奇跡
スケーターにとって、人生におけるスケートが占める割合は、どのくらいになるのだろうか。
沖縄に来て暦と知り合ってからというもの、ランガの世界はスケート一色に染まってしまった。学校にいても隙あらばスケートのことばかり考えているほどに。もちろん暦は、ランガと出会うずっと前からそんな調子だったのだという。
暦はランガをスケートの世界に引き込んだ張本人だ。彼は、とにかく強引でランガをスケート仲間に引き入れようと躍起になった。いかにスケートがすごいか、楽しいかをこんこんと力説する。どんなにランガが興味なさそうな顔をしていても諦めようとはしない。おそらくはっきりと拒絶の言葉を吐かない限り。とにかくスケートに関しては、めちゃくちゃ圧しが強いのだ。
おそらくだが、当時の暦にとってはランガである必要はなく誰でもよかったのだろう。スケートを好きになって一緒に滑ってくれるというたったひとつの条件を満たせば。
暦は「スケボーやってるんだ」の一言どころか、脇に抱えたスケボーに視線をやった瞬間、「興味ある?」と目を輝かせスケートの世界に誘い込もうと食らいつく。
なのに、今まで良い返事をくれた友人はいなかったと暦は嘆いた。スケートはこんなにも楽しいのにその楽しさを知ってもらえるチャンスすら与えてられなかったと。
同世代のスケート仲間がひとりもいない暦は、たくさんの友人たちの笑顔に囲まれ、それでもずっと寂しかったのかもしれない。
もしランガが、スケートを始めることなかったとしたら、暦とはどのような関係になっていたのだろうか。おそらく、今のふたりのように四六時中一緒だなんてことは、考えられない。もちろん誰に対してもフレンドリーな暦のことだ。ランガにも他のクラスメイトと同じように友人として親しく接してくれていたかもしれない。それでも、今のような親密な関係には間違いなくなれなかった。
人生は長い。スケートが全てではない。そんなことはわかっている。
それは、まだお気楽な学生だからだ、とチェリーは指摘する。チェリーたち大人は、目の前にある社会的責任を最優先し、その間はスケートのことは極力頭から排除するのだという。そして、忙しい仕事の間隙を縫ってスケートをする。それが節度ある大人なのだと言われた。
チェリーだけではない。イタリアンレストランで腕をふるうジョーやその風体に似合わず可愛らしいアレンジメントを作ってくれる花屋のシャドウだって同じだ。
皆、S以外では、スケーターとしての顔を見せず、多くの人から認められているのだろう立派な大人なのだ。多分。そして、なんとか時間を捻出してスケートを楽しんでいる。
Sネームは、そんなふたつの顔を使い分けるための切り替えスイッチのようなもの――そんな気がした。
まだ学生である暦や実也は本名のままなのはその必要がないから。そういうことかもしれない。ランガはSネームをいつの間にかつけられてしまったが、ランガとスノーを意識して使い分けているわけではない。というか自らスノーと名乗ったりはしない。周りが勝手にそう呼ぶだけでしかなかった。
そういえば、今では親友と呼べる関係の暦とも、出会ったばかりのころは彼のスケートにしか興味がなかったかもしれない。もちろん暦も同じだったのだろう。彼も自分のスケートに注目していただけだったように思う。ふたりの関係、イコールスケート、スケートが全て——以上! みたいな。
やがて一緒に滑るだけではなく色々な話をしたりしていくうちに、お互い相手の人となりがわかってきて、ちょっとした喧嘩やすれ違いを経験しつつ、いつの間にか親友と呼べる間柄になっていた。
暦は特別な友人なのは間違いない。何より、スケートは仲間と滑るから楽しいのだと、一番大切なことを教えてくれた。
「つまり……スケートと社会人の両立って意味かな?」
「うん、そういうことかな。あ、でも……Sでこんなこと訊くのルール違反だった?」
「いや、構わないよ。なぜ、そんなことを? 何かあったのかな?」
「進路指導があってさ。今までそんなに考えたことなかったんだけど、チェリーやジョーやシャドウから雑談の中で色々話を聞けたんだ。そういえば愛抱夢には訊いていなかったなって。それだけだよ」
「ふふ……愚問だな。流石の僕でも仕事に費やす時間の方が長いさ。プロスケーターでもない限り、一般的な社会人スケーターはそれが当たり前だろう」
両口角を持ち上げ、首を傾げる愛抱夢に、ランガは肩をすくめる。
