている。何をされても、無条件に受け入れることしか許されていない。

 視覚を遮断されればそれ以外の五感は、通常より鋭敏に研ぎ澄まされる。

 だからこれは色々と不味い。絶対ヤバイ。感じ過ぎている。「いい」でも「いや」でもなく、ひたすら過敏になっている事実にランガの背に冷たい汗が滲んだ。

 基本的にいつもされていること変わらない。それなのに手足の自由と視覚を奪われている、たったそれだけでありとあらゆる刺激に対する感度が高まっていた。

 たとえば、いつも耳にしていたはずの愛抱夢の呼吸音。肌を滑る指の少しざらついた触感。柔らかく弾力のある唇。濡れた熱い舌。吐息に混ざるタバコのにおい。ボディソープの甘い香り。シーツと肌がスルスルと擦れる音。全身にのしかかる心地よい重みと温度。

 すべて知っているはずのものだった。それなのに初めて意識する。不思議だ。それは新鮮な驚きで胸が高鳴り全身が疼いた。

 やめて欲しい。やめて欲しくない。気持ち悪い。気持ちいい。

 密着していた体温が不意に離れる。

 上体を起こした愛抱夢は、手首に巻かれた拘束具を指で撫でた。


 ベッドに取り付けるタイプの黒い拘束具。肌に直接触れるストラップはレザーに見えるけどヴィーガンレザーで人体に悪い化学物質を含まず肌に優しく作られている。だかから安心して——と一通りの作業を終えて、最初に説明された。何を言い出すんだ。そんなこと猿轡された状態で言われてもこっちは反論しようがない。それでも何とか苦情のひとつでも言ってやろうともごもごしていたら、猿轡の咥える部分はシリコン製だから臭いや味が気にならないように選んだとか目隠しに使った黒いテープは粘着剤を使っていないからベタベタしたり髪の毛がくっついたりしない——などと自慢げに解説されたのはなんだったのだろう? 褒めて欲しかったのか?


 頬に手を当て愛抱夢はランガの顔を覗き込んだ。そこから胸、腹、腿から足先まで視線が肌をくすぐりながら降りていく。手のひらでランガの足の甲を撫でながら愛抱夢は声もなく笑った。

 見えていなくても目に浮かぶ。不思議なことにランガはそのことをはっきりと知覚できていた。

 足首に巻かれたストラップの上で彼の指がつっと動く。ピンバックルのカチャ……カチ……という小さな金属音が聞こえてきた。もしかして外してくれるのだろうか。

 その予想を裏切らず右足首のストラップがはずされた。続いて左足首と縛めは解かれ、すぐに金具が床でカツンと鳴った。紐のついたままのストラップをベッドから落としたのだろう。

 ひょっとすると他も自由にしてくれるのかも——と少し期待してしまったのだけど甘かった。手首に巻かれたストラップや目を覆う黒いテープや猿轡にも手をつける様子はない。

 相変わらず愛抱夢は黙ったままだ。それでも彼が何をしようとしているのかはわかっている。いつもやっていることなのだから。ただ視覚を塞がれている以上、彼の表情などの様子や雰囲気から推察できる微妙な差異は知り得ない。そのことがランガを不安にさせた。

 チェストを引き出した小さな音がする。あそこにしまってあるものはコンドームと潤滑剤でだったはずだ。

 ビリッとコンドームの袋を破る気配。それを着けてから愛抱夢はランガの膝裏を持ち上げ肩にかけた。腰が浮き潤滑剤であるジェルのチューブから内容物と一緒にプシュッと空気が漏れる音がして、すぐに尻の割れ目に沿って指が入り込んでくる。入り口の縁から奥へとジェルを塗りながらほぐしていった。

 もともとそのつもりだったから、ある程度の準備は済ませておいたのだが、まさかこんな遊びにつき合わされるとは思いもしなかった。

 愛抱夢に膝裏を掴まれ体重をかけられる。胸に膝が押しつけられランガの尻に猛ったものが触れた——次の瞬間ランガの中へと、迷わず強引に入ってきた。貫かれた衝撃に猿轡で塞がれた口からくぐもったうめきが漏れた。

