嵐の夜は激しく

 西の地平をわずかに染めるオレンジ色の残照を侵食しようと、濃紺の闇が迫る。そんな黄昏どき、神道家別荘の中庭で聞こえてくるのは、ウィールの反響音——ではなく水音だった。

 水中ライトに照らされ水面はマリンブルーに輝いている。個人宅の小さなプールだが泳ぐのはふたりきりだ。タイムを競うわけではないのだから特に不服はないだろう。

 愛之介はプールラダーをつかみ片足を乗せると振り返った。

 ランガはクロールに見えないこともない自己流フォームで黙々と泳いでいる。まだ上がりそうな様子はない。

 タオルで濡れた体を拭きながらプールサイドに腰を下ろした。


 なぜ別荘のプールでふたり一緒に泳いでいるのか。それは、ちょうど一ヶ月ほど前にさかのぼる。

 別荘のスケートボードボウルで滑っていたランガが、ふとある疑問を口にした。

「前々から気になっていたんだけど、パティオにあるシートでカバーされたアレ、プールだよね? 水を入れれば泳ぐこと、できるの?」

 彼が指摘したとおり、この別荘には、もともと通常のプールがある。ところが、父である愛一郎が死去してから一度も水を張ったことはなかった。もともと愛一郎の趣味というか神道家の見えで作った設備だ。客人の来訪があったときだけプールとして使われていた。

 愛之介が神道家を継いだとき、本宅のプールのようにスケートボードボウルに転用できないかと考えたのだが、それは難しい、という結論に至った。

 側面から底面にかけてお椀型のカーブを描く本宅のプールと違い、ここのプールはスケートに適した構造をしていない。スケートボードボウルを別途設置した方が遥かにコストもかからないのだ。

 それ以来プールを使用することはなく、保護シートで覆ったまま放置していた。

「何年も水を張っていないから、掃除と設備の点検をしないとダメだね。それで問題なければ大丈夫なはずだが」

「へえ。ずっと使っていないの? もったいない」

 その声音にどこか残念そうな響きが内包されているようで、おやっとランガの顔をのぞき見た。

「泳ぎたいの?」

 彼は「え?」とパチパチと何度か瞬きをして首を傾げた。

「うーん。今まで泳ぎたいとか思ったことなかったけど、あなたと話していたら、水に入って泳ぎたくなってきた。なんでかな。ずっとプールに入っていないからかな」

「了解した。他ならぬランガくんの頼みだ。使えるようにしておこう」

 ランガは一瞬目を丸くして、慌てた様子で首を横に振った。

「俺、頼んでない。そんな面倒なこと、しなくてもいいよ。どうしても泳ぎたくなったならどこかのプールに行けばいいし」

「いいや。ちょうどいい機会だ。放置しっぱなしというのも問題だからね。そろそろ点検しなければと思いつつ面倒でつい後回しにしていたけど、君のおかげでやっと重い腰を上げる気になってきた」

「ほんとう?」

「もちろんさ。君にも協力をお願いしよう。メンテナンスして使えるようにしておくから最終チェックをしてくれないかな」

「最終チェックって?」

「実践。プールで泳ぐこと」

「そういうことなら……」

「よし、決まりだ」

 強引に押し切った。


 今やランガとふたりだけで会うことは、ごく自然なことになっていた。

 会えばスケートだけではなく一緒に食事をし、時間が許せばふたりだけの夜を過ごし、ときにはセックスもする。世間の基準では恋人同士といっていいだろうし、愛之介自身も、そうだと信じていた。ランガも愛之介のことを躊躇わずに恋人だと言ってくれる。

 そうではあるのだが、彼が果たして自分のことをどれほど好きなのか、勘違いとか気の迷いではなくちゃんと好きでいてくれているのか確信が持てなかった。もしかすると愛之介の押しの強さに根負けして流されているだけなのかもしれない。

 受け身で流されやすい子であるのは間違いない。だからこそ考える時間を与えないくらい迅速にことを進めることが正解だと信じていた。その一方、嫌なことははっきり「嫌だ」と言う子であることも知っている。それゆえギリギリのラインを見極めつつふたりの距離を縮めていったつもりだ。心の距離も肉体の距離も。

 その判断は間違っていない。

 なぜならランガは、愛之介を一度も拒絶したことがないのだから。そう自らに言い聞かせ安心を得る。

 大丈夫だ。ふたりだけの時間を積み重ね愛を深めていくことだけを考えることにしよう。そのためのイベントは多ければ多いほどいい。


 隅々まで点検させた結果、プールに大きな損傷はなかった。細かい修繕作業を終え、水漏れもないことを確認した。

 これでランガに思う存分泳いでもらうことができるだろう。

 そんなこんなで、実際にプールを使えるようになったのは、気候的にぎりぎりになってしまった。

 沖縄は猛暑日がほとんどないくせに、真夏日の期間がやたら長い。九月も末という本土では秋の時分なのに、まだ熱帯夜が続いている。日差しはだいぶ弱まったとはいえ、ここ沖縄の紫外線は侮れない。日中の強い太陽光を避け、夕刻からのプール遊びに招待した。

 もちろんディナーもつけよう。


 プールサイドに腰掛け、飽きもせず泳ぎ続けるランガを眺めていた。パシャ、パシャと響く水音は静かで、水飛沫もあまり上がらない。無駄のないきれいなストロークだと感心する。

 カナヅチだと噂で聞いていた。泳げたとしてもさほど得意ではないのだろうと高をくくっていたのだが、水に浮かび、手足を動かし前へ進み、息継ぎくらいまでの基本は一応できていた。プールに入ってすぐの泳ぎはじめは恐る恐るで水に不慣れな印象だった。そのときは、やはり慣れていないなと感じた。それが時間とともに、ぎこちなさは消えていき、今や自然体で水泳を楽しんでいる。

