仲直り
きっかけは極めて些細でくだらない——ちょっとした行き違いだった。それだってお互い虫のいどころが悪かったのでなければここまでエスカレートしなかっただろう。
おそらくこれは、ふたりが相手を恋人と認識してからはじめての喧嘩だったのだと思う。
愛抱夢はランガを思い切り甘やかすくせに嫉妬深いし独占欲が強いことは一応理解しているつもりだった——というか、そうスケート仲間から心配され忠告も受けていた。
それでも暦に対する誤解も解け、特に束縛されることもなくランガはマイペースで比較的穏やかな時間を過ごせてこれている。ところが三回連続して約束が破られたことで少々ランガが拗ねてしまったところからなんとなくギクシャクしてしまった。その上ランガは言葉にして気持ちを伝えることが得意ではない。そこに色々と偶然が重なったことからくる愛抱夢の勘違いが、さらに追い打ちをかけることになる。
ランガが、頻繁に同じ大学の女子と会っている。あるいは特定の男友だちと親しげに過ごしている。そんな情報が小間切れに入ってくる。ありとあらゆるギリ合法な手段を用い集めている情報なのだから愛抱夢の自業自得ではあるし、冷静になればどうってことのない一般的大学生の日常でしかないのだが、繁忙を極め精神的にも追い詰められていたた愛抱夢——もとい政治家神道愛之介にはそんな心の余裕はなかった。
これはデート? もしかして浮気しているのか? などとつい悪い方悪い方へと想像が向ってしまう。一方ランガは、そんな愛抱夢の猜疑心に気づくはずもなくひたすら無頓着だった。
やがて決定的なあることを知ってしまったことで、抑制できていた愛抱夢の感情が爆発してしまったのだ。
最初は愛抱夢からのあからさまな皮肉を含んだ軽口だったのだが、何に苛立っているのか理解できずただ困惑し、そのうち面倒くさくなったランガは「あなたには関係ない」と話を切り上げようとして火に油を注いでしまい、さらにきつい尋問口調で問いつめられたことで——
流石のランガも一瞬、ぶん殴ってやろうかと手を握りしめた。
しかし、相手の職業を考えると少なくても衣服に隠されていない部分に対して打撲の痕などをつけてしまうことには抵抗がある。まして顔が腫れてしまったら、それこそマスコミの餌食だ。
もっともそれはお互い様で、愛抱夢も暴力に任せランガを傷つけてしまうことは避けたかったのだろう。
そうやって中途半端に揉み合いながらも、愛抱夢はなんとかランガをねじ伏せベッドの上で馬乗りになって両手首をまとめて頭上で押さえつけた。
ふたりとも怪我を負わない負わせないようにと無意識にブレーキがかかり——結果、体重と筋肉量の差で勝敗は決してしまう。
なんという茶番。なんという不公平。理不尽だ。
「許さない……」
絞り出された声にランガは相手の顔を凝視する。見れば愛抱夢は眉間に皺を寄せ——例えるならば苦悩の表情だ。どうしたのだろう。ちょっと態度が悪かっただろうことは認めるけど「許さない」なんてことを言われるようなことをしたのだろうか。
見下ろしてくる深紅の瞳の中に内包されているだろう感情を、ランガは読み取ろうと試みたが何も見えてこなかった。
「許さない……ランガくんが僕のそばからいなくなるなんて。君が僕以外のものになるなんて。そんなの絶対に許さない」
「何を言っているの?」
「君は僕だけのイヴだ。僕のだ」
「うん。知ってるよ」
その言葉にカッと目を見開いた愛抱夢は、大声を張り上げた。
「では、なんで浮気なんてしたんだ。僕が忙しすぎて君との約束を反故にしたからか。寂しかったのか」
浮気? この人は何を言っているのか。
「落ち着いて愛抱夢。浮気って何の話? そんなこと俺はしてない。どうしてそう思ったんだよ」
「君と特別仲の良い女性も男性も知っているんだ。最近よく一緒にいるだろう」
自分に暦以外の友人ができることがそんなに不思議なんだろうか。大学に入ってからできた仲のいいスケート友だちくらいいたとしても普通だろう。
「ただの友だちだよ」
「ランガくん、僕に嘘をつかないで欲しい。君はただの友人とラブホテルに入るのか?」
ん? あれか……って、なぜそれを知っている?
