お散歩
ゆるい坂道をスケートで滑り降りていけば頬を掠める夜風が心地よい。カーブにさしかかり曲がりきったところで、開けた前方の視界にスケートをする男の背中が目に飛び込んできた。
「暦?」と胸は強く高鳴ったが、そんなはずないとすぐに否定する。
暦は今ごろ家族と過ごしているはずだ。それに背格好もまるで違う。なんで暦だなんて思ったのかと内心で苦笑した。
男の後ろをついていく。男のスピードにあわせ同じ距離を保ったまま滑っていった。やがて男はスピードを落としていき、不意に公園の前でぴたりと止まり夜空を仰いだ。そしてランガの方へと振り向いたが、目深にフードを被っているせいで相変わらず顔の判別はつかない。
男はサッとフードを外しランガを見て、大きく目を見開いた。それから何度もまばたきを繰り返し——
「ランガくん?」
その呼びかけにランガは首を傾げた。じっと相手を凝視し数秒ほどかかって理解した。
「あれ? もしかして愛抱夢?」
そうだ。この声には聞き覚えがある。どうも仮面やマタドール衣装を身につけていないと愛抱夢だとすぐにはピンとこないらしい。
愛抱夢のイメージは特に仮面だ。仮面は顔の一部になってしまっていて素顔だと全くの別人としか思えなくなる。祝勝会のときですら仮面をはずそうとはしなかったっけ。
でも、一度だけ——そう、トーナメントの決勝戦で月明かりの下、ランガは確かに彼の素顔を見ているのだ。
「もしかしなくても僕だ」
彼の両口角が上がった。なんか妙に嬉しそうだ。まあひとりで滑るより他のスケーター仲間と滑った方が楽しい。
「えっと……愛抱夢は何をしているの?」
「滑っていたんだよ」
そんなの見ればわかる。
「そういうことじゃなくて。なんでSではない普通の道をひとりで滑っていたのかなって……」
「まあ、嫌なことから逃げてきたってところかな。ひとりに——いや愛抱夢になりたかったんだ」
愛抱夢はもちろんSネームで偽名だ。自分や暦みたいな気楽な学生と違いSにくる大人スケーターたちは皆それぞれ社会人として責任ある仕事を持っているのだ。大きなストレスを抱えているのかもしれない。大人は大変だ。でも、愛抱夢なら何もこんなところで滑らなくても——
「それならSで滑ったほうがよくない?」
「それだと厄介な追跡犬に筒抜けになるから逃避にならないんだ」
「犬から逃げてきた?」
「まあ、そういったところ」
「ふうん。賢い犬なんだね。でも愛抱夢になりたかったのに、どうしていつもの衣装と仮面を着けていないの?」
愛抱夢は眉と肩を同時に持ち上げた。
「流石にS以外であの格好をしていたら悪目立ちする。不審者として警察から職務質問されるか、追跡犬に嗅ぎつかれしまうだろう。それでは意味ないんだよ」
なるほど。自分の考えは浅かったなと思う。
「そうか」
「まあね」
そういえば愛抱夢はひとりになりたくてスケートをしていたんだった。あまり話し込んでしまっては申し訳ない。
「じゃあ俺はもう行くから……」
気を利かせてその場を立ち去ろうと愛抱夢にくるりと背を向けた瞬間、背後から腕をつかまれた。
「待って、ランガくん。僕にだけに話させて、君は話を聞かせてくれていない。君がどうしてこんな時間に滑っていたのかとか……」
確かに……
「えっと……ずっと暦と一緒に滑っていたんだけど、別れても滑り足りなかったのかな。あと少しでつかめそうな感覚があって……それで母さんも夜勤だしと……」
なんかうまく説明できない。
「それでものになったの?」
「うん。だいたい見えた。次回のSでなんとかなりそう」
「それはよかった。今度スケートについて悩んだときはなんでも僕に相談して欲しい」
愛抱夢の提案にランガは身を乗り出し目を輝かせた。
「え? いいの?」
「もちろんだよ。僕のほうが君よりスケート歴はずっと長いんだ。役に立つアドバイスができると思うよ」
それはありがたいと思う。今まで暦や実也、たまにチェリーやジョーからアドバイスをもらっていた。そこに愛抱夢が加わればより満足いく滑りに近づきそうな気がした。
愛抱夢は目を細めた。
その表情にランガは一瞬見惚れた。
この人笑うと目尻が下がるなんてこと、仮面を外した今だからこそ気づくことができた。
——垂れ目の愛抱夢って意外とかわいい?
そう思ってしまったのは失礼だろうか。でも、なんかすごい発見——それも自分だけが知っているのかもしれないと考えると少し嬉しい。
「ふふふ……快諾してくれて嬉しいよ。それでは少し散歩しようか」
「えっと……滑らないの?」
「滑りながらだと落ち着いて話せないだろう?」
「そりゃそうだけど……愛抱夢は滑りたかったんじゃないの?」
「ランガくん!」と愛抱夢は胸に手を当て屈み気味に身を乗り出した。愛抱夢の顔がいきなりぬっと迫ってきて、ランガは咄嗟に上半身を反らせてしまう。
びっくりした。
「スケートは、いつでもどこでも滑れるんだ。でも、ふたりだけで落ち着いて話ができる機会なんてそうそうないんだよ。ここでこうして偶然会えたのも何かの運命なんだ。だから……今はお互いのことを知り、愛を深めようではないか」
「はい……」
何を言っているのかよくわからなかったけど、勢いに気押されて頷いてしまった。
誰もいない夜の公園を二人並んで歩いた。
スケート以外の共通の話題があるわけではないのだが、愛抱夢は一方的に唄うようにしゃべり続けてくれた。ランガが口を挟む余地なんてないほどに。
うん。助かる。
「ランガくん! 君とふたりきりで並んで歩けるだけで幸せだよ。まるで恋人同士みたいだね」
恋人同士? そんな冗談を言うんだ。この人は。
「これってデートだね!」
「知らなかった」
「ごらん。まるでふたりを祝福してくれているような月の輝きだ。なんて美しいんだろう。もちろん、あの月に負けないくらい今夜のランガくんはラブリーだよ」
そういえばトーナメント決勝戦の夜も満月だったなぁ……
「ああ、それにしても。こうしてランガくんと会えるとわかっていたのなら、もっとオシャレをしてきたのに」
もっとかっこいいスケートボードでも持っているのだろうか。
「花束を用意できなかったことが悔しいなぁ。僕はいつか必ずリベンジするよ」
「そういえば、君はとてもよく食べるそうだね」
なぜ知っている?
「今は夜中だから食事にというわけにはいかないが、次のデートでは食事をしようね。どう?」
「わかった」
愛抱夢の顔がぱぁーと明るくなり、思い切りよく両口角が吊り上がった。
えーと。
陽気にステップを踏みだした愛抱夢にはたと気づく。
ん? さっき、次のデートって言っていた? 反射的にオーケーしてしまったけど。
「ランガくん。楽しみだね。ああ、心から楽しみだ。僕が責任を持って君をエスコートしよう。期待してほしいな」
そんな愛抱夢の口から溢れる歓喜の言葉は、残念ながらランガの耳には入っていない。今、ランガの頭の中を占めているのは——
(成り行きとはいえどうしよう。暦に何て説明すればいいんだろう……)
了