雲ひとつない青空

 春休みということで久々の帰省だった。

 その日、自宅に赤い薔薇の花束が届けられた。差出人はもちろん愛抱夢だ。それはずっしりと重く、何本あるのか数えるのを早々と諦めてしまうほどの大きさだった。

 薔薇をもらうことには慣れてしまっている。愛抱夢が薔薇を贈ってくれるとき色や本数によって変わってくる花言葉がメッセージになっていることもお約束だ。

 どのようなメッセージだったのかは後で愛抱夢が種明かしをしてくれる。

 もっともこういった花言葉には何か深い伝承などがあるわけではなく語呂合わせのような後づけで商業的に設定されたものがほとんどだと愛抱夢は笑った。それでも花言葉という形で想いを届けるのはロマンティックだろう? と。

 今まで一番多かったのは百本の薔薇。花言葉は「百パーセントの愛」だそうだ。今回はそれと同じくらいの重量はあるように感じた。

 多分自分と愛抱夢は付き合っているのだろう。周囲からもそう認識されているらしい。母さんですら、愛抱夢と自分は付き合っているのだという前提で話をしてくる。

 あれから目まぐるしく時間が過ぎていった。変わったものと変わっていないものがある。

 暦とはクラスメイトだった高校時代と違って物理的な距離が開いてしまった分、四六時中一緒にいられるわけではなくなった。当然ふたりで滑ることができる時間が限られてしまうことは仕方ないのだろう。それが大人になっていくということなのだから。それでもふたりの親友としての絆は何も変わっていないと胸を張って断言できた。

 他のスケート仲間たちとの関係もほとんど変わっていない。連中の見た目もあまり変化はないように思う。ただひとつ。実也の身長が伸び妙に大人びてきたことを除いて。みんな気のいい大好きな仲間だ。

 愛抱夢は相変わらず東京と沖縄を行ったり来たりで忙しそうだ。

 そんな彼とは次のS開催前の日中クレイジーロックで会う約束をしている。久々にふたりだけで滑りたいと。

 花束に込められたメッセージはそのときに訊けばいい。


 クレイジーロックのゲート前にスネークが立っていた。

「やあ、スノー。元気そうだね」

 この人もまったくといっていいほど印象は変わらない。

「うん、あなたも」

「愛抱夢は中で君を待っている。入って」

 促されてゲートの中に入ると。そこには真っ赤なロングカーペットが敷き詰められていた。その奥で愛抱夢はいつものマタドール衣装を着て待ち構えていた。

 このカーペットには見覚えがある。

 愛抱夢とはじめてビーフをしたときだった。彼は姿を見せるなりランガの足元までロール状のロングカーペットを転がしてきた。もちろん転がしたのはスネークだったが。

 流れるようにして敷き詰められたカーペットの道をスケートボードに乗った愛抱夢がランガの目の前までゆっくりと滑ってきた。そして赤い薔薇の花束を差し出してきたのだ。

 思わず受け取ったランガに対して、暦や実也は後からさんざん突っ込んできた。普通は受け取らないだろうと。あのときは何も考えていなかったけれど断る理由はなかった。断ったらせっかくの気持ちを無下にしてしまうことになるのだから、あの対応は別に間違っていなかったと今でも思っている。