 スポーツに対する脅威的な上達速度には驚かされる。これは持って生まれたランガの才能なのだろう。

 優れたアスリートには二つの人種がいるという。

 一つのスポーツに特化して力を発揮できるタイプと、生まれながらにして、ずば抜けた身体能力と運動神経を与えられ、どのようなスポーツでも難なくこなしてしまうタイプ。

 ランガは間違いなく後者だ。スノーボードやスケートボードだけではなく、幼少期から指導を受けていればほとんどのスポーツで大成することが可能だろう。もちろん本人がそのスポーツを好きになればだが。水泳ひとつを見ていてもそう思わせるに十分な吸収力だった。

 しばらく見物していると普通の泳ぎに飽きたのか、いきなり潜り始めた。

 たまに水面に顔を出して息継ぎをし、次の瞬間また水中へと消える。なんというデタラメ。それでも水中ライトの光を全身に浴び、イルカのように水と戯れる肢体はファンタジックで美しい。自由でのびのびと楽しそうだ。

 見られていることに気がついたのか、ランガは顔を水面から出し振り向くと手を振った。それから愛之助の足元までゆっくりと泳ぎ近づいてくる。顔を上げゴーグルを上げスイムキャップを無造作に頭から取ると、軽く首を振った。水色の髪が、あごまでぱらりと落ちた。

「ずっと見ていたの?」

「随分と楽しそうに泳いでいたね」

「うん、久しぶりに楽しい!」

「潜れたんだ」

「みたい。やってみたら、なんとなくできた」

 なんとなくか。ことスポーツに関して、この子の吸収力はバケモノだ。

「水の中の君は、まるでザンヌイユーみたいだった」

「ざん?」

「人魚……マーメイドみたいなものだよ」

 いい加減な説明でごまかしてみたものの、ザンヌイユーは沖縄方言でジュゴンのことだからかなり違う。

 ランガは興味なさそうに「ふーん」と言ったきり、それ以上追求してこなかった。そしてプールの縁に手を置きヨイショと体重をかける。そんなランガの腕をつかみ水の中から引っ張り上げれば、ザバーッと全身に水をまとわりつかせた彼が、プールサイドに上がった。

 水色の髪から、ぽたぽたと水滴が滴り落ちる。その頭にタオルをバサッとかぶせてやった。

「ふう……いい全身運動だった」

 濡れた体を拭こうともせずタオルを肩にかけただけでランガは、愛之介の隣に腰掛け、ふくらはぎから下を水の中に浸し、ぐるぐると回しはじめた。輪を描き広がっていく水紋にガーデンライトが映り込み、ゆらゆらと揺らめいていた。

 すると何を思ったか、いきなりバシャっと勢いよく水面を蹴り上げる。高く飛び散った水しぶきが青白い光を受けキラキラと輝く様子は、まるで雪が舞うようでもあり幻想的だった。彼は愛之介に顔を向け、いたずらっぽく笑う。その邪気のない笑顔に一瞬見惚れた。

 まったく、と苦笑しランガの肩に掛けられたタオルをとりあげ頭をゴシゴシと拭きながら、彼の泳ぎについての寸評を口にした。

「ずっと君を見ていて驚いたんだけど、今日、プールに入ってすぐは、水泳に不慣れな感じがしてぎこちなかった。それが、どんどんスムーズに泳げるようになっていたよね。自己流っぽいけどフォームも少しずつ整っていった」

「へえ、自分ではわからないけどそうだったんだ」

「ふふふ……。意外に泳げるんだね。カナダでは泳いでいたんだ」

 ランガは首を横に振る。

「そんなには。日本と違って学校にプールはないし水泳の授業もないからね。浮くことと息継ぎでなんとなく泳いでいるみたいな?」

「それなら、どこで泳ぎを覚えたの?」

「カナダの子供たちは、ほとんどスイミングスクールで水泳を教わるよ。レクリエーションセンターのプールでね。カナダでは水の事故で多くの子供たちが犠牲になっているからって、レッドクロス……」

「日本語では赤十字だよ」

「そう、そこが主催してはじめたんだって。ライフジャケットの着け方とか、服のまま水に落ちたら、川だったら、冷たかったら、海だったらとか、いろいろな状況を想定して、自分を守るにはどうすればいいのか習うんだ。助けの呼び方もね。あとはただ楽しく遊ぶ。テクニック的なことはあまり教わらなかったし、日本みたいに点数つけたり競争することもなかった。スポーツとしてというより、いざというとき自分の命を守るためにほとんどの親は行かせているよ。経済的な理由で参加が難しい子には補助制度もあるんだ。俺だって基本を教わっただけで、競技に出るほど夢中にはならなかった。スノーボードの方が楽しかったし」

「水泳を習うように言ったのはお父さん?」

「うん。父さんと母さんが相談して幼児クラスからね。あのとき俺は四歳か五歳かそんなものでよく覚えていないんだけど、他の子たちと一緒だというのが嫌だったんだと思う。尻込みする俺に父さんは『泳げるようになればスノーボードも、もっとうまくなるよ』ってすすめてくれて、それでやっと行こうって気になったらしい。でもよく考えてみるとスノーボードのためじゃなかったんだ。もしものときのため——水の事故から自分を守れるように習わせたんだって、今ならわかる」

 ランガはそこまで語ると目を伏せた。まるで愛された記憶を反すうするかのように。父親との思い出話になるといつもそうだ。彼の表情は柔らかく懐かしそうで、でもどこか寂しそうにも見えた。

