Dance of the Philos

「愛抱夢……」

 掠れた声が耳元で優しく響き、続いてうっすらと汗の残る白い裸身がぴたりと吸いついた。素直に甘えてくれるこのひとときは何ものにも代え難い。口元が綻んだ。

 シーツと背の間に腕を滑り込ませ、グイッと持ち上げて抱き寄せれば、胸の上に彼の頭がことりとのった。この重みと体温の現実感に安堵する。

 無我夢中で求め合い、果てたときには体も頭もからっぽだ。そんな情事のあとの気怠さは、むしろ心地よい。素肌を撫でるあたたかい吐息のくすぐったさに、水色の髪を指に絡め目を閉じた。

 そのとき——

「ねえ愛抱夢は俺の親友になりたかった?」

 唐突に、何の脈絡もなく年下の恋人は平坦な声で言った。

 数秒かかっても何を言いたいのかわからなかった。もちろん日本語としては理解できる。けれども、どういった流れで飛び出した質問なのか、皆目見当がつかず、ただ困惑した。

 枕から少し頭を浮かせ視線を落とせば、顔を持ち上げたランガと目があった。数回目を瞬かせただけで彼の表情はいつもと変わらず、何の感情も読み取ることはできない。

「質問の意図がよくわからないんだけど。ランガくんは、僕が、君と、親友に、なりたがっている、そう感じた——ってことだよね?」

 ゆっくりと一句ずつ言葉を区切りながら確認する。

「うん。もしかして恋人より親友のほうが良かったのかなって思ったんだ」

 このシチュエーションにふさわしい話題とは思えない。たまには甘い睦言でも囁いてほしいところだ。期待はしていないが。

 色々な意味で目が覚めてしまった。こうなったら仕方ない、とランガを胸に抱いたまま上体を起こした。きちんと向かい合ったほうがいいだろう。

「申し訳ないけど、どうも僕の理解が追いつかない。どうしてそんなふうに思ったのか——そこから説明してくれないかな?」

「ごめん、俺、また言葉足りなかったよね。えっと——」

「ゆっくりでいいよ」

 言えばランガはうなずいて顔を上げる。

「愛抱夢はさ、会えない間に俺が何していたか訊くだろ?」

「そうだね」

 自分と一緒にいないとき、恋人がどう過ごしていたのか気になってしまうのは、さほどおかしなことではない。だから雑談の中にさりげなく質問を投げてみたりする。ランガはもともと饒舌なほうではなかったが、それでも警戒することもなくポツリポツリと話してくれた。しつこいと思われない程度に匙加減はしていたつもりだ。話したくないことは話さなくてもいいとも伝えてある。恋人同士だったとしても、お互いプライベートなこと、明かしたくない秘密があるのは、不思議なことではないのだから、と。

 しかし、それが〈恋人より親友になりたい〉などと、どう繋がるのか、まだ見えてこない。

「俺さ、暦と一緒にいること多いから、どうしても暦の話が多くなるだろ。それで暦の名前が出ると、なんか顔が——なんというか微妙というのかな。表情が曇るっていうのかな——注意して見ていないと気がつかない程度だから考えすぎかなとも思ったんだけど……」

 ドキンと心臓が強く跳ねた。

 ランガは鈍感なように見えて、不意に核心をついてきて面食らわせてくれることが、度々ある。ランガの指摘は、意識的に愛之介が目を背けてきたこと、見て見ぬふりをしてきたことだ。顔に出ていたなどという自覚はなかったのだが。

 もちろん赤毛が話題にのぼったとしても、今はもう平静でいられる。ランガの大切な親友を否定したい衝動に駆られることは、なくなっていた。それでも何かがまだ胸の奥に燻っていて、愛之介自身にもその正体はよくつかめていなかった。

 さてどうしたものか。適当にはぐらかしてしまおうか。にこやかな笑顔で煙に巻くことは簡単だ。ランガも自分の勘違いだと一旦は納得して引き下がってくれるだろう。とはいえそれは一時しのぎでしかないことなど、わかりきっている。

 ランガはチラリと愛之介の表情をうかがい続ける。

「最初は俺の考え過ぎかなって。でも気のせいなんかじゃないよね?」

 口調は静かだったが、どこか問い詰めるような圧力を感じた。それこそ気のせいだったらいいのに。

「まいったな。僕はそんな顔をしていたのかな」

 苦笑しながら軽く眉を上げ少しおどける余裕を見せ、その裏で、どう取り繕おうかと脳をフル回転させていた。

 ランガはきっと睨みつけると愛之介の両頬を左右から手のひらでパンと挟んで顔をぬっと近づけてきた。冬の青い湖面を想起させる澄み切った瞳が強い光を湛え、至近距離から愛之介をとらえている。