 そのカーペットに一歩足を踏み入れようとして気づく。あのときのカーペットならば自分もこの上を滑って愛抱夢の元へと向かうべきなのだろう。

 ランガは赤いカーペットの上にスケートボードを置き、右足を乗せゆっくりと滑り出した。

 愛抱夢は仮面を外し満面の笑みを浮かべた。そしてランガを迎入れるべく両腕を広げる。

「やあ、待ちくたびれたよ。ランガくん」

「ごめん。そんなに待たせたかな?」

「いや、僕の気が急いて勝手に早く着いてしまっただけだ」

「で……この様子だと何か特別な話——というかサプライズがあるんでしょう?」

「おや、察しがいいね」

「いい加減慣れたよ。あなたの思考パターンも少しずつ読めるようになってきた。当ててみせようか?」

 愛抱夢は人差し指でスッとランガの唇を押さえ、顔をぬっと近づけてきた。

「そんな無粋な真似だけはやめて欲しいな」

 その大真面目な表情にランガは吹き出しそうになる。でも茶化してはいけない話らしい。

「それで、何?」

 愛抱夢は背中に手を回す。マントがバサリと大きく翻り、そこからスッと取り出したものは——リングケースだった。

 愛抱夢はリングケースの蓋を開け、片膝をついて恭しくランガに差し出した。

「ランガくん、僕と結婚して欲しい。もちろん今すぐというわけではない。君が大学を卒業してからでいい。ただ約束だけはしておきたいんだ」

 なんとなく予想はついていた。でも本気でこんなコマーシャルとかでさんざん使い古されたベタなポーズで渡してくるとは……愛抱夢らしいというかなんというか。さすがにここまでやるとは予想できなかったと思わず口もとが緩んだ。

「わかった」

 言い方があまりにもそっけなかったかもしれないけれど、愛抱夢はホッとしたように微笑みランガの左手薬指に指輪を嵌めた。

「ごらん。君の肌の色にとても映える」

 それは繊細なデザインカットと細かいダイヤモンドがあしらわれたプラチナの指輪だった。目を凝らして見れば薔薇の花と雪の結晶があしらわれている。おそらく特注。とても高価なもののように思う。が、それを指摘するのはきっと色々と台無しにしてしまうのだろう。

 腕を伸ばして指を広げて眺めれば、太陽光を反射させ眩しく白銀が輝く。ランガは目を細めた。

「とても綺麗だね。でもどうして俺のリングサイズがわかったの。勘とか」

「まさか。君が寝ているときこっそりね。ランガくんは睡眠が深くて助かるよ」

「そうだったんだ。すごく嬉しい。ありがとう」

「僕も嬉しいよ。君が迷わず受け取ってくれて。実は僕の方が少し迷ってはいたんだ。まだ若い君を縛ってしまうことになるからね」

 そんなのお互い様だと思う。

「違うよ。俺もあなたを縛るんだ。だからもっと気楽に行こうよ」

 愛抱夢は驚いたように目を見開き「そうだったね」と言った。

「そういえば日本ではいつ同性婚が認められたの?」

「いや、異性間と同じ結婚は認められてはいないんだ。僕は認める必要はないと思っているよ。それとは別枠で二人の関係と権利を守るための法はできると思う。いやつくってみせるよ。それまでは公正証書をきっちり作成してランガくんのことはちゃんと守るから心配しないで」

〈こうせいしょうしょ〉って何なのかさっぱりわからなかったけれど、まあいいかと、とりあえず考えないことにした。

「わかった」と言ってみたけど、特に結婚というものに対して切羽詰まった思いがあったわけではない。ただ結婚はイコールで周りの目を気にせず堂々と一緒にいられるもの——くらいの認識だった。

「結婚制度って何のためにあると思う? 国がわざわざ法で決め、さらに税制上とかで優遇する理由は?」

 何を言っているんだろう。でもそんなこと深く考えたことはない。愛し合っていればいずれ結婚する。なんかそれが当たり前みたいな漠然としたイメージしかなかった。

「言われてみるとよくわからない」

「国が二人のラブロマンスを祝福するために結婚制度があるわけじゃないんだよ。子供のためなんだ。子供がいなければ国は滅びる。そこを履き違えてはいけない。日本の結婚は戸籍制度に基づいている。どちらかがどちらかの戸籍に入る。ちなみに戸籍のある国は世界広しといえど三カ国だけで当然カナダにもないから君にはピンとこないだろう。結婚に愛や恋は必要ない。もちろん共に協力できるくらいの信頼関係は欲しいと思うけどね。この辺の解説を今するのは野暮だし長くなるから今度ゆっくりね」

