透明な雫
衣擦れの音とベッドの軋み、乱れた苦しげな息遣いと甘く掠れた喘ぎが薄闇を震わせる。シーツに爪を立てぎゅっと掴めば白銀のゲレンデに刻まれたシュプールのような紋様が描かれた。
からだを繋げたまま背後からまわされた腕で思い切り抱きしめられ耳元で湿ったあたたかい吐息とともに囁かれる。
「僕がいる。君の中に……僕を感じて……ごらん」
その声音はランガの快楽中枢を刺激し、抑えてきた鳴き声が喉からほとばしり、どうしようもなく全身を震わせた次の瞬間——激流に呑まれ白く霞んでいく意識の中で……
「ラン……ガ……くん。ランガ……」
頬を撫でられ、ランガはうっすらと瞼を開けた。
「ああ、やっと目が覚めたね」
ほっと安堵したような声。
ぼんやりとしたピントの合わない視界に映るのは、覆い被さる人影と、あたたかな色彩の間接光に照らされた部屋の天井。
そっか。ここはいつものベッドルームだ。
薄明かりの中、はっきりと顔は見えなかったかったけれど、優しく響く声と、頬を包む大きな手の感触は愛抱夢のものだった。
その手に自分の指を重ねる。
「あ……だむ……?」
やっと絞り出した声はひどく掠れていた。喉が少し痛い。声を張り上げ過ぎたせいだ。そんなに叫んでいたのかと思うと恥ずかしくなる。
「少しばかり心配したよ」
ランガの乱れた髪を整えるように数回手櫛で梳かしてから、愛抱夢は上体を起こした。
「なかなか起きなくて……もし、このまま目が覚めなかったらと思うと気が気ではなかったよ」
何を大袈裟な。
愛抱夢はくるりと尻を起点に体をまわし足を下ろすと、床に散らかっているふたり分の衣類を拾いあげながら振り向きニッと笑った。
「ふふ……そんなに気持ち良かったのかな」
「……」
全身の違和感にランガは眉をひそめる。腰が気怠くて——いや、下半身が快感の残滓に疼いていてまだ動きたくなかった。そっと指を持ち上げれば、小刻みに震えているのがわかる。
ふと気づけば、くしゃくしゃに乱れているはずのシーツは綺麗に整えられていて、自分のからだもさっぱりとしていた。愛抱夢が汚れを拭き取ってくれたということか。まったくと大きく息を吐いた。そうまでされても目を覚まさなかった自分に呆れるし気恥ずかしかった。
愛抱夢に抱かれる回数を重ねていけばいくほど、コントロールがきかなくなっていくような気がする。最初のうちこそ緊張して、どこか意地になっていたのだけれど、いつからだろう。こんなふうに無防備に身を委ねてしまうようになったのは。他を知らないからわからないけど、これが普通なのだろうか。
ああ、そういえばおかしな夢を見ていたなと、曖昧なイメージを記憶の中から手繰ろうとした。
——よくは覚えていない。それでも……
「小さな愛抱夢に会った……ような気がする」
「ん? 夢の話かな」
「きっと、そう。今日の昼、昔の愛抱夢の写真を色々見せてもらったせいかな」
それは何かのイベントで撮った記念のポートレートで、愛抱夢は〝七五三〟のときフォトスタジオで撮影したものだと教えてくれた。袴を履いた幼い彼は五歳か六歳くらいなのだろうか、とても愛らしくて写真と今の愛抱夢の顔を交互に見比べようと、ランガの視線が何往復もしてしまうほどだった。それでも、よく見れば面影はきっちり残っている。だから今の愛抱夢もたまに可愛いと思えるんだなと納得した。
笑顔の子供。でも、その笑顔はどこか作り物のように見えて、空っぽで寂しげにすら感じた。幼かった愛抱夢はたくさんの大人たちに囲まれ、最高の教育環境という愛を与えられ、彼もそのことに感謝していて……なのにひとりぼっちなのだと、漠然と根拠もなくそう感じた。
そして、ランガは夢の中で子供に「泣きたいのに我慢しなくていいんだよ」と——確かに言い、それなのに子供は首を横に振って静かに微笑むだけだった。
あの夢はいったい……