「そうだよね。訊くまでもなかった」
「さて。今だって大人にとって貴重な時間なんだよ。もちろんランガくんは僕と一緒に滑ってくれるよね」
「わかった」
片足を板に乗せ空いた足で地面を思い切り蹴り、ボードに飛び乗った。スタートダッシュでついた差を保ったまま、前を行く愛抱夢の背中を見つめる。彼がスピードを上げればランガも——とふたりの距離は縮まることも離れることもない。
こうやって後ろから見ていても、彼の安定感は恐ろしいほどだ。たとえダウンヒルコースを滑りながらボードの上でステップを踏み踊るなどという非常識なことをやっていたとしても、愛抱夢の体幹は少しもぶれたりしない。
ランガは目を細めた。
最近の愛抱夢の滑りはとても綺麗だ。いや、多分そのトリッキーで攻撃的な滑りにばかり注目してしまっていただけで彼のスケートの本質は何も変わってないのだろう。ただ、纏う空気が柔らかくなったんだ。
はじめて愛抱夢の滑りを見たのは、暦とのビーフだった。人づてに色々な噂を聞いて想像していた以上に暴力的なスケートだった。いくらなんでもやりすぎだと憤ったランガが駆けつけたときには、暦は地面に叩きつけられ無惨にも横たわっていた。
暦の怪我が心配でそれどころではなかったが、あのときすでに愛抱夢のスケートに魅了されていたのだ。
一度、愛抱夢の滑りを見てしまったら最後、もう永遠に目を離すことはできなくなるのではないかと思ってしまう。それほど彼のスケートは圧倒的かつ洗練されていた。
暦が敗北したことで、次はランガが愛抱夢と滑ることになったのだが、暦から「あいつはいかれている」と愛抱夢とのビーフを棄権するようにと言われた。
いくら親友の忠言とはいえ、頷けるものではなかった。別に暦の仇打ちなどというつもりはない。ムキになっていたわけでもなかった。ただ、愛抱夢と滑りたいという気持ちが自分では抑えられないほど膨れ上がっていただけなのだ。たとえ暦であっても折れる気はなかった。
そして、迎えた愛抱夢とのビーフは、レース半ばで警察の介入があり、ふたりともゴールすることはできなかった。
暦にはもう二度と愛抱夢には関わるなときつく言われた。その有無を言わせぬ物言いに一応は頷いたけれど、どうやっても頭から離れない。愛抱夢に導かれ引っ張られスピードが増していく。それは、いつか、誰も見たことのない景色を彼ならば見せてくれるかもしれない。そう思わせた。それと一瞬見えたあの不思議な光景。あれは、いったい……
あの日、愛抱夢というスケーターの存在が強く胸に刻まれたのだ。彼のことを考えると心臓が高鳴った。
愛抱夢とのビーフ以来ランガはひとりで滑っているときも、自分の前を滑る愛抱夢の赤い幻影を追いかけた。暦に何を忠告されようが諦められなかったのだ。もう一度彼と滑りたかった。スケーターならばきっと暦もわかってくれる。そう信じていた。
そこまで記憶を脳内で辿って、ランガは今の自分のスケートに意識を戻した。
いけない、いけない。集中するんだ。ゴールまであまり距離はない。
愛抱夢に追いつき、肩を並べ滑っていく。近づく迫り上がった岩を黙視し、テールに重心を移せばノーズが上向きに持ち上がり、デッキが地面から離れた。同時にランガ自身も膝を屈伸させ跳ぶとボードと一体になって宙に浮く。
はじめたばかりのころ、これが怖かった。足がボードにくっついていないのに同時に跳ぶなんて。暦が足を軽く固定してくれるボードを作ってくれて、やっと安心してオーリーを習得できた。今やそんな補助輪は必要ない。
チラリと目だけで窺えば、愛抱夢もランガと同じタイミングで跳んでいた。ふたりは同時に岩を跳び越え、荒れたコースをその勢いのままゴールへと向かった。ガッ、ガガガガァーと荒々しく鳴るウィール音が耳に心地よかった。
愛抱夢はゴール後、減速しながら軽く身を捩り、片腕を伸ばしランガを抱き留めた。
「ランガくん。今日の滑りも実にラブリーだったよ。でも、少し気が散っていたように感じたけど、僕の気のせいかな?」
気づかれた。
「あ、ごめん」
「別にビーフじゃないんだから謝らなくていい。進路の悩み?」
「違うんだ。愛抱夢のスケートをはじめて見たときのこと思い出していた」
「ほう。はじめてって、いつのスケートだったかな」
「忘れたの? 暦とのビーフじゃないか」
「ああ。そんなこともあったね……」
「あのとき暦を怪我させて、すっごく頭きた」