 無理もない。ランガの父親は息子に多くの大切なものを残してくれたのだ。

「君のお父さんは、愛する君の安全を第一に考えていたんだね。素敵なことだよ」

 自分とは違う——そんな父子関係が正直うらやましかった。今も、そしてこれからもランガの父は愛する息子を守り続けるのだろう。

「ありがとう。そう言ってくれて。——ねえ、愛抱夢は結構泳げるよね。学校で習ったの?」

「就学前から、一般教養としてスイミングスクールには行かされたよ。東京では、子供たちは小さいときから水泳を習うのが常識だって」

「暦は、泳ぎは好きじゃない、泳ぐ暇があればスケートをするって言っていた。クラスメイトもそんなに水泳は得意じゃないっていう人たちばかりなんだ」

「沖縄県民は意外とカナヅチが多いんだ」

「カナヅチ?」

「ああ、泳げない人って意味。沖縄県民に海で泳ぐなんて発想は、もともとないからね。練習しようとしたとろで水泳の習得に海は不向きだ。学校にプールが普及するのが本土に比べてかなり遅かったから仕方ないんだけど。赤毛くんとか、平成生まれになるとプールもそれなりに普及して小中学校で水泳授業を受けているから少しは泳げるだろうけど、それ以前の人たちはね、海人——漁師とか海で仕事する人以外ほとんど泳げない」

「俺さ、沖縄の人ってみんな泳ぎが得意なんだと思っていた。きれいな海があるんだし。でもさ、考えてみれば母さんも泳げないって言っていたなって」

「それね。いまだに本土の人も誤解していて、沖縄県民皆泳ぎの達人だと思い込んでいる。他にも昔アメリカ統治だったこともあって県民もれなく英語がペラペラだろうとかね」

「そうだった」と、英語が苦手な赤毛や他クラスメイトでも思い出したのか、ランガは肩を軽く持ち上げクスッと笑った。

 そんなランガの横顔を見て今さら気づいたことに、愛之介は眉をひそめた。頬も首も胸も、ただ青白く透けていた。ガーデンライトの白い光のせいかもしれないが。

 思わず彼の襟足に手を滑り込ませ、まだ湿っている水色の髪をそっと持ち上げれば白いうなじが露わになった。やはり血色を感じさせない。そのまま首から肩、背中へと手のひらを滑らせた。冷たい。

 迂闊だった。沖縄の秋は泳いでも問題のない気候だ。とはいえ日が沈めば大気温は下がるし、秋風は体温を奪う。今の気温は沖縄の気候を考えるとやや低めだ。

「寒くない?」

 肩に置かれた愛之助の手に冷たい指を重ねてランガは首を振った。

「別に寒くはないけど」

 肩を掴む指に力を入れ抱き寄せる。

「でも冷えている」

「あなたもだよ」

 白い指がつーっと愛之介の胸を滑り、赤みの失せた唇が密やかな笑みをこぼした。その妖麗さに息を呑む。

 水色の髪を指に絡めながら唇に一瞬だけ口づけてからランガの目をのぞき込んだ。吸い込まれそうな青い虹彩が、じっと愛之介を見つめ今度こそはっきりほほ笑み、愛之介の頬を両手のひらで挟み覆いかぶさりながら唇を求めてきた。

 ひやりとした弾力が唇に押しつけられた——と、まさにそのとき手首に振動が走った。その間の悪さに心の中で舌打ちをする。無視してもよかったのだが思い当たることもあり、そっと唇を外した。目で謝罪を伝え手首のスマートウォッチを確認する。忠からのメッセージだ。

 ここ数日間頭を悩ませていた懸案事項は、なんとか解決したということで、ほっと胸を撫で下ろす。野暮なタイミングでの連絡ではあったが、それでも精神的に余裕ができた。

 明日の早朝に慌てて別荘を発つ必要はなくなり、時間を気にすることなく、ふたりだけの夜を楽しむことができるのだ。

 思わず口元に締まらない笑みが浮かぶ。ランガはそんな愛之介の表情を読んだのだろう。

「いい知らせ?」

「とてもね。気になっていたことは解決したようだから、朝早く発つ必要はなくなった」

「ホント?」

 瞳を輝かせ嬉しそうに身を乗り出してくる彼の頭に手を置いた。

「そうだよ。だから焦ってがっつく必要はないんだ」

 ランガはムッと口を曲げた。

「俺が焦ってがっついているって言いたいの?」

「違ったのかな? 積極的なランガくんもラブリーだったよ。それよりおなかが空いただろう? 食事にしよう」

 胃のあたりに手を当てうなずくランガの肩を抱き室内へと促した。

 時間はたっぷりある。


 ふたりで夕食を終え食休みもそこそこにして「滑る」とランガはスケートボードを掴み立ち上がった。若いなと呆れつつ付き合うことにする。

 覚えたてのトリックを次々に繰り出してくる。ボウルの側面を加速しながら勢いよく滑り下り、お椀状のボトムから上昇カーブを一気に上り切ると、トップから飛び上がった体が宙を舞う。そのエアトリックの華麗さに言葉もなく、ただ見惚れていた。

 なんて生き生きとして輝いているのだろう。ランガは間違いなくスケートの神に愛されている。そう思えた。

 ボウルの外へと着地し蹴り上げたボードを抱え「どうだった?」と満面の笑みを浮かべ駆け寄ってくる彼に、ミネラルウォーターのボトルを手渡した。

「最高にラブリーだったよ。君は根っからのスケーターだね」

 ランガは水を喉に流し込み、ボトルのキャップを締め手の甲で口を拭った。

「もちろん。たまに泳いだり他のスポーツをするのもいい気分転換になるけど、スケートは特別なんだ。スケートが一番だ」

「水泳だけだと物足りなかったのかな?」

「そうかもしれない。水泳ってさ、水の中で汗かかなないから、なんか体を動かした! って感じがしなくて」

 汗をかかない? ありがちが誤解だ。

「君は勘違いしているね。水の中でも運動すれば体内に熱を持つ。汗はかいているよ。水の中だから気がつかないだけだ。喉だって渇いただろう?」

「え? そうだったんだ。言われてみれば……」

「そう。だから水泳だってちゃんと水分補給しないとね」

「そっか」

「——それで、納得してくれたかな?」

「うん。付き合ってくれてありがとう」

「どういたしまして。そろそろ部屋の中に入ってシャワーで汗を流そうか」

「わかった」

 暗い夜空を仰げば、雲に覆われてしまったようで星も月も見えない。そういえば台風が近づいていたことを思い出す。

 天気予報どおりだとすると沖縄本島の近海を北上するだけで、上陸はしないということだが、天気は崩れ、明日の朝には間違いなく雨が降り出す。考えれば考えるほどギリギリのタイミングだった。


