水に降る雪

 その日は久々にランガと丸一日過ごせる休日だった。冬空の下、少し足を伸ばし河川堤防の遊歩道で一緒に滑った。

 白い息を吐きながら散歩する人たちの間を注意深く縫っていく。ジョギングやサイクリングをする人たちは、ちらほら見かけるが、スケーターには、まだは会っていない。

 ふとランガが言った。

「今日はなんかいつもより寒いね。沖縄ほどじゃないけど東京もずっと暖かかった気がする」

「世界的に年々気温が上昇しているからね」

「温暖化のせい?」

「そうなるね。だから冬だと考えればさほど気温は低くないはずの——この程度の気温に寒いって感じちゃうんだ。天気予報によると今日は雪がちらつくかもしれないそうだけど……」

 曇天を仰げば、今にも降り出しそうな空だった。

「積もる?」

「多分、積もらない……」

 あれ? と目線を下げたランガは遊歩道の端に移動すると、しゃがんで緩んだスニーカーの靴紐を結び直しはじめた。直し終え彼は、街路樹に軽く触れからだを支え立ち上がる。

「ランガくん。君が触っているその木……桜だよ」

「へえ……まだ咲いてないね」

 ここの河川敷は遊歩道に沿って桜並木になっている。春には花見が楽しめるのだが、年々桜の開花が早くなっているのだ。満開の桜の下での入学式という日本というか東京の風物詩が見られなくなって何十年経つのか。

「春になったら一緒に花見をしようね。三月末くらいかな」

「わかった。日本って川に沿って桜が植えられているよね」

「何故だと思う?」

「さあ」

「東京が江戸と言われていた時代、河川が氾濫してちょくちょく洪水を起こしたんだ。そこで川に沿って土手をつくり、水が溢れ出すことを防ごうとした。でも、ちょっと土を盛ってもすぐに固まらないから大雨であっという間に流されてしまう。そこで桜の木を植えた」

「どうして?」

「春になると皆が花見に押しかける。押しかければ地面が踏み固められるだろう?」

「なるほど。頭いい!」

「身分のある武士も庶民も皆同じく花見を楽しんだんだよ。当時の——今もだけど——一大イベントだったのさ」

 そんなやりとりをしながら川縁へとスケートボードを抱え下りていく。夏場にあれほど青々と生い茂っていた草木が、今はもう茶色い枯れ草となって、遊歩道から川のほとりまで難なく歩いていくことができた。

 ふたり並んで水辺に立ち、ゆったりと流れていく川を眺める。

 清流とはとてもいえないけれど、ドブ川というほど汚れてはいない。かつては悪臭漂う汚れた川だったのだが、河川の水質浄化対策が功を奏した。

 言ってしまえば那覇を流れている川より綺麗かもしれない。

 ふと頬に冷たいものが触れた。

 おやと思い、注意深く見渡せば、チラチラととしたものが見えた。

「雪が降ってきたね」

 ランガは手のひらを上にして腕を伸ばし、ひとひらの雪をギュッと握りしめ「本当だ」と言った。

 やがて雪は本格的に降り出したようだった。流れる川の上にも次から次へと雪が舞い降り、消えていく。

「〝水に降る雪 白うは言はじ 消え消ゆるとも〟」

 ふと口にした古典歌謡の一節にランガが反応する。

「何それ。日本語?」

「そうだよ」

「何言っているのか全然わからなかった。俳句か何か?」

「俳句ではない。〝閑吟集〟という室町時代の歌謡——流行歌だから恋の歌が多い。言葉遣いも古いしね。日本人だって通じない若い子はそこそこいると思うよ。チェリーはもちろんわかっている……もしかして実也くらいなら理解できそうだけど、赤毛くんどころかジョーやシャドウだって怪しいな。まして母語が英語の君じゃあ無理もない」

 むっとランガは口を尖らせた。

「俺、もっと日本語頑張る。あなたと話が通じないのは嫌だ」

 思わず口もとが緩んだ。

「えらいね」

「バカにしている?」

「まさか。君が僕のためにと言ってくれるのが、嬉しいんだ」

 ランガは気まずそうに目を逸らした。

「それでどういう意味なの?」

「直訳しちゃうと、水の上に降る雪はさっさと消えちゃうから白いとは言えない——みたいな?」

「何そんな当たり前のことを……バカなの?」

 思わず吹いた。

「いや、深読みすればさまざまな解釈ができるんだ。人によって捉え方は違うけど、一般的には片恋の歌だろうと言われてる」

「さっきの直訳には恋なんて言ってなかったじゃないか」

「確かにないね」

 ランガは顔をしかめた。

「謎かけ? とんち? 意味わからない」

「一般的な解釈は『私の恋心は水に落ちた瞬間、次々と消えていく雪のよう。だからはっきりとは言わず心にしまっておこう……』みたいな感じかな。どんな解釈でも人それぞれ、受け止め方次第だよ。正解はないんだ」

「ふーん。でもその多数派の解釈って、なんか愛抱夢っぽくないね」

「そう思うかい?」

「だって愛抱夢は黙ってひとりで諦めちゃったりしないだろう」

「もちろんだ。まあ、当時の時代背景としては諦めざるを得ないことだってあっただろうさ」

「愛抱夢だったら、どう解釈する?」

「ん? 僕の解釈だとね……」

 と一瞬だけ考える。

「当然〝雪〟はランガくんそのものになるね……」

「うん」

「君は水の上で次々と消えていく雪のように儚げで掴みどころがない。でも僕は決して諦めないよ。必ず君を現世に繋ぎ止め手に入れてみせよう——とかね」

 咄嗟の思いつきで出てきた言葉だったが偽らざる自分の思いだった。

 この歌に対する解釈としてはどうかと思うが。

「なんか、強引にこじつけていない?」

「バレたか……」

「あのさ……」

 そう言ったきり、ランガは黙り込み無数の雪が消えていく川の 水面をじっと見つめた。愛之介もランガの視線の先を追い続く言葉を待つ。

 しばらくしてランガは口を開いた。

「繋ぎ止めるのは俺の方だよ。だって俺は消えたりなんてしない。俺があなたをこの世界に繋ぎ止めるんだ」

 彼の方を向けば、目が合う。

 この灰色の世界にあっても鮮やかで強靭な青に、一瞬気圧された。

 その青が主張する。自分が愛之介を俗世に繋ぎ止めると。

 ああ、そうだった。この子は強いのだ。だから僕は……

 愛之介は空を仰いだ。今すぐランガを抱きしめたい。抱きしめて、キスをして、それから……

「帰ろうか。雪の振りが思ったより強くなってきたね。ボードを濡らしたくないし……」

「そうだね。なんかお腹空いちゃったし」

 彼は笑顔で応じ、そっと愛之介の手を握った。