明日への扉

 シャーッと軽快な滑走音を響かせ、お椀型プールのほぼ垂直の斜面を底に向かって滑っていき反対側の壁面へ。一回、二回と往復しながらスピードをつけいき、その勢いのまま縁から思い切り高く跳ぶ。これから見られるすごいだろう景色に心臓が高鳴った。重力から解放された体がふわりと宙を舞う。

 この浮遊感——気持ちいい。

 ボードに手を添え体をひねれば、視界がランガを軸にしてぐるりと大きく回転した。この瞬間、自分は間違いなく宇宙の中心にいるのだ。

 やがて重力に引っ張られ、体が落ちていく。

 シャツがパタパタとはためき裾から入り込んできた風が、胸を掠め襟から吹き上がった。次の瞬間――ボードとプール壁面が接触し、続いて足に振動が走る。

 成功! それでも満足はしていない。いつだって、もっと高く、もっと高難度のトリックを——まだまだいける。限界は遥か先だ。そこには、まだ見たことのないすごい景色が広がっている。

 ぱちぱちぱち……と手を叩く音に振り向けば、プールの縁に愛抱夢が立ち拍手していた。

「実に鮮やかだ。素晴らしいよ。君はどこまでの高みへと昇っていくのだろうね。ランガくん」

「愛抱夢のおかげだよ」

「そうかい。ますます君へのアドバイスは手を抜けなくなっていくな。もっともランガくんに対して手を抜いたことなんて過去一度もないけどね」

「うん。ありがとう。アドバイスもだけど、それ以上にあなたのスケートを見たり一緒に滑ることが参考になるんだ。だから——俺にもっと見せてよ。愛抱夢のスケートを」

「了解だ」と言うなり、あっという間に姿が消え、プールからシャーッと小気味よい音が響く。ランガは慌ててプール縁まで駆け寄った。

 愛抱夢が滑っている。悠々と。 

 彼のスケートはいつ見ても安定している。Sではこっちの想像力を軽く凌駕してくれるエキセントリックな——ある意味めちゃくちゃな——スケーティングを見せてくれるのだが、冷静になってみると、彼の筋力、体幹、柔軟性から考えて理に適った動作なのだと納得できた。でたらめに見えて、その実、基本がしっかりできている。そんなスケートなのだ。

 愛抱夢は体格がいい。もっともチェリーやジョーやシャドウもだが。それどころか暦ですらクラスでも背が高いほうなのだ。

 今現在オリンピック競技として採用されているストリートにしろパークにしろ、小柄なスケーターが有利だ。空中で難易度の高いトリックを決めるような競技は、筋力よりも体の軽さがものをいう。だからだろう。海外スケーターですら身長も百七十センチいくかどうかという選手が活躍している。

 女性は特に思春期で体型が変化する前のローティーンの少女たちの活躍が目立つ。他の競技と同じようにいずれ年齢制限がつくようになるかもしれない。多くのスケーターが、より長い時間スケート選手でいられるようにと。

 小柄な日本人スケーターが強いのは、そんな理由もあるのかもしれない。

 スノーボードもそうだった。エアトリックなどを競う競技はやはり小柄な選手が多かったっけ。それが、スノーボードクロスなど順位というかスピードを競うような競技となると筋力がものをいうようになる。

 スケート競技でいえば、ダウンヒルあたりがそうだろうか。なんでもありじゃないSのようなものといえばそうなんだけど……Sとは似て非なるものだ。やはりSがいいと思ってしまう。

 突然、愛抱夢がプールから高く飛んだ。

 彼は膝を折り屈み体を捻り回転しながらボードを掴んで宙を舞う。ボードをくるりと回転させ再び掴んで足に戻し、プール斜面に着地すると反対側の急斜面を駆け上がっていき、もう一度宙を舞う。そうやって次々と華麗なトリックを決めていった。

 こんなふうに難しいトリックを決める愛抱夢を見ていると、彼の視界に入る景色が、ランガの目にも見えているよう気になる。それは愛抱夢の視界を共有しているような不思議な感覚だった。もちろんただの錯覚でしかないのだろうけど。

 そして、その日、一番の高さで決めにかかったエアトリックに目を見開き息を呑んだ。

 ——翼?

 宙に浮く愛抱夢の背中から、光り輝く翼が見えたような気がして、目を凝らす。

 傾きかけたオレンジ色の太陽からの逆光で、彼とボードの輪郭がひとつに繋がり金色に縁取られ光が広がっていた。その眩しさにランガは目を細めた。

 ——眩しくて錯覚してしまったのか。いや、でもあれは……トーナメント決勝戦で、虹色に輝くあの世界で愛抱夢と意識を通わせた、あの感覚に似ている。気のせいか? 

 ランガはそんな堂々巡りの思考をぶった斬った。やめよう。今はまだ……。

 そして、愛抱夢のスケートだけにランガは意識を集中させた。

 繰り返し高難度のトリックを見せつけた愛抱夢がプールから上がり、ボードを抱えランガのところまで歩いてくる。

 ランガは胸の前で小さく手を叩いた。

「やっぱり愛抱夢はすごいね」

「かっこよかっただろう」

「うん。とってもかっこよくて——それに……綺麗だった」

 愛抱夢は目尻を下げ、嬉しそうに笑った。

 それから、スポーツドリンクをランガに渡しながら、愛抱夢が真面目な顔をして訊いてきた。

「ところで、ランガくんは、進路決めたのかな?」

「まだなんだ。母さんは将来を考えて大学くらい進学したほうがいいとは言ってくれているけどお金かかるし。それで母さんに無理してほしくないんだ……」

「お母さん思いだね。でも、君ほどの才能があれば、プロのスケーターになることも可能だと思うよ。大学生プロという道もある」

「実也みたいに?」

「そうだね。実也と同じフリースタイルはランガくん向きではないだろうけど。他にも君向きの種目はあるから大学に進学したいのならプロになることも視野に入れておくといい。生活できるほど稼げるかというと疑問ではあるが足しにはなるよ。ランガくんの場合、プロスケーターになる方が、給付型奨学金を狙うより現実的なことは間違いない」

「それ、どういう意味?」

 少しむっとして聞き返す。

「なに、深い意味はないよ」と、愛抱夢はただ笑ってごまかしている。

 少し調べてみたけど、確かに返さなくていい奨学金をもらえるほど自分は成績優秀ではない。そんなことわかっている。でも、日本の場合、普通の奨学金はただの借金だから返済に皆苦労しているとチェリーが教えてくれたから悩んでいた。

「君はまだ若いのだから、色々な選択肢がある。僕はランガくんがどのような道を選ぼうが応援し続けるよ。僕にできることならなんでもしよう。いつでも相談してほしい」

 愛抱夢のアドバイスはいつも的確だと思う。ならば、いいのかな? 自分の未来をもう少し信じても……

 ランガは愛抱夢と向き合い微笑んだ。

「ありがとう、愛抱夢。そうだな。俺は……」