今はもう……

「ああ……見事だな……」

 早めの夕食を済ませ、西日が射し込むバルコニーのガーデンチェアに座り、タバコを燻らせながら夕焼け空と夕陽の眩しさに目を細めた。

 夕映えの海は美しい。これから、あっという間に訪れる日没まで、夕陽は強い朱を帯び周辺の空や海を茜色に染めるのだ。

「愛抱夢……タバコ吸っているの?」

 かけられた声に慌ててテーブルに置かれた灰皿でタバコを揉み消した。

「大丈夫。今、吸い終えたところだよ」

 ランガはそのまま静かに歩み寄り、愛之介と並んでガーデンチェアに腰掛けた。

「空を見ていた? それとも海?」

「どちらもだ。……綺麗な色彩だなと思って」

 愛之介は、ちらりとランガの方を見てから、その景色に視線を戻す。ランガは愛之介の視線の先を追うように西の海と空に目をやった。

 太陽は水平線に差し掛かり西空と海岸線をオレンジ色に染めている。まだ眩しさの残る西空を背景にシルエットを描く椰子や海に浮かぶクルーズ船が、逆光の夕日に縁取られ金色に輝いていた。漆黒の闇に覆われるまでの薄明のときはあと三十分ほどか。

「うん。なんだろう。今日は特別綺麗……な気がする」

「ランガくんもかい」

 愛之介は、ふっと両口角を上げ、ランガもつられるように微笑を返した。

 たぶん、珍しくもない見慣れた展望であることは間違いない。

 陽が沈むその前後に何度となく見ていたはずの変わり映えのしない風景に、かつては何の感慨も湧くものではなかった。この世界に心惹かれるものは何もなかった。

 ランガの手に愛之介は、自分の手のひらを重ね軽く握る。

「不思議なものだね。日没前後の海なんて見慣れているはずのものなんだけど、こんなにも見惚れてしまうなんて。きっとここにランガくんがいるからだね」

「俺は沖縄に来て、景色が違っていて……暦やみんなと見たエメラルドグリーンの透明な海や水平線に沈む太陽とか夕焼けにめちゃくちゃ感動したけど……そのうちそれが普通になって。今また、綺麗だって改めて思えるのは、愛抱夢と一緒だからかな」

 愛之介は静かに頷く。

 そうだ。ふたりで眺める世界はこんなにも美しい。

 何か飲み物を——と、椅子から立ち上がる。戻ってきて、冷蔵庫から持ってきたボトルのコルク栓を抜くとポンと軽い音がした。テーブルに並べた二個のシンプルなグラスにその淡い琥珀色の液体を注げば、きめ細かな泡が立ち上がる。

「これ……ワイン?」

「安心して。ノンアルコールだから。でもランガくんには甘いジュースが良かったかな……さあ、どうぞ」

 グラスに口をつけてからランガは「美味しい」と笑顔を見せた。

「口がスッキリする。いっぱい甘いもの食べたからこれでいい」

「それはよかった」

 ふたりでグラスを傾けながら雑談をしていると不意にランガが訊いてきた。

「愛抱夢は、ここが嫌いだった?」

 ここ?

「ここって、沖縄のことかな?」

 ランガは眉を寄せどこか難しい顔をしている。

「うん、あ、どうだろう。もっと広くて……えっと、この世界のことかも……」

 なんとなく、ランガの言いたいことがわかった。そういうことか。

「ああ。沖縄だけではなく世界中どこへ行っても僕は僕でいられなかった。あの世界以外嫌いだったんだと思う」

 あの世界——もちろんそのひと言だけでランガには何を指しているのか通じている。アスリートが超集中状態になったときに得られる究極の感覚をゾーンという。だからあのときふたりはゾーンに入っていたのだとチェリーから指摘された。

 しかし、あれは一般的に認識されているゾーンとは似て非なるものだ。

 運命のトーナメント決勝戦。あの虹色の空間にランガと入り、確かに言語を介さず意識を共有したのだ。それは誰も知らない、ふたりだけが知る真実。

 あの世界にたどり着くことができるスケーター——世界でたったひとりのイヴに焦がれ何年待ち続けたのだろう。だからこそランガは愛之介にとって特別な存在なのだ。

「今は?」

 恐る恐るランガが訊いてきた。

「ランガくんがいてくれるこの世界が、嫌いなわけないだろう」

 そうだ。あそこにランガを閉じ込める必要などなく、今でも彼は、ここにいてくれる。

「よかった……」

 ふと顔を上げれば赤く染まる空が目に飛び込んできた。

 思わず息を呑む。すでに夕陽は水平線の下へと沈んでいるのだが、これほど深い赤に染まる夕焼けを見たのは、はじめてだったと思う。ランガもすぐに気づき感嘆の声を上げた。

「うわっ、すごい。あんなに真っ赤な空ははじめて見るよ」

「僕もだよ」

 西の水平線の上を染める深紅は、オレンジ色から濃紺まで上に向かってグラデーションを描いていた。刻々と色彩が変化しているのだ。あと少しで、この空全体が漆黒の闇に覆われるのだろう。

「ねえ、あの空の色……愛抱夢の目と同じ色だね……」

「そうかな」とランガの頬を両手のひらで包むように挟んで顔を近づける。ランガは目を見開き何度も瞬きをした。

「うん。同じ色だよ」

 息がかかるほどの距離で、そのまま黙って見つめ合うふたりをまだ浅い宵闇が包んでいた。ふたつの吐息が漂いながら混ざり合う中、どちらからともなくキスをする。

 愛之介は一度唇を外してから、ランガの腕を掴み自分の膝へと引き寄せ抱きしめた。再び重なり合う唇。口づけは徐々に深くなっていった。まるで言葉にならない想いを伝えようとするかのように。

 その間、ひとつふたつと星は輝きを増し、ふたりの頭上には降るような星空が広がっていった。澄んだ夜空に煌めく星々は宝石を散らしたように美しい。

 その美しさに気づかぬまま抱き合うふたりを星明かりが密やかに照らしていた。