 ざっとシャワーを浴び汗を流した。

 本当はバスタブに湯を張り、香りのいいローション風呂でイチャつきたかったのだが、プールでずっと水の中だったのに? とランガがふくれっ面になったので断念した。

 色違いのバスローブをラフに羽織ったままベッドに並んで座る。どちらかともなく体を寄せ合い、さほど意味のない会話を続けながら頭を撫でうなじから肩をさすり、髪に息を吹きかけた。

 ランガの手が愛之介の背に回され腰から上が密着し柔らかいタオル地越しに体温が行き交う。バスローブの前たてからから滑り込ませた手のひらで胸を撫で、すぐに見つけ出した乳首を柔らかく捏ねてやれば白い喉を反らせ小さく喘いだ。

 ところがランガは、愛撫を続けようとする手を掴み引き剥がすと、せっかちな動作で膝立ちになり真正面から愛之介の両肩を掴んで見つめ——というか睨みつけ迫ってきた。

 プールサイドでランガがキスを仕掛けてきたときから感じていた。どうやら彼なりに何か思うところがあるらしい。

 まあいい。受けて立とう。多少の好奇心もあって、ランガのやりたいようにやらせてみることにした。

 やがて彼は、何か決心したように口元をキュッと結び、愛之介の両肩を押し体重をかけてきた。

 え? と思った次の瞬間、体がベッド上でバウンドしていた。スプリングがギシッと鳴った。目を細めて見れば、自分を見下ろす青い瞳が真上にあった。

 えーと。何が起こった?

 数秒の混乱ののち理解する。どうやらベッドの上に押し倒されてしまったらしい。いやそんなわけはない。ランガの体重や腕力くらいでは、びくともしない体幹は持ち合わせているつもりだ。ただのサービス精神で押し倒されてやったというのが本当のところだ。

 仰向けになった愛之介にまたがり、なぜか得意げな顔で見下ろしている。そんな彼の表情に頬が緩んでしまう。なんてかわいらしい——などとうっかり口走ったら、子供扱いするなと機嫌を損ねるだろうか。

 にやけ笑いを浮かべそうになる口元をキュッと引き締めた。

 やがて覆いかぶさってきたランガの湿り気を帯びた水色の髪がぱらりと顔に落ち唇が触れた。その髪を指でどかしながら彼のうなじを軽く掴む。あたたかい息がかかり唇が重なった。


 はむはむと柔らかく唇で噛むようにしてなされるキス。

 下唇を啄み、次に上唇を——ランガはそれを交互に繰り返し、たまに濡れた舌が唇をペロッと子猫のように舐めてくる。

 小鳥が戯れるようなバードキスは、くすぐったくて焦らされているようで、もどかしいのだが、今夜はランガのリードに任せることにする。愛之介も唇と舌を繊細に動かしランガのキスに応えた。

 慈しむように交わされる穏やかなキス。

 全身から力が抜け深くリラックスしていくことがわかった。

 甘い吐息とともに漏れ聞こえる小さなリップ音が官能を気づかぬうちに高めていく。目を閉じ熱を持ち始めた唇のしっとりとした柔らかさをじっくり味わった。

 それにしても、こうやって相手に委ね受け身でされるキスなど、はじめての体験だったと思う。これほど心地よいとは知らなかった。

 しばらくして唇が外されたことで薄目を開ける。

 薄明かりの中、彩度を失くした青い瞳が、まじまじと愛之介の顔を凝視していた。そして何を思ったか眉に触れてくる。左の眉、右の眉と指の腹で眉毛の形のとおりになぞりながら「愛抱夢の眉ってユニークだよね」と笑顔を向けてきた。

 何を言い出すのか。

 確かに眉が個性的だとか印象的だなどと言われることはあるのだが、これは褒められているのか貶されているのか。ランガの目にはどう映っているのだろうか。

「君の好みだったら僕はとても嬉しいな」

「うん、魅力的だと思うよ。この眉も髪も赤い瞳も……」と言いながら、目に指をそっとかぶせてくるから、思わず目をつぶった。瞼の上で指の腹を滑らせ、まつ毛を指先でサワサワといじながら「長い……」とつぶやき、さらに彼の指は鼻筋に沿って進み、たどり着いた唇を確かめるように丁寧に指の腹でなぞりはじめた。

 何か遊ばれているような気もするが、不思議と嫌ではなかった。ていねいな指遣いに心が緩くほどけていく。

 しばらく唇をいじっていたランガの指が、愛之介のバスローブのひもをほどきにかかった。前面がきれいに開かれ厚みのある胸から下腹部までが剥き出しになる。ランガは鍛えられた胸筋を手のひらで撫で唇を鎖骨に押しつけた。あたたかく湿った吐息がかかる。

 胸、腹、と少しずつ口づけの場所が下へと移動していった。肌の感触と筋肉の質感を確かめるかのように手のひらがていねいに肌を撫でる。

 熱い吐息。しっとりとした唇。濡れた舌。肌を這いまわる指の感触。

 ランガから与えられる刺激は、とても気持ちいいのだが、急激に昂りを増す欲望にはもどかしい。その衝動のまま一気に体勢を入れ替え相手を組み敷いてしまう——今までの神道愛之介ならばそうしていた。でも、今は、このままずっと彼の慈しむような愛撫の心地よさの中に浸っていたい気分の方が勝っていた。

 水色の髪を指に絡ませ瞼を閉じる。

 思い返せば、他者からのスキンシップは不快なものでしかなかった。

 鬱陶しい——その言葉が一番しっくりする。自分から触れるのならまだよかった。己の意志でコントロールできるのだから。けれどこんなふうに受け身でされるがままでいるなんて想像もできなかった。