「赤毛くんも、Sのルールは理解しているはずだが……」
そうだ。そもそも暦がランガに説明してくれたのだ。「その間、攻撃、妨害、なんでもあり」と。とにかく早くゴールした方が勝つレースだ。暦はそんなルールだったからこそSに夢中だったのだ。
「暦の怪我は心配だったけど……それ以上に俺は、愛抱夢と滑りたいって、思ったんだ」
言い終わるか終わらないかで、にっと唇の端が吊り上がり次の瞬間、彼の顔が間近に迫っていた。思わず仰け反りランガは目をぱちくりさせた。
目元が仮面で覆われている分、口元の感情表現は大袈裟になる。どうやら今の発言は愛抱夢を喜ばせたらしい。
「つまりランガくんは、あのときから僕の魅力の虜だったんだね! ああ。もちろんそんなこと分かりきっていたことさ。それでも君の口から直接聞かせてもらえるとは。嬉しいなぁ」
大袈裟なとは思うが、否定できない。愛抱夢のスケートに強く惹かれたのは嘘ではない。
「そういうことになるのかな」
愛抱夢は胸に手を当て、うっとりと夜空を仰いだ。
「僕も同じだよ。ああ、思い出すなぁ……君のスケートをはじめて見たあの夜のときめきを」
「えっと、実也とのビーフのとき?」
「いや。その前のビーフだ。シャドウ相手だったかな。中継動画で見ていたよ。あのとき君こそが僕のイヴであると確信した。それでも君と滑って直に確かめたくてね」
「そうだったんだ」
「実也のことで勝手にヒートアップしている赤毛くんを利用させてもらった」
利用か。当時の愛抱夢にとっては、その程度のことだったのだろう。それは仕方ない。それでも……と少し眉を寄せたランガに愛抱夢は続けた。
「ああ、済まなかったね」
自分に謝られても意味はない。かといって暦に直接謝罪されたらプライドを傷つけるだけだ。そもそもルールを知った上でビーフを申し入れたのは暦のほうだ。
「Sなんだ。謝ることじゃないだろう」
彼の口元に笑みが浮かんだ。
「実は、あれ以来ランガくんのことを色々知りたくなって、ありとあらゆる手を尽くして調べたよ」
「何を?」
「君が元スノーボーダーだというのは最初の滑りを見て想像ついた。それ以外の——合法的に知り得ることならなんでもだ。まずは本名、通っている学校、君がカナダ生まれで沖縄出身のお母さんと一緒に日本に来たこととか。他にも好きな食べ物とかね」
「へえ。そんなこともスケートに影響するんだ」
「…………」
微妙な沈黙に、どうやら間違えたらしいと察しランガは肩をすくめた。
「そんなわけないか……」
「情報を何かに利用しようとかの目的があったわけではないんだ。スケート以外のランガくんを純粋に知りたかっただけだよ。だから、どれほど些細なことでも構わなかった。片っ端から情報を集めた」
「そっか」
「しかし、それでは限界があるんだ」
「限界……」
「アダムとイヴの邂逅は運命だ。同時に奇跡に等しいと僕は思っている。この出会いをより有意義なものにしたい」
意味がわからない。
「えっと、どういう?」
「つまり、僕たちは、お互いのことをもっと知り合うべきだと思うんだけど、どうかな?」
なるほど。愛抱夢は調べたと言っていたからある程度自分のことを知っている。知ろうとしてくれた。自分はスケート以外の愛抱夢のこと、何も知らない。知りたいと思っているのだろうか。そう、ランガは己に問いかけた。
ふと、ぼんやりしたイメージが浮かんだ。ちくりと少し胸が痛む。これは、あのゾーンという世界に愛抱夢と入り込み他者との境界が曖昧になった、あの感覚だ。
ランガは顔を上げ愛抱夢の仮面の奥の目をまっすぐ見つめる。赤い瞳がどこか揺れていた。
(知りたい。俺は、スケート以外のこの人のことをもっとちゃんと知りたい)
「わかった」
タンッ、タタン! 靴音を響かせ愛抱夢は軽やかにステップを踏みポーズを決めた。頬が緩んでいる。
「よかった」
「それで、どうやって?」
「そうだね。差し当たってデートしてみよう」
「う、うん」
デートってことはふたりだけで会おうってことなんだろう。でも、何をするのか想像もつかない。
「プランは僕に任せてほしい。きちんとランガくんをエスコートするよ」
助かる。どうやら自分は考えなくてよさそうだ。
「スケートは?」
「君が望むのなら」
「滑りたい」
「了解だ。ではこちらのスケジュールがはっきりしたところで連絡するよ」
話がまとまったところで、ふたりはスケーター仲間たちのところへと向かった。
了