 いつもは苦痛を与えていないかランガの様子をうかがいつつ慎重に行為を進めてくれていた愛抱夢なのに、今はそんな気遣う様子は見られない。

 固く閉じられた扉をこじ開け、やわらかい粘膜を押し拡げながら愛抱夢は奥へ奥へと強い力で腰を押し込んでいった。

 足のストラップは外されているとはいえ、こうして力づくで押さえ込まれている以上身動きはとれない。こちらからやれることは何もない。

 できることは、自分が今されていることから意識を逸らすか、逆に意識を集中させるかだ。ランガは無意識に後者を選んでいた。

 自分の体内で好き勝手しているものをランガは思い浮かべる。

 赤黒いディック——肉棒。先端はつややか。少し反り返っていて……日本刀を連想させる綺麗な造形だ。他には……充血して血管がくっきりと浮き上がっているんだ。サイズはどうでもいいことだけど……多分大きい方のような気がする。他の人のものを知らないから本当のことはわからないけど、少なてくも自分よりは。

 そんな愛抱夢のものが絡みつく粘膜を隅々まで味わいながら押し入っていった。

 やがて奥まで収まると愛抱夢は抽挿をはじめる。たっぷり使われたゼリーが中で押し潰されるくちゃっという音が生々しくて、できることならば耳を塞ぎたかった。

 愛抱夢の呼吸が荒々しく、乱れていく。

 彼は今どんな顔をしているのだろう。顔を上気させ、額にはポツポツと汗が浮き、苦しげに眉間に皺を寄せ、青い髪を振り乱し——それでも深紅の瞳はひたすらランガだけを映し、冷静に観察しているのだ。ランガの体に現れる反応、変化の一切を見逃さずただ網膜に焼き付けている。

 ベッドに固定された肢体がスプリングと一緒に跳ねていた。愛抱夢の忙しない息遣いとともに律動はますます速く暴力的なものへと変わっていく。

 下半身の感覚があと少しで消えてしまいそうだった。自分の体が自分のものでなくなっていくよう。抵抗は叶わず——いやそもそも抵抗する意思などとうに捨て、むしろ悦んで体を開き、気の遠くなるような快感に溺れている。

 もし拘束されていなかったら、猿轡をされていなかったら——ランガは激しく喘ぎ、愛抱夢の背中にしがみつき泣きながら許しを請うたに違いない。そして愛抱夢はそんなランガを甘やかすことしかできないのだ。

 しかし今の愛抱夢は衝動に突き動かされるままランガを犯すことを厭わない。

 荒々しく突き上げられるたびに広がる甘く痺れるような快感にランガは支配されていった。

 でもまだだ。もっと……もっと欲しい。

 深く。ずっと奥まで。

 昂ったあなたの熱い凶器で、中を掻き回して。ぐちゃぐちゃにして。

 意識が白く霞み自我が呑み込まれていく。

 不意に愛抱夢の動きが止まった刹那、深々と埋まったものが脈打ちはじめた。それはまるで体の中にもうひとつ心臓がができたかのようだった。

 ふたりで分かち合う鼓動とよく似たその音にランガは耳を澄ます。

 緩やかにふたつの体が溶け混ざり合っていった。


 その晩、愛抱夢は己の欲望に忠実だった。ランガを容赦なく支配し蹂躙していった。一度果てたあと口や手や玩具を使い抵抗できない体を弄び、元気を取り戻すとまた犯す。何度そんなことを繰り返しただろうか。

 その間、手首のストラップも目隠しも猿轡も——ランガを支配するための戒めはそのままだった。

 愛抱夢の荒々しい喘ぎが、ランガのくぐもった鳴き声が、肉体をぶつけ合う音が、藍色の闇に吸い込まれていく。

 この体は自分のものではない。この男は獰猛な獣だ。少なくても今は。朦朧とした意識の中でランガはそのことを理解した。そんな獣にランガは身も心も暴かれ貪り喰われているのだ。それなのにランガ自身は、陵辱に似たこの行為が与えてくれる悦楽に抗えずただ流されていく。

 ランガの脚を抱え愛抱夢は渾身の力で漕いだ。だらんと力の抜けたランガの足は宙に浮き、漕ぐリズムに合わせ揺さぶられていた。いつまでもいつまでも、男の体力が続く限り。

 繰り返し押し寄せる波のように、オーガズムが襲い掛かる。ランガは何度目かわからない絶頂を迎え——いつか何もわからなくなっていた。自分はどこにいる。どこへ連れていかれるのだろう。


 夢を見ていた。

 閉じられた瞼の奥に映る知らない美しい景色。美しいのに、とても寂しく胸が締めつけられるような世界だった。でもなぜか名前だけは知っている。

 ——エデン

 そこに膝を抱える小さな子供のシルエットが見えてくる。迷子の子供が親を探すように遠くを見つめていた。ランガに気がつく様子はない。

 子供が振り返った。——濃い青の髪、真紅の瞳。

 あの子は小さな愛抱夢なのか。

 ランガと目が合うと子供は嬉しそうに笑った。ランガは子供に向かって指を伸ばす。子供もランガに向け思いっきり両腕を伸ばした。でも届かない。届かないままランガと子供の距離はどんどん離れていき、最後に子供は哀しそうに笑い、やがて見えなくなった。

