ささやかな幸せ

 朝の光にうっすらと瞼の内側を照らされ、愛之介はゆっくりと目覚めていく。

 細く目を開けて、しばらく隣で寝息を立てているランガの顔を眺めていた。起こさないようそっと髪を撫でる。ランガはピクリとも動かない。

 今日は休日だ。自分もランガも丸一日自由に過ごせる。自然に目が覚めるまで寝かしておいてやろう。

 ゆっくりと起きあがって、首をぐるぐると回し軽くストレッチしながら部屋を横断し洗面所へ向かおうとしたとき——

「おはよう」と背中から掠れた声がして振り向けば、ベッドの上でからだを起こしたランガが寝ぼけまなこを擦っていた。

「おはよう……起こしちゃったかな」

 ランガは首を横に振り時計をチラリと見た。

「こんな時間だよ。普通に目が覚めただけ」

「では、朝ごはんにしようか——というかこの時間だとブランチかな」


 洗面を済ませ身支度を整え朝食の準備を始めることにする。

「俺、トマト採ってくるね」

「ああ頼んだよ」

 ベランダで家庭菜園などという発想はなかった。そもそも神道家の庭にある花や樹木の手入れは庭師の仕事であってその家の主人がすべきものではない。それなのにこうなったのは、ランガが気まぐれでミニトマトの鉢植えを買ってきてしまったことからだった。おそらくランガは何も考えてはいない。ただ新鮮なトマトが毎朝食べられる……それだけの食いしん坊発想だったのだろう。

 それからネットで色々調べてふたりで試行錯誤しつつ、なんとか枯らすことなく順調にトマトは実をつけてくれている。

 ふたりで協力しながらの家庭菜園……これは楽しい。

 収穫したトマトを入れたボウルを持ったランガがベランダから戻ってきた。

「見て、大漁!」

「大漁じゃなくて豊作——って家庭菜園で豊作も何もないか」

「む……日本語難しい。今度サラダ菜とかも植えたいな」

「いいけど、自分でできる範囲でね」

「わかった」


 お揃いのエプロンをつけ調理を始める。いつもは料理代行サービスを利用していた。ふたり揃っての休日のときだけ自分たちで作ることにしている。少しは母親を手伝って料理をしていたランガはともかく、自分は初めのうちこそぎこちなかった。それでも最近、料理の腕は、そこそこ上がってきたと自負している。

 今日の朝食は和食だ。ご飯、味噌汁、卵焼き、塩ジャケ、沖縄から持ってきたもずく酢、作り置きのオクラとナスの煮物、そして採れたてトマトのサラダとバランスもいいはずだ。多分。

「いただきます!」

 ふたり同時に手を合わした。

 美味しそうに頬張るランガを見ると胸がいっぱいになる。


 食後のお茶を飲みながらランガが目を輝かせて「ねえ、愛抱夢」と、身を乗り出した。楽しいことを思いついたらしい。

「愛抱夢、今日は一日自由になるんだよね。だからさ滑りに行こうよ!」

「うん……それは良い案だ」

「だよね」

「でも、まずは洗濯してからだな」

「えー」

 ランガは不満顔だ。

 少々意地の悪い笑みを浮かべ寝室をに目をやれば、ランガも釣られてその方向へと視線を向けた。

「昨晩の君は、なかなか激しかったからね。目立たなくても汚れているとは思うんだ。とりあえず洗ってしまおう。乾燥まで自動だから大した手間ではない。どうかな?」

 ランガを見れば、ふいっと視線を逸らせた。見れば首まで赤い。

 夜のランガは奔放かつ大胆で快楽に対して貪欲だ。それなのに明るい日中だと、少し揶揄っただけで思いっきり恥じらってくれる。そんな彼はとてもラブリーだ。

「わ、わかった……」

「よし、決まりだ。僕は食器を片付ける。君はシーツと枕カバーをひっぺがしてきて。洗濯機を回してから出かけよう」

 食器を食洗機に並べているとき、バサッと音がした。見ればランガが剥がしたシーツが翻り、窓からの光を眩しく反射させ愛之介は目を細めた。

 自然に口元が緩む。

 長いこと愛之介の心はカラカラに渇いていた。しかも無自覚に。ようやく自覚できたのはランガに出会ってからだった。

 そして一緒に暮らすようになって、毎日こんなふうに彼に驚かされることになるとは。

 今日の起きてから、わずか二時間くらいの出来事を思い返してみる。

 朝、目を覚ませば傍らに愛しい人がいること。

 はじめてのベランダ菜園で試行錯誤しつつ収穫を迎えること。

 お揃いのエプロンをつけ協力して食事をつくること。

 美味しそうに朝食を頬張るランガを思いっきり眺めていられること。

 昨晩の情事を思い出し恥じらう彼の様子がラブリーなこと。

 それらすべては、ぼんやりしていては気がつかないくらい些細なことなのだろう。それは、ささやかな幸せ——それが自分の心に注がれていくのだ。

 ——ランガくん……君は、どこまで僕を満たしてくれるのだろう。だから僕は君を愛さずにはいられない。