 もう十分長かったと思うけど。話が長くなるのは、なんだかんだいって愛抱夢は国政を預かる勉強熱心な政治家だからなのだろうと思う。

「うん」

「そんな制度とか国の法とか関係なく、僕は君と共に人生を歩んでいきたい」

「俺もだよ」

 さっきから自分は気の利いた言葉をまったく言えてない。日本語難しい以前の問題だ。

「法的な——国から縛られる結婚ではない。それでも僕たちのとっては結婚なんだ。僕はランガくんと家族になりたい——それをはっきりと認識できたから君にプロポーズする決心がついたんだ」

「え?」

「君が『親友にはなれないけど、それなら家族になればいい』って前に言ってくれたんだよ。覚えていないのかな?」

「えっと。確かに……」

 寝ぼけながら言ったような記憶はあるけど、もしかすると夢だったのかもと現実で言ったという自信がなかった。あのときはあまり考えていなくて多分思いつきで、それでもいいアイディアだと得意だった記憶がある。

 でも怖くて愛抱夢に確認できなかった。なぜなら自分のイメージする家族と愛抱夢の家族はあまりにも違う。付き合っていくうちにそのことを理解してしまったからだ。それでも愛抱夢は覚えていてくれた。

「それからずっとそのことを、家族についてを考えていた。あれ以来ずっと——何年も。それでやっと結論が出た。僕は心から君と家族になりたいんだって。もう迷いはない」

 ランガは愛抱夢の肩口に頬を押しつけ、彼の背中に腕をまわした。愛抱夢がぎゅっと抱きしめてくる。しばらくその体勢で目を閉じ体温のやり取りをしていた。

 やがて訊き忘れていた肝心なことをふと思い出しランガは顔を上げた。

「愛抱夢。ひとつ教えて欲しいことがあるんだ。届けてくれた薔薇だけど、その意味が知りたい」

「何本あるか数えてみた?」

「あんなたくさんの数。ばらさないと数えられないだろ。いくらなんでも無理だよ」

「そうだね。百八本だ」

「で、花言葉は?」

「結婚してください——だよ」

 ああ、やはりそうだったんだ。でも——

「百八と結婚ってどういう関係が?」

「これは日本でしか通じない花言葉だ。108を分解すると10と8になる。10は〈とう〉と読み、8は〈はち〉で最初の一文字を取って〈は〉で〈は〉は助詞になると〈わ〉と発音する。この二文字を合わせて〈とわ〉だ。漢字だと永遠と書き、これは〈えいえん〉とも〈とわ〉とも読める。つまり永遠の愛を誓うってことで『結婚してください』という意味にこじつけたんだ」

 えーと。愛抱夢が何を言っているのかさっぱりわからなかった。

「日本語難しい。頭が混乱する」

 愛抱夢は「ははは……」と愉快そうに笑って空を仰いだ。

 ランガもつられて上空を見上げる。抜けるような青空だった。ぐるりと首を回すが、たいてい浮かんでいる白い雲は見当たらない。

「おや……快晴とは珍しい」

 確かに言われてみれば、意識していなかったとはいえ雲ひとつない青空なんて沖縄に来てから見た記憶がない。もっとも自分は空をそんなに注意深く観察したりしないけど。

「珍しいの?」

「そうだね。意外かもしれないけど沖縄は全国で一番快晴の日が少ない県なんだ。年間七、八日くらいしかなかったはずだよ」

「へえ。そうだったんだ」

「君にプロポーズしたこの日がその数少ない快晴の日だったとは、運命を感じるね。この空は、まるで今の僕の心のように澄み渡っている。なんの曇りもない僕の心のようにね」

 愛抱夢はすっきりとした笑顔を向けてきた。ランガもつられて笑う。

 相変わらず言い回しが大袈裟だけど、それが愛抱夢らしさなのだ。

 笑い終えてふたりはしばし見つめ合う。そしてどちらからともなく唇と唇を重ね合わせた。

 雲ひとつない青空に見守られながら。