 あそこに小さな愛抱夢が、今でも取り残されている。ひとりぼっちの愛抱夢の欠片。

 そっか……まだ全部拾えていないのか。

 ならばいつかあの場所を再び訪れ、この手を差し出そう。手を繋ぐために。


 頬を撫でる指の感触にうっすらと目を開けた。ぼんやりとした視界に愛抱夢が見えてくる。なんともいえない表情で薄闇の宙を見ていた。もしかすると何も見ていないのかもしれないけど。

 この顔。たまに愛抱夢は、まるで迷子の子供のような不安げな顔をしていることがある。今もだ。

 ——ん? ごく最近も見たような気がするけど。思い出せない。

 深紅の瞳がランガを見た。目が合ったとき笑おうとしたけどうまくいかなかった。顎がガクガクしていて口がうまく動かせないのだ。

「やあ。お目覚めかな」

 仕方なくもぞもぞと身じろいだとき、自分がタオルケットに包まれ愛抱夢の腕に抱かれていることを知った。それから全身を覆う違和感に「あれ?」となった。

 体を動かし腕から抜け出そうとしたランガを愛抱夢は制した。

「まだ動かないで」

「どうして」

「どうしてって。気分は?」

「気分……大丈夫だけど」とランガは眉を寄せた。

「覚えていない? 結構長いこと気を失っていたから流石に心配した」

「あっ……」

 蘇った記憶に思わず口の周りを指で触る。

 口や顎関節に残る違和感の正体は猿轡をされていたせいだったんだ。ついでに口内も乾燥気味で気持ち悪い。ストラップを巻かれていた手首も確認する。愛抱夢はその手首をとって「外したとき擦れて赤くなっていたけど……だいぶ消えてきたね」と指でさすった。

 確かに少し赤みがあるくらいで問題にはならないだろう。

「他は大丈夫? かなり無理させちゃったからね」

 他に気になるところといえば、股関節がまだ痺れている感じがして怠いとか、スケートでは使わないような筋肉が痛いとか……まあ色々あるけど言いたくないし明日には治るだろう。

 愛抱夢を睨みつけ口を尖らせてやった。

「なんであんなことしたんだよ」

「なんでって決まっているだろ。楽しいからさ」

「楽しいのはあなただけじゃないか」

 愛抱夢はニッと笑って顔を近づけてきた。息がかかるほどの至近距離にランガは一瞬動揺し、パチパチと目を瞬いた。

「その割には君……ものすごく感じてくれていたように見えたんだけど——それとも僕の思い違いだったかな」

「むっ……それは……」

 ランガは言い淀む。

「ふふ……無粋だったね」と耳元で囁かれた。

 ランガが言葉に詰まってしまうようなとき、愛抱夢はそれ以上しつこく問い詰めたり、からかったりしてこない。

 この人は大概意地が悪いのだが、こちらの逃げ場を完全に奪ってしまうほど悪くはない。ギリギリのところで手を緩めてくれていた。その見極めが絶妙なのだが、ランガにしてみれば子供扱いされているようでおもしろくない。

 もっとも、それがなければ今ごろ別れていた……とまでいかなくても喧嘩した挙句しばらく口をきかないなんてことが何度も繰り返されているのかもしれない。実際その状況になってみないとわからないが。

 それでも今は——ランガは目を閉じる。

 抱きしめてくるたくましい腕。髪を梳く繊細な指遣い。首筋にかかる吐息のくすぐったさ。耳元で低くささやかれる掠れた声。それらはランガの気分を一瞬で落ち着かせてくれる。

 言いたいことはそれこそ山のようにあるはずだけど——かったるくて考えを整理することも面倒だった。色々追求する気も失せている。つまり今はどうでも良くなっていた。何よりも眠くて、文句の代わりに大きなあくびがひとつ。

 ふふふ……と笑う声が聞こえた。

「君の話は明日聞こう。それとついでといってはなんだけど、僕にも弁明の機会をくれないかな。だから今夜はもう眠って……愛しのランガくん」

 言われなくても。

 明日の朝には、きっと心も頭もスッキリしていて、本格的に問い詰めることもできるに違いない。覚えていろと思う。絶対に何かやり返さないと気が済まない。そのときにはきっと——