悔恨
古狸どもとの不毛なバトルで疲労困憊し、やっとたどり着いた薄暗いマンションエントランス前で見上げれば、我が家のリビングに面した窓から漏れる明かりのあたたかさにほっと息を吐く。
この政治家という仕事に就いてから、東京と沖縄を頻繁に行ったり来たりする必要があるため双方に住まいを持つことになった。
在京中の拠点にしているこのマンションは、ひとり帰宅しても真っ暗で迎えてくれる人など誰もいない基本眠るだけの無味乾燥な部屋だった。一方、沖縄の神道家はいつも明かりが灯っていたとはいえ、迎えてくれるのは使用人や伯母たちのみ。どこか息苦しくなんというか別の仕事場に到着した気分になることすらあるような、とてもリラックスできる環境とはいえないのだがそれは子供のころからの日常で慣れてしまっていた。
そんな沖縄の自宅でひと息つけるのは夜ひとりになってSの動画をチェックするときだけなのだ。
しかし、ランガと東京で暮らすようになった今は違う。愛する人がいて自分の帰宅を待っていてくれているのだと思うと、人目をはばからずステップを踏み、踊りそうになる。さすがに国会議事堂や議員会館の中ではやらないが、まあ、鼻歌くらいは許してほしい。
さて、今夜はどのような出迎えをしてくれるのか少し想像するだけでドキドキする。
玄関のドアを開けると同時に抱きつきキスをしてくれる情熱的なランガくんはもちろんのこと、寝ぼけ眼でぼーっとしながらも頑張って帰ってくるまで起きていてくれた彼もラブリーだし、眠気に負けてベッドで眠ってしまっている彼の寝顔を愛でるのもたまらない。大学の課題に集中しすぎるあまりこちらの帰宅すら気づかなかったそっけない彼の真剣な表情もそれはそれで良いものだ。
つまりスケートとは関係なく、安らぐことのできる居場所を手に入れたのは、生まれて初めてなのだ。そう思うとランガのありがたさが身に沁みる。
今や彼は神道愛之介の人生になくてはならない大切な伴侶だった。
その夜も玄関の鍵を開ければ、パジャマ姿のランガが笑顔で出迎えてくれた。
「お帰りなさい。おつかれ」
「ただいま」
愛之介の上着を受け取りハンガーに掛けながらランガは訊いてくる。
「ご飯ちゃんと食べた?」
シャツからネクタイを引き抜く。
「ああ食べたよ。君は?」
「食べた。愛抱夢……もうずっと忙しそうだね。確か、沖縄に戻るの明日だよね」
「その予定だ」
「ここには寄らないでそのまま沖縄へ発つんだろう」
「そうだね。あいにく時間がなくてね。そのまま羽田へ直行だ。少し会えなくなるけど留守番頼むよ」
「わかった。忙しくてもちゃんと寝て、ご飯は食べて……」
「それは、君がお母さんにいつも言われていることだろう」
「あ、バレた?」
「そりゃね」と、脱いだスラックスをハンガーに吊り下げてから、そのままバスルームへ向かう。なぜかランガがついてくる。
「風呂に入ってくるから君は、我慢しないで先に寝ていて」
言えばランガは、むーっと口を尖らせた。どうやらご不満らしい彼の頭に手を乗せ顔を近づけ、にっと笑った。
「一緒に風呂に入りたい?」
「もうシャワーは浴びた。俺、眠ったりしないで待っているから……」
「そうかい……でもね。今夜はしないよ。沖縄から帰ってきたら時間ができるから、ゆっくりと愛し合おう。スケートとベッドの両方でね。そのときまで少しお預けになっちゃうけど我慢できるかな?」
「俺だって今そういうことをしたかったわけじゃないんだ。ただ、ほら……愛抱夢、俺と同じベッドで眠ると熟睡できるって言っていただろう。だから……」
「僕はもちろんそうだけど……君はどうなの?」
「俺は……愛抱夢と手を繋いだり体をくっつけて寝ると、すごく……気持ちよくて……なんか安心するんだ。しばらく会えないだろう? それで今夜くらい……」
「それは、嬉しいなぁ。ランガくんがいいのなら僕のベッドで待っていて」
花びらが開いていくように桜色の唇が綻んだ。その綺麗な笑顔に一瞬言葉を失い、しばし見惚れてからバスルームのドアを開いた。
明かりを落とした寝室を暗がりに慣れない目で、つまずかないよう注意深くベッドへと近づき、ランガの傍らに潜り込めば、どうやらまだ眠っていなかったらしい彼は、もぞもぞと擦り寄り愛之介の腕に抱きついてきた。