 もちろん今だって抵抗はある。相手がランガだから好きにさせていられるのだ。ランガでなければ、誰がこんなことをさせるものか。

 ふと幼かったころの記憶をたぐってみた。

 父親や伯母たちと、ともに過ごす時間は安らげるようなものではなかった。血がつながった肉親だというのに。家族のはずなのに。緊張と遠慮が先に来て、気に入られるよう愛されるよう、彼らにとって理想的な神道家の跡継ぎである嫡男を演じ、賢くて強いこと、どの集団の中でもトップであることを常に意識していた。

 息が詰まる毎日。

 身内相手ですらこんな調子だった。いったい誰と過ごせば、緊張から解き放たれたというのだろう。

 決して得ることができなかった家族のぬくもりをランガの中に見いだそうとしたわけではなかった。それでも限りなくそれに似たものを無意識に求めていたのかもしれない。

 認めよう。本当はずっとこんなふうに触れ合いたかった。こんなひとときがほしかったのだ。


 そんな取り留めのない思考を巡らせていたときだった。不意にズキンと灼けるような快感が腰から背中へと突き抜けた。下肢にたどり着いたランガの唇と舌が愛之介の昂りに触れたのだ。

「こらっ!」

 思わず上半身を起こしランガの頭をつかみ引き剥がした。彼は驚いた様子で目をぱちくりさせた。

「嫌……だった?」

「そうではない。むしろすごく嬉しいし。でもわかるだろう? 生のままでいきなりなんて君らしくない」

「そっか。でも、気がついたら、目の前にあったから口に入れていた」

「だからといって……」

「だって俺、今すごく……」

 そこで言葉は途切れ、視線が宙をさまよう。

 適切な日本語を探しているのか。

 少しの沈黙ののち、愛之介の股間にそろそろと指を伸ばした。

 浅黒い陰茎に絡みつく白い指の淫猥さにぞくりとする。そこから目を逸らすことができない。喉の奥でゴクリと唾を飲み込む音がした。

 ややあって、顔を上げたランガの唇の間から白い歯がのぞき、静かな声が聞こえた。

「I feel like sucking your dick」

 瞬きすらできず、愛之介はただランガを凝視した。

 薄闇の中わずかな光を受け不安そうに揺らめく青い虹彩。胸をキュッと掴まれたように切なく、そしてそんな彼がたまらなく愛おしい。

 母親を通して覚えたランガの日本語。日常会話に不自由はない。それでも性的なニュアンスを含む微妙な表現を日本語で組み立てるのは難題らしく、そんなとき彼の口からは英語が飛び出すことがちょくちょくあった。

 それはアメリカの大学を卒業した自分だから受け止めてやることができるのだ、と自負している。

 ランガの唇に優しくキスを落として、ベッドサイドチェストの引き出しからコンドームを取り出し彼に渡した。


 半勃ちしたものを白い指がそっと包み扱く。指はパラパラと繊細なタッチで動いた。もう片方の手は陰嚢をいじり会陰をそっと圧したりしている。慣れないながらも工夫し一生懸命なことがわかる。

 やがてしっかりと硬く勃ち上がったところでゼリーをたっぷり塗り、その上からコンドームを慣れた手つきでかぶせてくれた。そして先端にキスを落とし、確かめるように舐め上げる。そのまま口に含み、前後運動と舌先でのカリや亀頭への刺激を組み合わせ、たまに裏スジを吸い上げた。

 最初のころは力加減がうまくいかず手こずっていたのが嘘のようだ。今では指も舌の動きも繊細で無駄がなくなっている。かつての初々しさが今や懐かしいとすら感じた。すべて自分が彼に対してやっていたことの見よう見まねがスタートだった。それをこちらの反応を伺いつつ何となく身につけ応用までしてくれる。

 スケートと同じだ。この子の柔軟さ、吸収力には呆れるというか恐れ入る。

 たっぷり塗ったゼリーに助けられ、コンドーム越しとはいえ熱い粘膜に直接包まれているような感覚だった。なによりランガの舌も指も、感じやすいところを器用に的確に狙ってくる。

 乱れはじめた自分の息遣いが耳障りだ。

 愛之介はランガの頭をくしゃくしゃとかき混ぜながら宙を仰いだ。もうあまり堪えられそうにもない。

 でも、その前に……と、ランガの髪を引っ張り、顔をこちらに上げさせた。

 朱色に染まる頬。焦点の合わない潤んだ瞳。濡れた唇はてらてらと光り浅黒い肉棒を無心に頬張っていた。彼の口から溢れた唾液があごを伝わり落ちていく。その媚態とくちゅくちゅという淫らな音を強く意識した。次の瞬間、喉の奥へと吸い込まれ舌と上あごで締めつけられた。

 背筋を這い上がる強烈な快感。目の奥に白い閃光が走り、一気に爆発した。


 ドクドクとした射精の脈打ちが落ち着いたころ、彼の口腔内から縮みはじめた自分のモノを引き抜いた。ランガは苦しげに息を吐き大きく吸い込んだ。

 がんばったね、とねぎらいの意味を込め頭を撫で、唾液でベタベタになった顔を洗ってくるように促した。自分はその間、諸々の後始末をすることにした。正直この一連の作業を行う姿は想像しただけで萎えそうで、あまり見せたくない。

 ところが予想よりかなり早くランガは洗面所から戻ってきてしまった。背後からの視線を感じる。

「そんなにジロジロ見ているものじゃない」

「どうして?」

「かっこいいものじゃないからね。君に見られるのは抵抗がある」

「そうなんだ」と言いながら、背中から肩にあごを乗せて首に腕を巻きつけてくる。聞いていなかったのか理解できなかったのか従う気がないのか。

 諦めのため息をひとつ落とし始末を終え、正面で向かい合った。

 ちょこんと座るランガの全身を視線でなぞる。

 酷い格好だ。身につけているバスローブは着崩れているというレベルではなく合わせは、ほとんど重なっていない。股間はかろうじて隠れているレベルだが頓着している様子はなかった。しかも露出の割に色気とは程遠いと感じさせるのも頭が痛い。

