桜吹雪

 ここのところ押し寄せる政務に忙殺され、スケートはおろか同居している恋人と言葉を交わすこともままならない毎日が続いていた。

 そんな忙しさも一区切りついたこともあって、ランガを食事に誘った。久かたぶりの休息。ささやかなデートだった。


 食事を終え、レストランから自宅マンションまでの帰り道、川沿いの土手にある遊歩道をランガと並んで歩く。

 凍てつく暗い夜道に、吐く息が白く広がった。そのせいか人通りはほとんど見られない。人気のないことをいいことに手を繋いだ。

 ここ東京は、この冬一番の冷え込みだという。

「寒くないかい?」

「ん? 俺は平気。カナダはもっと寒いよ。沖縄で暮らすようになってから寒さには弱くなったけど、暦よりずっとまし。最低気温が二十度下回ると寒いって大騒ぎする沖縄の人って結構いるよね。愛抱夢は沖縄育ちだけど寒くない?」

「僕は東京の冬にも慣れている。今日の東京の最低気温は零度だったけど、那覇は十七度だったかな……この気温差だ。こう頻繁に行ったり来たりすると調子が狂うよ」

「それは気をつけてね」

「ありがとう。まあ体調を崩すほどでもないから心配しないでいいよ」

「でも、なんか……ほんと久しぶりだよね。愛抱夢とゆっくり食事できたのって……」

 ランガはニコッと笑った。

 なんてラブリーで、しあわせそうな笑顔なんだ。

「満足してもらえたようで、僕も嬉しいよ。あのお店、料理も雰囲気も、なかなかだっただろう」

「うん。とても美味しかったけど、それより愛抱夢といっぱい話せて楽しかった。明日は一緒に滑れるんだろう? わくわくするね」

「僕もだよ。それに、ようやくランガくんの顔をじっくり眺められた。ずっと相手ができなくてすまなかったね」

 ランガは首を横に振った。忙しかったのはお互い様だよ——と、薄闇に色を失くした瞳が語る。

 大学生であるランガも本業である課題やテスト勉強に追われていた。日本語がまだまだだから他の学生より時間がかかってしまうと彼は嘆く。

 寂しかったかというとそんなことを意識する余裕すら愛之介にはなかった。それほど日々煩雑を極めたのだ。寂しいというより、ひたすら我慢を強いられていたというほうが表現として的確だろう。

 帰宅すれば愛する人がいる。手を伸ばせばすぐに触れることができる。一晩中いちゃいちゃすることだって可能なのに……できない。してはいけない。神道愛之介として、優先してやるべきことがある。その責務を果たすのだ。

 そう己を鼓舞し続けた。

 もちろん、全てを投げ捨てて、逃げてしまおうかなんて考えることなどいつものことだ。政治家としての責務や、何よりも神道家のしがらみから自由になりたかった。ランガを見えない檻に閉じ込め、逃避行してしまおうかなどというばかばかしい考えが、ふっと頭をよぎることもある。

 彼と二十四時間一緒ににいられる。スケートをして一日中ふたり楽しく過ごす。何も考えず、何も苦しまず毎日好きなことだけをして暮らす……素敵だよね。

 それは子供のころ、絵本で読んだ御伽噺。労働の対価に好きなことができる金銭的余裕が生まれるのにと、捻くれた子供だった自分は鼻で笑ったっけ。それでも大人すら現実逃避に夢見てしまう楽園——エデン。

 ふたりを妨害するものが存在しない世界ならば、悩みも苦しみ生まれることはない。そこは、平和でしあわせに満ちた世界——

 愛之介はぎゅっと目を瞑った。

 そのような考えが一瞬でも浮かんでしまったことに自嘲する。くだらない。

 知っているさ。悩みも苦しみもない世界は偽物だ。それでは、多くの困難を乗り越えた瞬間に得られるだろう快楽を享受することはできない。それに何より、情熱的な愛には障害はつきものではないか。

「ねえ、愛抱夢……」

 ランガがおずおずと訊いてくる。

「何かな?」

「あのさ、大丈夫だった? 俺、仕事の邪魔したりしてなかった?」

 そうだ。我慢したのは彼のほうだ。きっと甘えたかっただろうに。愛之介の負担にならないよう気遣ってくれていた。そうに違いないとも。今日の彼は、どこか、うきうきとしてはしゃいでいるように見える。

 我慢してもらっていた分、今日明日と時間が許す限り、思い切りベタベタと甘やかしてやろう。

 真剣な表情で詰め寄ってくるランガに若干引き気味になりながらも彼の頭を撫でてやった。

「もちろんだよ。君はとてもいい子だった」

「よかった」

「ねえ、ランガくん……」

 電車の通過するジョイント音が、遠くから聞こえてくる。ガタンゴトン、ガタンゴトン——と。

「僕も頑張ったんだよ……」

 ランガは一瞬目を丸くして何度か瞬き、愛之介の頭に手を置き「いい子いい子」と撫でてくれた。

 それからランガは、ステップを踏むような軽い動作でくるりと背を向け、流れる川へ目をやった。愛之介も続いて川を眺める。

 暗いはずの川面にキラキラと光が浮いている。月の氷だ。真冬の澄み切った空気に月は、より強く、そして冴え冴えとした冷たい光を放ち、水面に自らの姿を映し出ししているのだ。

