温泉

 風呂から上がりソファーにドカッと腰を下ろし、缶ビールのプルトップを持ち上げればプシュッと音が響いた。

 ここのところの忙しさは政治家という職種を考えたとしても尋常ではない。もちろん休む暇なんてなく疲労はピークに達していた。

 背もたれに頭を乗せ天井を仰ぎ「温泉でのんびりくつろぎたい」とぽつりこぼせばランガが膝に広げていた本から顔を上げた。

「温泉なんてくさいだけじゃないか」

 いったい何を言っている?

「くさいって……硫黄泉とかでなければ、温泉は別に臭わないだろう。どうしてくさいと思ったのかな?」

「えっと、前に暦たちと宮古島の温泉に行ったことがあるって話したよね」

「ああ、そんなことを言っていたね」

 確か赤毛、実也、シャドウとランガの四人で湯治目的で宮古島へ行ったと聞いている。そして、偶然ジョー、チェリーらと合流した。そこまでは知っているのだが、そのときのことを楽しそうに報告されれば嫉妬せずにはいられない。精神衛生上それ以上その話を聞きたいと思わなかったし、ランガも察してくれたのか、それ以降温泉旅行の話題に触れることはなかった。

 それにしても、温泉にそこまでネガティブな印象を持つなんていったい何があったんだろうか——

「温泉が宿から遠いところにあって、誰でも入れるんだ。それで温泉までスケートで競争した。それでなんかよくわからないものに襲われた」

「よくわからないって?」

「えっと……スケート上手いのに何故か全身泥だらけですごくくさい。とにかく死にそうにくさかった。あとから祭りで変装した普通の人間だったらしいことはわかったけど……」

 宮古島……ということはおそらく有名な奇祭でのパーントゥなのだろう。にしてもスケート? スケートをするパーントゥなんて初耳だ。

「くさいのはそのよくわからないものであって温泉ではなかったんだろう」

「でもくさい泥を身体中に塗られて、くさくて俺たち何も考えずに温泉に飛び込んだんだ」

 「それは……」

 絶句して頭を抱えた。その露天温泉の管理者——というか島民の皆さまに同情する。謝罪と損害賠償はきちんとしたのだろうか。チェリーとジョーが一緒だったのだから大丈夫だろうと思いたい。ランガを追求して余計なショックを受けたくないということもあって大人ふたりの良識を無理やり信じることにした。

「次の日、一日中からだからくさいが取れなかった。ということで温泉には二度と行きたくない」

 いや……だからそれは温泉のせいではなくパーントゥが塗りたくった泥がくさかっただけだと言えば、そんなことはわかっているバカにするなとムキになり、むすーと不機嫌になってしまった。

 どうも「温泉」と聞いただけであのくさいを思い出してしまうということらしかった。いわゆるトラウマみたいなものか。

 日本文化のひとつ温泉のイメージが〝くさい〟では洒落にならない。これは、もうランガを真っ当な温泉に連れて行くしかない。そうだそうしよう。勝手に決めてやる。この件については有無を言わせない。ひと段落したら必ず連れて行く。そう固く決心した。

 時間ができたら東京近郊の温泉をピックアップしておこう。

 なるべく静かでプライバシーが守られ料理が美味しいところだ。トラウマを考慮すれば岩風呂よりヒノキ風呂を選ぶべきだろう。

 やはりベッドのあるホテル形式にして——大浴場より各部屋に内風呂付きの宿を探そう。

 ランガの裸を他人の目に晒してたまるものか。いちゃつきながらしっぽりとぬる湯に浸かる。ああ、もちろんランガの美しい裸体はよく知っている。知ってはいるが、シチュエーションが変われば印象もガラリと変わる。

 あれやこれやと色々な妄想が脳内を駆け巡りはじめ止まらなくなっていた。

「愛抱夢……」

 呼ばれて一瞬で現実に引き戻され、振り向けば怪訝な顔をしたランガと目が合った。

「ん?」

「もう……何を笑っているんだよ」

 しまった。脳内妄想が顔にダダ漏れしていたらしい。

 慌ててニヤついた口元をキリッと一旦閉じてから、笑って誤魔化した。