「起きていたんだ」と頭を撫でてやる。
「待っていた」
くすくすとくぐもった笑い声が聞こえた。ランガは肩口に唇を押し付け笑っている。なんともこそばゆいが、こんな何気ないことにも彼を感じることができるのだ。
幸せだと思う。今のこの自分の状況——ランガとの関係が、素晴らしく幸せ。こんなふうに自然体で一緒にいてくれる伴侶を得られたのは幸運なことなのだと意識すれば、心が際限なく悦びに震える。
ランガをイヴとして見つけたときは、間違いなく彼は自分のものになるのだと、信じて疑わなかった。ランガは自分の隣に立つ資格を持った唯一の存在なのだから。当然すぎて、なぜと疑問を挟む余地もなかった。我ながら無邪気なものだと思う——いや、あのときは余裕がなさすぎて、余裕がなかったことにすら気づかず、状況がまるで見えていなかったに過ぎなかったのかもしれない。
思い起こせば、自分か彼のどちらかが、選択をひとつ違えてしまっていたら、今のようなふたりの関係はなかった。そんな最悪の可能性に今更ながら気づき背筋が冷える。
もしもあのとき……という運命の分岐点はいくつもあった。
例えば……
トーナメントをやろうと思いつかなかったら。
ランガが、友人の忠告を守りエントリーしてくれなかったとしたら。
何より……
運命の決勝戦で、ランガがあの世界へ自分を迎えに来てくれなかったとしたら……
虹色のふたりだけの世界から消えたはずのランガは、絶望の中、嘆きそれでもなおイヴを求め彼の名を叫んだ愛之介のもとへと、自らの意思で戻ってきたのだ。自分だけさっさとゴールすることも可能だっただろうに。何がランガをそうさせたのか。
「君は……あのときどうして戻ってきて、僕の手首を掴んでくれたんだろうね……」
無意識に心に思ったことを声にしてしまっていたことに気づき、ぎょっとする。
「ん?」とランガは顔を上げ寝ぼけ眼を向けてくる。
「意味不明なひとりごとだから気にしないで」
ランガは何度か瞬きをして、また目を閉じ愛之介の腕に顔を押しつけてきた。
「……俺、いつも失くなってから気づくんだ。それがどんなに大切だったかって……もう失くしてから後悔するのは……い……ふわぁー……」
あくび混じりになった語尾は何を言っているのかよく聞き取れなかったけれど、愛之介が発したひとりごとは伝わっていたらしい。
「ランガくん?」
呼んでも返事はなかった。ただ規則正しい静かな寝息だけが耳に心地よい。
ランガの言葉をもう一度並べ噛み締める。
いつものランガは、何を語るでもなく、ただ寄り添ってくるだけ。ただそこにいるだけなのだ。
振り返れば自分はどれほどの長い時間を孤独の中で生きてきたのだろう。もちろん見かけ上は孤独ではなかった。多くの人に囲まれ、伯母たちから愛を注がれ、たくさんの賞賛の言葉を浴びてきたのだから。ピンと心に糸を張り笑顔を絶やさない日々。癒しを求め、唯一俗世からの逃げ場所であった虹色の世界——それなのに、そこでも自分はひとりぼっちだった。だからアダムとともにあるべき存在を探した——イヴという。
そうして運命に導かれるようにして彼と出会ってしまった。
スケートだけはない、ランガという存在そのものを今は知っている。心を体を。あれだけのことをしでかして、なお受け入れられる悦びを。どこまでも穏やかな光に抱かれ得られる安らぎを知ってしまった。
あの世界で手首を掴んできたランガは、力任せに愛之介を俗世に引き戻した——いや……そうではない。現実世界と自分をもう一度繋ぎ直したのだ。
ランガは言う。俺が教えてもらったから。俺が暦や仲間から教えてもらったことをあなたに教えると。
彼にとってそれくらいの軽い意味だったのかもしれない。当時は、だが。
たとえ、そうだったとしても、現実ランガはここにこうしていてくれる。自分はそんなランガを手放すことはできない。ああ、誰がなんと言おうが己の正気がどう忠告しようがだ。
ランガの白い指が愛之介の心にそっと触れてくる。その優しさに愛之介はゆっくりと深い眠りに落ちていった。
了