 ランガはゆっくりと顔を上げ、夜空を仰いで目を細めた。

「月が眩しいな……」

「なるほど。妙に明るいと思ったら、満月だったんだね。ランガく……」

 月からランガに視線を戻し、愛之介は目を見開いた。

 無数の花びらがランガの周りを舞っていた。透明な月の光を受け銀色に輝きながら、はらはらと。その桜吹雪の中ランガは静かに微笑み、たたずんでいる。その美しく幻想的で儚げな風情に息を呑んだ。

 ランガは手のひらを上に向け落ちてくる花びらを一枚握りしめた。

「雪が降ってきたね……」

 その声に愛之介は我に返った。

 雪を桜の花びらと見間違えるなど、どうかしている。

「冷えると思ったら……風花だ」

「かざばな?」

「晴れているのに落ちてくる雪のかけらのこと……」

 雪のかけらを受け止めたランガの手にそっと自分の手を重ねれば、彼は握り返してくる。指先は冷たかったけれど、触れているところからじんわりと体温が行き交う。

「春になったら……ここに桜を見にこよう。この土手に植えられているソメイヨシノは満開になると見事だよ」

「いいけど……でもなんでいきなり桜?」

「さあ、なんでだろうね。それにしても立ち話をするには寒すぎるな。帰ろう。帰ってお風呂に一緒に入ろうか……それで湯船に浸かって冷えた体を温めよう。それから……」

「それから?」

「君のお望みのままに……僕に何なりと言いつけて」

「俺たちきっと同じこと考えているよ」

 愛之介の唇に触れるだけのキスをして、ランガは悪戯っぽく笑った。

おまけ(帰宅して……)

 陽当たりが良く断熱性に優れたこのマンションの一室は、たとえ暖房を入れていなくても寒い思いをすることなどほとんどないのは確かだ。

 脱衣場も風呂場も寒くないのだから別に体を温める必要はない……と抵抗してきたが、なんとかなだめてふたりで湯船の中へ。もっとゆったりとイチャイチャしていたかったのに、彼は「これ以上はムリ」とものの二分かそこらで上がってしまう。

 今日は冷え込むから、と湯の温度を高めに設定してしまったことが敗因だった。

 まあいい。バスタイムはほんのオードブル。メインディッシュはこれからなのだ。

 バスルームから出れば、ランガはすでにパジャマに着替えていて、マグカップにお湯を注いでいた。

「はい。ノンカフェインのだから安心して」

 受け取ったマグカップからは芳しい紅茶の香りが立ち上がる。それに混ざるのは甘い匂い。

「ありがとう。これは……はちみつだね」

「うん。喉にいいんだって。愛抱夢、なんか声が少し掠れているみたいだから」

「空気が乾燥しているから、その影響だろう」

「それより……タバコの方が喉に悪い気がする。少し控えたら」

「ははは……君はなかなか手厳しい」

 甘えるように身を擦り寄せてきたランガの頭を優しく撫で、湿り気を帯びた水色の髪に口づけ目を閉じた。ランガの匂いがする。心臓の鼓動を速め興奮させ、それでいて癒されるランガの存在を強く感じさせてくれる匂いだ。

 頬を両手で包み、顔を近づけていけばランガは目を閉じる。まさに唇と唇が触れようとした次の瞬間、テーブルの上に置かれたスマホが鳴った。ランガは小さく、ごめんと断って体を離した。