「何かあった? 今日はやけに積極的だったね」

「あの、いつもさ、俺ばかり気持ちよくしてもらってばかりだったから、お返しっていうのかな。愛抱夢がしてくれることを真似してみた方がいいのかなって思ったんだけど、嫌だった?」

 この子なりに真剣だったんだな、と思うとその真っ直ぐさに胸がキュンとする。

「まさか。最高だったよ」

 嘘ではない。されるがまま相手に身を任せてしまうなんて、はじめての経験だったが、いろいろ新しい発見があった。気分転換という意味ではなく、視点を変えてみることは大切だと痛感した。

 ランガは安堵したようにほほ笑む。

「ありがとう」

「何が?」

「俺の好きなようにやらせてくれて」

 黙って頷く。

 最初に愛撫の手を振りほどいたのも、形だけの抵抗ではないとすぐに理解した。あのとき何かを決心したような目だったから。

 見ればランガは、何かを思い出そうとするように、自分の両手をじっと見つめ、開いたり閉じたりを繰り返していた。顔を上たランガと目が合った。

 青い瞳を煌めかせて彼は言う。

「あのさ、愛抱夢に気持ちよくなってもらいたかったのに、俺が気持ちよかったんだ」

「え?」

「俺の手が、指が悦んでいた。手だけじゃないよ。唇も舌も、あなに触ったところ全部が……。もしかして愛抱夢もそうだったのかなって。なんとなく。えっと……ごめん、変なこと言って」

 口元が綻んだ。

 ——そうか。今まで言葉にして意識したことはなかったけれど、僕も同じように君を愛していたんだ。

「ほとんど正解だ」

「ほとんど?」

「残りはもう少し大人になるとわかるかな」

 眉根を寄せ不満そうに口を尖らせたが、追求はしてこなかった。

「それでさ。思ったことがあって。愛抱夢ってなんかすごく……」

 そこで彼はいたずらっぽく笑った。その天真爛漫な笑顔にはっとする。次に何を言い出すのか、想像がついてしまった。ドキンと心臓が強く鳴り、咄嗟に唇で続くだろう言葉を封じた。

 強引なキスで黙らせてから唇を外し、耳元に口を寄せ低い声で静かに圧をかける。

「それ以上言わない方がいい」

「俺が言おうとしたこと、わかったの?」

「そりゃね」

「なら言ってもいいだろ」

「ダメ。言ったら僕は、しばらくの間不機嫌になるけどいいかな?」

 言いながらバスローブを脱ぎ捨て全裸になった。

「それはなんか嫌だな」

「だから言わない方が君のためだ」

 そう諭してランガの肩からもバスローブを外し、ストンとシーツの上に落とす。まだ情事の痕跡らしきものも刻まれていない素肌はまっさらでかえって扇情的だ。

 彼の細い、だがしっかりとした腰を抱き上げ、下敷きになっているバスローブを引っ張り出すと二着まとめてベッドからバサリと蹴り落とした。そのままシーツの上に押し倒し覆いかぶされば、少し汗ばんだ胸と胸がしっとりと吸いつく。

 顔を近づけた愛之介の唇をランガは「あの……」と指で押し戻そうとした。

「どうかした?」

「俺にやらせてくれるんじゃないの?」

 そうきたか。もちろん想定内だが、答えは断じてノーだ。

「君は頑張ってくれたからね。今度は僕の番だよ」と優しげな笑顔で煙に巻くことにする。

 頬にそっと手のひらを当てた。多少の胡散臭さなど、この素直な子は気づかない。

 彼は真摯な眼差しを向けて主張する。

「平気。俺まだ大丈夫だから」

 ほらね。

「そういうことは焦らない。少しずつでいいんだ」

「でも……」

「おや? もしかして君は僕にされるのが——ボトムが嫌ななのに今までずっと気持ちいいふりをして我慢していたのかな? だとしたら申し訳なかったね」

 いささかわざとらしい演技だったが、ランガは目を大きく見開き、強い口調で否定した。

「そんなことはない」

「ならよかった」と彼の唇を親指の腹でなぞる。

「キスされるのは、好き?」

「うん、好き」

「そうだったね。ではこれは……」

 手のひらで胸を撫でる。指がランガの乳首を掠めると喉の奥がヒュッと鳴った。

「好……き……」

「では」と、手のひらを下腹部へと降ろし、外腿から内腿、そして陰茎に指を絡ませた。ランガは無遠慮な愛之介の指を掴んだ。見れば顔が赤い。

「いいよ、もう確認しなくても。あなたが触ってくれるところはどこでも、いつでも気持ちいいよ。嘘じゃない。本当だから。……あ、でも、痛いのは嫌だ。血が出るのも苦手かも」

 ランガは自分と違って痛みと愛をつなげてはいない。それと血を見ることに慣れていなかったらしく、指を少し切っただけで卒倒したことがある、という冗談みたいな本当の話を人づてに聞いた。スケートをはじめてから、いい加減、血も見慣れたからもう大丈夫だと本人は主張するが。