「ねえ、愛抱夢。俺、平気だからちゃんと話して」

 愛之介は理解する。言い訳もごまかしもはぐらかしも、今のランガには通用しない。

 ここは正直に、誠実な対応をするしかない。言いくるめたところで時間稼ぎがせいぜいだ。いずれバレるのだから。

 すぅーと深く息を吸い頭を冷やす。観念しよう。

「そもそも僕が自覚していなかったというか、考えることをしなかったことだからね。急ごしらえでまとめてみるけど、うまく説明できるかどうか自信はない。それでいいかな?」

「いいよ。今話せることだけで」

「少なくても親友になりたいとか、そういう具体的なことではないんだ。ただ赤毛くんのことが少しうらやましいとも思っているよ。顔には出していないつもりだったんだけど、君にバレちゃったね」

 漠然としたうらやましさ——おそらくそれがそのときの気持ちを説明するのに適切なのだろう。

 ランガは眉を寄せ、難しい顔をした。

「俺にとって暦は親友、愛抱夢は恋人。どちらも大切。上も下もないって、前に言ったよね」

 確かにランガはそう話し、それで落ち着いた。嫉妬するようなことは何もないのだと納得している。それなのに赤毛の名を耳にすれば、胸の中に小さなさざ波が広がっていくのを抑えることはできなかった。

「そうだね」

「それなのにうらやましい?」

「ああ、多分ね」

「親友だったら、こんなふうに……」と言いながらランガは顔を寄せ、一瞬だけ唇を重ねてきた。

「キスもできない。それなのにうらやましい? 愛抱夢はそっちがいいの? 俺は嫌だ。愛抱夢とそうだったらなんか寂しい」

 苦い笑みが唇に浮かんだ。

「僕だってスケートだけではなくランガくんとキスをしたいし抱き合ったり、もちろんエッチなこともしたい」

「だったら、うらやましがることなんてないのに、どうして?」

 どうして……か。

 それは気づいてしまってからだ。ランガが親友に伝えていて、愛之介に聞かせてくれていないメッセージがあることに。そのことに深い意味があるわけではないなんてことは、わかっている。それでも——

「君は赤毛くんとの関係は一生〈変わらない〉と言っていた。あと、お互い絶対にいなくなることはない〈永遠〉に親友だと信じている——そんなことも言っていたよね」

 ランガは眉根を寄せうなずいた。

「それがどうかした?」

「僕は君たちの〈変わらない〉や〈永遠〉がうらやましかったんだと思う」

 ランガは、目を見開き身を乗り出してくる。

「俺、愛抱夢とだって……」

「ストップ」と、唇を人差し指で押さえ続く言葉を遮った。

「言わなくていいよ。何を言い出すのか想像つくけど、君からその言葉が聞きたかったわけではない。まして今それを聞かされたら、僕が言わせたみたいになってしまう」

 唇からそっと指をはずし顔をのぞきこみ、ほほ笑んでみせればランガは、困ったように眉間と口元に力をこめている。

「ランガくんと赤毛くんは、一生ものの親友同士なんだよ」

 ああ、それは認めるしかない。どれほど癪に障ったとしても。

 ふたりがそれぞれ結婚して子供に恵まれたくさんの孫に囲まれたとしても、生涯変わらず親友であり続けるのだろう——ふたりを見ていると、そんな関係もあるのだとうっかり信じている自分がいる。昔は無邪気で無知な子供のたわごとだと鼻で笑っていたのに。

 だが、恋人関係——は永遠に続くものではない。激情を伴う恋——性愛はいずれ冷める。憎しみ合った挙句、別れてしまう恋人たちもいる。それでも穏やかな愛へと、関係を昇華させていく恋人たちもいるのだ。

 自分たちはそこへ辿り着けるのか。それ以前にランガがそんなことを望んでいるのか。確かめることなどできない。なぜならランガは、それを意識できるほど成熟していないからだ。