キングサイズの高級ベッドからランガはゆっくり上体を起こす。ブランケットで下半身をくるみ膝を胸に抱えた。
愛抱夢はランガの肩を掴むと、軽く引き寄せる。
「夢の中の僕は、それはそれは愛くるしい子供だっただろう?」
「……うん。とても。でも、愛抱夢……」
「ん?」
「泣いてよかったのに。泣きたいときは我慢しなくても。俺の前だったら泣いても……」
自分は何を言っているのか。
ランガの顔を覗き込んできた愛抱夢の眉が寄り、そして目を大きく見開いた。
「ランガくん?」
その慌てた様子にランガはきょとんと彼を見た。
「どうしたの?」
愛抱夢は困惑した表情でランガの頬を指先で触れ、その指を「ほら」とランガの目の前に突き出した。指先が透明な雫できらりと光った。
「どうしたのじゃないだろう。泣いているのは、君のほうじゃないか」
「え?」と、慌てて頬を指で拭う。
「ほんとだ。あの……愛抱夢……俺……どうしちゃったのかな」
言い訳しようとするも、混乱してますます涙は止まらなくなった。
愛抱夢は大きなため息を落とし、ランガを胸に抱き寄せる。
「あの写真の僕は、そんなふうに君の目に見えていたのかな」
愛抱夢の裸の胸に顔を押し付け、ランガは「うん」と頷いた。
「そうか……」
「気のせいだったら、ごめん」
「いや、気のせいじゃないよ。実は君から子供のときの写真を見たいと言われたとき、正直あまり気が進まなかった。でも、僕は君の子供のときの写真をたくさん見せてもらったしと思ってね。一大決心をしたわけだ」
一大決心って、そんなに大変なことだったのか。
愛抱夢はランガの頭を撫でながら続ける。
「あの写真のころの僕はね。楽しいことなんて何ひとつなくて、自分でも見るのが辛かった。その後、もう少し成長してからの僕の写真は——まだ君に見せていないけど——実は、すごく楽しそうに笑っているんだ。それは別の意味で見返したくなかったんだよ。その楽しかった記憶は、たったひとつの裏切りで粉々に壊れてしまった。それは、もう取り戻せないんだ。それからは、あの世界——君と一緒に入ったあの世界だけが僕の拠り所だった。それ以外すべて、僕にとっては無意味なものでしかなかったんだよ」
「ごめんなさい。俺、そんなこと知らなくて、お気楽に『写真見せて』なんて言って」
「ああ、謝らなくていいんだよ。君は悪くない。昔の写真を見たのは随分と久しぶりだったけど……実はとても不思議だった。なんというか、なんでもないんだ。まさかこんな穏やかな気持ちで当時の写真を見ることができるとはね。自分でも驚いた。きっとランガくんのおかげだよ」
「俺、何もしていないけど……」
「君の存在そのものがだよ」
「よくわからない」
「人の思い出なんて構えるほどのものでもないんだろうね。あのころの自分がいたから、今の自分がある。そう思える程度には僕も大人になれたってことなんだ」
自分に言い聞かせるような言葉と共に、ふわぁーと大きなあくびの音がした。
「眠い?」
「そうだね。悪いけど横になるよ……」
愛抱夢はブランケットにゴソゴソと潜り込むといきなり目を閉じた。
「愛抱夢……?」
返事はない。ブランケットを掛け直し、彼の口元に耳を近づければ静かな寝息だけが聞こえてくる。
そういえば、自分も暦と出会って、スケートと出会って、はじめて喪失感だけではない幸せな記憶とともに父親のことを懐かしむことができるようになった。
ランガは愛抱夢の額にかかった髪をどけ、そっとキスをした。
互いの存在と時間の流れが心の傷を癒してくれるというのなら、これから何があっても、どのような苦難でも、どれだけ他者から傷つけられようが乗り越えることができる。そんな気がした。このぬくもりが傍らにあれば。
ランガは愛抱夢に寄り添い目を閉じた。
愛抱夢の見ている夢が優しく幸せなものであることを祈りながら。
了