 スマホを耳に当て「暦? 珍しいね」とランガは声を弾ませた。

 どうやら彼の親友からの電話らしい。なんと間の悪いことだ。

 やれやれ。こういうこともあるさ。

 チラリと視線を送ってきたランガに、笑顔でうなずいてやった。赤毛は自分の寛容さに感謝すべきだ。

「今? うん、大丈夫だよ」

 大丈夫なものか。タイミングが悪すぎると、それでも苛立つ己をなだめようと、一口ほど残った冷たい紅茶を喉に流し込んだ。

 落ち着け。自分は大学生ではない。余裕のある社会人なのだ。

「そうか。驚いた。おめでとう。こっちも順調」

 当然だ。ふたりの恋人関係は、順風満帆、絶好調、相思相愛、超絶ラブラブだ。

 どうだ。うらやましいか。悔しかったら恋人のひとりやふたり、つくってみるがいい。どうせそんな甲斐性もないだろうが。

「へえ……スケーターなんだ。それはよかった。うん、わかった。年末には沖縄帰るから、そのときにでも紹介して。一緒に滑ろうよ」

 赤毛に新しいスケート友達ができたということなのだろう。

「じゃあ、おやすみー」

 通話を終え、スマホをテーブルに置いてランガは振り向いた。

「暦からだった」

「すぐにわかったよ。彼、元気にしていたかな」

「元気だよ。それでね。暦、ガールフレンドができたみたい。そのことをメッセージじゃなくて直接、俺に伝えたかったんだって」

 あの赤毛がねぇ……。まあ、別にあり得ない話ではないのだが——

「ほう……」

 それっきり、次の言葉が出てこなかった。他人の恋愛話には興味ないのだからどう反応していいのかわからない。

 ランガはお構いなしに続ける。

「それがさ、暦は清楚系の女の子が好みだって前々から言っていたのに、今つきあっている子は真逆の活発なタイプなんだって。しかも、スケーターだっていうんだ。だから今度一緒に滑ろうって。あとさ……」

 久々に友人と直接話せたせいだろう。それから赤毛の話題が延々と続いた。瞳をキラキラとさせ、親友のことを話す彼は、とても楽しそうだ。

 恋人が楽しいのなら自分も嬉しい。そのはずと、自分自身に言い聞かせながら、笑顔を絶やさずうんうんと相槌を打っていた愛之介だったのだが、話題を変えさせるタイミングを思案していた。

 そんな愛之介に、はたと気がついたのかランガは軽く肩をすくめた。

「ごめんね。なんか俺、一方的にしゃべっちゃってたよね。愛抱夢には関係ない話なのに……」

「関係ないなんてあるものか。愛するランガくんの親友なんだ。久しぶりに友人の声を聞けたんだろう。それなら無理もないさ」

「ありがとう」

 ランガは少し安心したような顔をした。

「でもね、今夜は……」

 頬を両手のひらで包み、じっと見つめながら親指の腹で桜色の唇をそっと撫でれば、彼は、「わかってる」と小さく笑った。

「やっとできた愛抱夢とふたりだけの夜だものね」 

 唇と唇がゆっくりと重なった。

 軽く触れ合うだけのキスはすぐに深くなっていく。強く吸い、薄く開きかけた唇を舌で割った。濡れたリップ音が興奮を高めていく。

 それから、パジャマのボタンを外し胸を開き、そこに唇を押しつけた。肩から胸、乳首へと唇が這いまわる。ランガの指が愛之介の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。

 パジャマパンツの中に手を入れ、下着の上から優しく愛撫する。手の中で、緩く勃ち上がっていた熱いものが徐々に硬さを増していった。

「ん……あっ……あぁ、ん……」

 切なげな喘ぎ声に、唇を外し視線を上げれば、反らされた白い喉が目に入った。

「ベッドに行こうか……」と耳元に囁き、ランガを抱き上げる。するりと首に腕がまわされた。

 ベッドに横たえ、白い裸身をしばし眺めていたらランガは居心地が悪そうに柳眉をひそめた。

「何しているの? やらないのか?」

 愛之介はおどけたように眉を持ち上げた。

「ああ、悪いね。綺麗だなと、つい見惚れてしまっただけだよ」

「もう……」とランガは唇を尖らせる。

 顔を近づけていく、熱い吐息が触れ合った。

「ふふ……思う存分、深く激しく愛し合おうね」

 ああ、濃密な長い夜がはじまる——はずだったのだが……


 十二月の早朝、まだ薄暗い中、肩肘で頭を支え、愛しい恋人の寝顔を眺めていた。そんな彼が薄目を開ける。

 少々、気まずい。しかし、いつもどおり、さりげなく自然な笑顔で……

 「おはよう。目、覚めたかい?」

 ランガは、ぼーっとした様子で、それでも何度か瞬きをしてピントを合わせようとしてきた。目と目が合った瞬間、ふたりは同時に言葉を発していた。

「すまなかった」

「ごめん」

「「眠気に勝てなくて!」」

 顔を見合わせ、ふたり同時に吹き出していた。

「睡眠不足だったとはいえ、我ながら情けないと思うよ」

「俺も……同じだよ」

「僕は君を愛撫していたはずなのだが……気がついたら……そのまま寝落ちしていたらしい」

「うん。俺も触られて、気持ちいいなって思っていて……目が覚めたら今、この時間だ」

「なら、おあいこってことでいいかな?」

「もちろん」と、ランガは肌をぴたりと密着させてきた。優しい体温が行き交う。

「あのさ、こうやって朝までくっついて眠れたの……なんか、すごく嬉しかった」

「そうだね。僕たちは眠っていても離れられないんだ。それほど愛し合っているってことだよ」

「そうか。なるほど」

 ランガの唇に触れるだけのキスをする。

「でも、それはそれ。これはこれ……ということで、今から愛し合いたい……どうかな?」

 ランガは嬉しそうにうなずき、キスを返してきた。