愛抱夢の特殊能力だろうか。まあいつものことだ。
「あのさぁ、愛抱夢。浮気なんてしていないって、俺はさっきから言っているだろう」
「浮気じゃない? なら本気なのか」
なぜそうなる? 愛抱夢が掴める情報はラブホの外までなのか。ラブホ内の様子まで入手することはできないらしいのだが、あまりにも中途半端だ。どうせならラブホの内部まで徹底的に情報収集すればいいのにと思わないでもない。
「もう……冷静になってよ。ラブホテルだけど、パーティールームを借りただけだよ。現地集合でたまたま友だちに近くでばったり出会ったから一緒に入っただけ。ラブホでパーティしたり女子会したりってよくあるらしくて。バースデイパーティやるからって誘われたんだ。スケートサークルに親戚がラブホ経営しているってやつがいてそこでやってみようと急に盛り上がってさ。愛抱夢も当分自由な時間を取れそうにないって言っていたし、たまには参加してもいいかなって……」
「本当に?」
「嘘ついてどうするんだよ。疑うのならパーティーの写真がSNSにアップされているから見ればいい。出された料理は美味しかったしカラオケも歌い放題だった。前もって愛抱夢にも話しておいたほうがいいかと考えてはいたんだけど、あまりにも忙しそうだったから話すタイミングがわからなくて……」
手首を押さえつけていた力がふっと抜けた。真上に見える彼は、流石に信じてくれたようだが、なんとも惚けた顔をしている。
馬乗りになったランガから愛抱夢はからだを退け、ベッドの上で膝を立て顔を埋めた。
なんか、いじけている? いつもよりなぜか小さく縮こまって見えるのだが……
「ランガくん。すまない」
「うん。もういいよ。俺もちゃんと話さないで悪かったから。暦にも『言葉が足りない』っていつも言われているんだけど……」
「みっともないところを見せてしまった。我ながら情けないよ」
ランガは下から愛抱夢の顔を覗きながら訊いてみる。
「あのさ……愛抱夢は俺を信じていないのか?」
愛抱夢は顔を上げ、首を捻りランガを見た。
「もちろん信じているさ」
「じゃあなんで?」
「君の判断を信じている。君が僕から離れ別の誰かのところへと行ってしまうのなら、それがきっと君にとっても世界にとっても——大局的には正しいことなんだ」
世界? 大局的? ……って、また大袈裟な。この人は相変わらずだ。
「愛抱夢は、いつも自信満々で余裕があって何ごとにも動じないだろう。皆が言うようにすごい立派な人なんだなって俺は思っている。俺はあなたの歳になってもそんなふうになれるとは思えない。愛抱夢は自分でよく言うじゃないか。『僕は不可能を可能にする男だ』って。それなのに妙なところ——うん、わかってる。俺に関することで余裕がなくなっちゃうっていうのかな……ねえ、どうして?」
愛抱夢は苦い笑いを浮かべた。
「どうしてだろうね。ランガくんに相応しい男は世界中を探しても僕しかいない。伴侶として君のかたわらに立つ資格を持っているのは僕だけだ。そのことを疑ったことはないんだ。なのに……変だよね」
「愛抱夢は怯えているよう見えることがたまにあって……気のせいだと自分に言い聞かせてきたんだけど……気のせいじゃないよね」
「そう見えるのなら、僕がランガくんを失うことを恐れているからだ。本当はそんなこと微塵も見せず、君の前ではいつでも完璧な男でありたかったんだけどな」
「もう……何を言っているんだよ。完璧な人間なんているわけないだろう」
メディアを通して見えてくる神道愛之介は完璧だ。抜けていたり天然なところを見せることでかえって好感度を上げている。非の打ちどころがない——というよりケチのつけようがない人物。愛抱夢はそう思われている政治家なのだろう。
「確かに君の言うとおりだ。ランガをくんの前だと……しくじってしまう」
愛抱夢は大きなため息をつき項垂れた。
こういう愛抱夢って——なんか新鮮でかわいい。でも、〝かわいい〟なんて思ったことは黙っておこう。
「俺、しくじっちゃう愛抱夢も好きだな」
「え?」
「あのさ……うまく言えないけど。愛抱夢は俺を甘やかしてくれる。俺も愛抱夢に頼りっぱなしで、守ってもらうばかりだよね」
「それは、僕がずっと君より大人で、甘やかすことが好きだからだ」
「うん。知ってる。大切にされているんだと思うと幸せだけど……」
ランガは愛抱夢の頭をぐいっと引き寄せると胸に抱いた。
「あのさ、俺と一緒にいるときくらい無理しないで。俺は愛抱夢をひとりにしない。愛抱夢を泣かせたりしないから」
「ランガくん……」
愛抱夢の腕がランガの背中にまわされた。ランガは胸の中にある頭を撫でた。
「俺の前では完璧な愛抱夢でなくたっていいんだ。たまには俺に甘えほしい」
「ありがとう。ではお言葉に甘えて……もう少しこのままで……」
ランガは「わかった」と目を閉じた。
了