 ——エロスからフィロスへ。

「俺はあなたの恋人じゃないの?」

「そうだと思っている。でもね、恋人関係って永遠に続くものじゃないんだ」

「愛抱夢は俺との関係が、続かないと思っているの? 俺に飽きる?」

 何を言い出すのか。

「そんなわけないだろう。ただ、僕が一番欲しいものは〈君との永遠〉なんだ。キスやセックスがなくても、君たちの友情は永遠だ。今の僕達の関係——君を抱きしめ、キスをして——は、とても手放すことはできない。それでも永遠になってくれているのかわからない。どちらかを選べと言われたら迷わず永遠が保証された前者を選ぶよ。どんな形でもそれ——永遠を手に入れた赤毛くんが羨ましい。そういうことなんだ」

 言葉にしていくうちに、漠然としたもやもやの輪郭が見えてくる。

 彼はますます難しい顔になった。今にも唸り声をあげそうだ。

「もちろん今の関係から、永遠へと繋がっていくことが理想だけどね」

「言っていること難しくて、半分も理解できなかったけど」

 ランガは、目線を上げきっと睨んできた。

「——そんなの愛抱夢じゃない」

「え?」

 久しぶりに聞くランガの強い口調だった。目をぱちくりさせ彼の顔をじっと見つめる。意志のこもった揺れることのない強い青。

 目を合わせている間に、彼は愛之介の二の腕をつかみ迫ってくる。

「だって、いつもなら自信満々に『僕を誰だと思っている?』なんて言うじゃないか。『どちらも手に入れてみせる』って言ってよ。愛抱夢」

 腕にランガの指が食い込んだ。どうやら彼を不安にさせてしまったらしい。

 水色の髪を撫で、両口角を上げてニッと笑ってみせた。

「君の言うとおりだよ。僕は神道愛之介であり愛抱夢だ。僕は僕の望むものすべてを手に入れてみせるよ。もちろん君との永遠もね」

 そう宣言した。半分くらい虚勢だったかもしれない。それでもランガは嬉しそうに瞳をきらめかせた。

「もう一回しようよ」

「したいの?」

「もちろん」

 言いながら抱きつき体重をかけてくる。そんな彼の後頭部をつかみ、身を傾け唇をかぶせキスをした。

 はじめよう。五感を総動員しての言語を介さないコミュニケーションを。


 じかに肌を重ね体温を分け合い、唇を啄むだけの浅い口づけを飽くこともなく繰り返した。耳元に意味のない睦言を囁きながら刺激が過ぎないよう繊細に手や唇を素肌に這わせ、指をからめ合わせて甘い吐息を分かち合う。

 与えられる快楽に流され情欲に染まるランガの媚態を眺めながら、愛之介は優しく体を揺すってゆっくりと快感を煽っていった。やがてランガは大きく背中をしならせ、同時に愛之介も絶頂へと昇り詰めていった。


 ナイトライトのぼんやりとした光が柔らかな陰影を落としていた。安らぎ、満ち足りた気分だった。これは限りなく幸福に近いものなのだろう。

 隣に横たわるランガの頬に手にひらを当てれば、うっすらと目を開けた。彼の唇に小さな笑みが浮かぶ。

「ねえ……いいこと思いついたんだ」

 まるでいたずらを思いついた小さな子供みたいな顔をしている。

「いいこと?」

「俺、愛抱夢の親友にはなれないけど、それなら俺たち家族になればいいよ。うん、それがいい。愛抱夢と俺と——母さんと。……そうしよ……うよ……」

 最後はあくび混じりの声だった。本日二度目の突飛な発言にまたもや面食らう。これはプロポーズと解釈できないこともない。おそらくランガにはそんな意図はないだろうが。

「ランガくん?」

 呼びかけには反応せず、口元に耳を寄せれば、スースーと気持ちよさそうな寝息だけが聞こえた。

 そっと毛布をかけ、あどけない寝顔をしばし眺めていた。

 家族か——

 愛之介にとって家族は期待や義務を押し付けてくるものだった。家族と共にいる時間に安らぎのイメージはない。そこに永遠があるとしたらただの呪縛だ。

 もちろんランガは、自分のイメージする幸せな家族像を前提に言ったのだ。伝わってくるランガと母親、そして亡くなった父親とのあたたかく優しい絆。それは過去の——子供時代の自分には与えられなかったものだ。正直うらやましいとも思った。とはいえ実体験の伴わないものは今ひとつピンとこない。それは仕方ないことと割り切ろう。だが、いつか君がそんな永遠へと連れていってくれる。そんなふうに思えた。

 それならば僕は君との永遠を何が何でも手に入れてみせる——それだけを考えることにしよう。

 大胆に狡猾に。それこそが神道愛之介であり愛抱夢なのだから。