「それはよかった。では最後にひとつだけ確認させて」

 陰嚢を包むように握ってから会陰を軽く押せば小さな喘ぎを漏らした。

 最後の確認——と尻を手のひらで包むように揉んでから、割れ目に人差し指を滑り込ませた。そして開口部を指の腹で揺らしながら尋ねる。

「ここ、いじられるのはどう?」

「少し変な感じがしたけど、今は慣れた」

 少しだけ指を埋める。

「では、君の中へ僕の——指よりずっと太いものを挿れたとき、痛いのに我慢したりしていない?」

 ランガの目が大きく見開かれ、澄んだ青が揺れる。ふいっと視線が逸らされた。

「平気だよ。今はそんなに痛くない。そりゃ少し痛いこともあるけど、それでも——」

 そこで言葉を探しているのか、押し黙ってしまった彼に先を促した。

「それでも?」

 ランガは視線を再び愛之介に戻した。

「俺は、挿れてほしいんだと思う」

 キッパリとした口調だった。

 ランガだってそれを望んでいるに違いないと、自分自身に暗示をかけてきた。でも確信はなかった。それが彼の口からはっきりと伝えられた。

 そのことに安堵する。

「オーケー。確認が取れたところで、メインディッシュにしようか」

 ランガは眉根を寄せ唇を尖らせた。

「いいけど、なんかごまかされたような気がする」

 そんなつもりはない——といえば嘘になる。すべての本心を見せることは、まだ難しい。それが大人である愛之介が、まだ子供でしかないランガに対するなけなしの意地なのだ。

 子供扱いしていい時期はとうに過ぎていることは知っている。それでもあと十年は待ってほしい。そのくらいの猶予が必要だ。

 ふくれっつらになったランガの頬にキスをして「僕は倍返しが信条なんだ」と唇を重ねる。ランガは愛之介の後頭部を掴み唇を強く吸い返した。


 熱い舌と舌を絡ませながら、横腹から胸に手を滑らせた。少し汗ばんだ肌が手のひらにしっとりと馴染み、感触を確かめるように指が這う。しっかりと鍛えられた若い筋肉は弾力があり、それでいて柔らかい。ときたまランガはくすぐったそうに身を捩らせたが嫌がっている様子はなかった。

 指の腹が柔らかな胸の突起に触れる。ランガの背が跳ね反らした白い喉の奥からくぐもった声が抜けた。

 唇を外し淡い色の乳首をいじれば、すぐにツンと硬くなりランガの息がせわしなく乱れていった。こらえようとしているのかきつく目をつぶり首を振る。パサッと水色の髪がシーツに散り、彼は両腕で目元を覆い隠した。胸に顔を近づけ熱い息を吹きかけ、乳首を口に含み濡れた舌先で転がせば甲高い声があがった。

 それはとてつもなく官能的に響いて夜気を震わせた。

 この声を耳にしたことがあるのは間違いなく自分だけだ。彼の友人誰ひとりとして訊いたことはない。バカバカしいくらい当たり前のことなのだが、そんな取るに足らない優越感に心が満たされた。

 指で敏感ところをもてあそびながら、身をくねらし喘ぎはじめたランガの裸体を眺めていた。

 ランガは日ごときれいになっていく。あどけなさを残しつつ大人びてきた容貌。面立ちだけではなく肉体も美しい。長い手足。しなやかな筋肉に覆われた骨格は鍛えられたアスリートのものだ。

 そんな彼が自分の与える快楽に溺れ、淫らな肢体を隠すこともなくさらしている。

 それなのに、その風情はどこまでも可憐で清らか。こんな状況下にあってすら、その形容がしっくりする。

 もう一度、覆いかぶさり強く抱きしめた。ランガは背中に強くしがみつき、キスを求めてくる。

 触れ合ったところ全てで快感が生まれる。唇と唇。素肌と素肌。溶けて混ざり合っていく。どこまでが自分の体でどこからが彼の体なのか輪郭が曖昧になっていく不思議な感覚。

 いつからだろう。言葉にしなくてもお互い相手の求めるものが不思議とわかってしまうようになったのは。


 ランガをうつ伏せにして、首から肩甲骨に唇を這わせ、シーツと胸の間に滑り込ませた手で胸や腹をまさぐった。体を持ち上げ、脇腹から尾骶骨まで指を滑らせから、両脚を少し開かせる。

 ローションを取り左右の手のひらで擦り合わせあたためてから、尻の割れ目にそっと指を入れた。

 柔らかくほぐし道をつけたころ、ランガは「俺、こっちの方がいい」と体をひっくり返し仰向けになった。

 澄んだ青がまっすぐ愛之介を見つめている。「あなたの顔が見えるから」とランガは両腕を愛之介の首に絡めた。

 愛之介はランガの膝裏を肩ににかけ腰を持ち上げた。


 薄闇に包まれた別荘のベッドルーム。

 律動とともにベッドマットがギシギシと鳴っている。それに混ざるのは荒い息遣い、半開きになった口から漏れる甘い喘ぎ。ぴたぴたと尻を打つ音。それらの音が混然となり濃紺の闇の中へと溶けていき、部屋の空気を濃密なものにしていた。


 しがみついてくる腕の力。

 髪に絡みつく指の繊細さ。

 とろけそうに柔らかい唇。

 重なる胸で響き合う鼓動。

 額に浮く玉のような汗。

 体臭とボディソープの混ざった匂い。

 切れ切れに上がる鳴き声。

 全てを手に入れ、それでも、なお求めずにはいられない。

 その想いはコントロールできない激しさで愛之介の胸を焦がした。


 何度も何度も名を呼び合って、ただ欲望の赴くままお互いを無我夢中で貪りあう。ひたすら肉体の快楽だけを求め深く繋がりながら、ひとつとなり絶頂へと駆け昇っていった。


 放物線状のカーブを描き熱が退いていく。

 上体を持ち上げ視線を落とせば、ぐったりとうつぶせたランガの無防備な背中が上下していた。

 横臥し片肘をついて自分の頭を支えた愛之介は、汗で濡れた白い肌にそっと手を乗せた。呼吸が落ちついてきたあたりで、ランガはごそごそと寝返りをうち愛之介を見上げた。

「大丈夫?」

「うん」

 ランガはカーテンに覆われた窓へと視線を向けた。

 パタパタと雨が窓に打ち付ける音が聞こえてくる。

「台風が近づいているから、その影響。予報より早く降り出したけど、明日は一日中雨だ」

「じゃあスケートはできないの」

「それは無理」

「そう残念」

「そのかわり君とここで丸一日イチャイチャできると思うと、僕はワクワクする」

「俺はスケートのほうがワクワクするけど——」

 そこでランガと目が合った。彼は慌てて「あ、たまには愛抱夢とずっと家の中で遊ぶというのもいいかもね」と気まずそうに訂正してきた。微妙な表情になった愛之介に気を遣ったらしい。

「大丈夫。新しいスケート動画もたくさん用意してあるよ」

「ほんと? 楽しみ」

 あくび混じりの声。まぶたは半分閉じかかっている。

「眠いのだろう。君はもう寝なさい、僕はシャワーを浴びてから……」

 ベッドから降りようとする愛之介の腕をランガは掴んだ。

「シャワーなんて朝浴びればいいよ。愛抱夢もいっしょに寝ようよ」

 さっぱりしてから寝たいというのが本音ではあるが、滅多にないランガのささやかな甘えに応えない手はない。

「仰せのとおりに。お姫様」

 芝居がかった口調で言えば露骨に嫌そうな顔をした。

「俺は女じゃない」

「では王子様」

「それも……なんか嫌だ」

「知っているよ。その拗ねた顔を見たくなっただけ」

 反論する気力もないのか、まぶたが半分閉じかかり、覗く瞳はとろんとしている。

 愛之介もランガの隣に潜りこんだ。

「おやすみランガくん。よい夢を」

 唇におやすみのキスをして、ランガを腕の中に抱き寄せ目を閉じれば、あっという間に深い眠りへ落ちていった。


 強い雨音と風音で目を覚ました。接近しつつある台風の影響だ。それでも朝までぐっすり熟睡していた。

 遮光カーテンで外光を遮られた室内は天候の影響もあっていつも以上に薄暗い。隣に寄り添うランガを見れば、安らかに眠っている。鼻のそばに耳を近づけてみる。健やかで規則正しい寝息が聞こえた。

 まだ夢の中にいるランガを起こしてしまわないように、そっとベッドから降りる。

 ベッドルームを出て喫煙所になっている一室でタバコに火をつけた。ここならランガに文句は言われないだろう。

 カーテンを開け外の様子をうかがえば、窓に雨が激しく打ちつけていた。

 天気予報によれば雨脚は強まったり弱まったりを繰り返すという。外出することは非現実的だ。今日はのんびり家の中に閉じこもっていよう。ふたりだけの世界だ。

 吐き出した煙をぼんやりと眺める。ふとランガとはじめて肌を合わせたときのことを思い出していた。

 その年頃の青少年らしく、未知のものに挑む好奇心と若干の不安をたたえた瞳がえらく印象に残っている。もともとランガの方が積極的だった。かたや自分は——といえば、内心、別の意味でドキドキだった。極度に緊張していたといえる。それを若い恋人に気づかせないよう余裕ぶるだけで精一杯だった。みっともないことに。

 ランガは「はじめてだから優しく」とはにかんだ。自分もある意味はじめてだった。なぜならこれほど強く一途な思いを胸に他者と深く触れ合ったことなど過去一度もなかったからだ。

 ランガはそんなこと知る由もない。あくまでも神道愛之介の都合だ。

 もちろんランガは最後まで気づかなかっただろうし、これからも白状する気はない。


 ランガをはじめて抱いたとき。あのときの感動をなんと表現すればいいのだろう。

 抱くというのと厳密には違うような気がする。抱かれているようでもあった。あたたかい光に包まれ、いつの間に心を覆う鎧を脱ぎ捨てていた。ランガは解放され丸裸になった愛之介のありのままを見て、感じ、受け入れ、黙って寄り添ってくれていた。そんな感じがした。

 嬉しさ? 悦び? 満足?

 そんなものではない。もっと神聖な何かだった。自分にとっては、だが。

 ランガにそんな話をすれば困惑するだろう。たかがセックスに気色悪いと思われるかもしれない。だから黙っていよう。

 灰皿にタバコを押しつけ火をもみ消した。

 ランガが目を覚ます前にシャワーを終え、それから彼を起こすことにする。そして彼がシャワーを浴びている間に朝食をテーブルに並べておけばいい。

 でもその前に、ランガの寝顔をもう一度見ておきたかった。

 ベッドルームへ足音を忍ばせ入っていった。

 床の上に膝をつき顔を近づける。薄明かりの中、横向きになり片頬を枕に押しつけて眠っている。

 天使のような寝顔だと思った。唇がかすかに笑っているように見えるのは、楽しい夢でも見ているからなのか。

 不意にランガの手が愛之介の手首を掴んだ。ぎょっとして「起こしかな」とごく小さくささやいてみるが、目は覚めていないようで何の反応もない。ほっと息を吐き、指で目元にかかった水色の髪をどけ、彼の顔を眺めていると、長いまつ毛がときたまピクピクと震えていた。

 桜色の唇が動いたのを見て、慌てて彼の口元に耳を寄せた。何か寝言をつぶやいたようなのだが聞き取ることはできなかった。

 だが、ここは聞き取れなくて正解なのだろうとすぐに思い直す。うっかり自分以外の誰かの名でも耳にしてしまえば、間違いなく気が滅入ってしまい一日以上引きずるだろう。たいした意味はないとわかっていてもだ。せっかくふたりきりでゆっくりできる休日なのだから無駄にしたくない。


 いずれにしろ、どう足掻いても嵐の一日だ。どこにも出かけず、ここで過ごすしかないことは確定している。

 ランガを楽しませるためにこの別荘で何をするか。サプライズの予備は引き出しの中にまだいくらでもある。ランガの反応を想像するだけで、他人に——もちろんランガにも——見せられないくらい自分の顔がにやけていることがわかる。

 愛之介は鼻歌を歌いながら、ステップを踏むような軽い足取りでバスルームへと向かった。