ハベルが舞い降りた日

 何羽もの大小さまざまなチョウが、赤いハイビスカスの周りをヒラヒラと群れて飛び回っていた。暦の家の庭には、いつ行っても色とりどりのハイビスカスやブーゲンビリアが咲いている。暦が言うには、どちらも一年中咲いている沖縄では見飽きた花らしい。カナダでは熱帯植物園でしか見ることができない花だ。そんな沖縄で咲く花々は、強い太陽光の下でこそ鮮やかに映え、底抜けに明るい南国沖縄を彩っている。

「あら、ランガくん、いらっしゃい」

 暦の母親がにこやかに迎えてくれた。小さな双子の妹たちが続いた。

「いらっさーい」

「こんにちは。お邪魔します」

 頭を下げ靴を脱ぎ、家の中へと入っていった。玄関を上がってすぐ、戸が開放されている居間の中から視線を感じた。思わず足を止め居間の中をのぞく。暦のお祖母さんと客らしき高齢の女性がお茶を飲み菓子をつまみながら歓談しているようだった。その客は、暦のお祖母さんよりさらに年齢を重ねているように見える。彼女はなぜかランガをじっと見つめ何かモゴモゴとしゃべった。

「◎#◆※☆……」

何を言っているのか、さっぱりわからない。そもそも日本語に聞こえない。暦も聞き取れなかったらしく、首をかしげてしまった。

 沖縄は方言が多い。しかも沖縄本島でも地域ごとに方言が異なり、離島の言葉はさらにかけ離れていて、昔はお互いに通じなかったという。それでもテレビやラジオの普及から、最近では動画やらを普通に見ている若い世代になるに従って、言葉そのものは標準語に近くなっている。暦にしろクラスメイトにしろ少し訛っていても、本土の人たちと問題なく意思疎通はできる。が、暦のお祖母さん世代になってしまうと、昔に使われていた言葉を多用するので孫である暦ですら意味がわからないことがちょくちょくあるらしい。そんなときは暦の母親が通訳をすることになる。今回も気を利かせて通訳をしてくれた。

「大城さんが、ランガくんと話をしたいって言っているけど、どうする?」

 どうやらこの客は大城さんというらしいが、ランガとは今日、初めて顔を合わせている。いったい何の話だろうか。

「話?」

「あのねぇ。大城さんは視える人さ」

「見える人?」

 見えるって、わざわざ言うようなことだろうか。普通見えるだろうとランガは不思議に思った。

 察して暦が補足する。

「〈視える人〉って言うのは、幽霊とか妖怪とかが見えるってことだ」

「ゴースト?」

 困惑の表情を隠せないランガの耳に暦は、口を寄せた。

「気にすんな。迷信だよ。迷信。そんな非科学的なこと、俺はちっとも信じていないからな」

 ごく小さなヒソヒソ声だった。お祖母さんや大城さんに聞かれたくないらしい。

「失礼なこと言うね。オバアの恩人よ。暦も赤ん坊のとき世話になったのに、覚えてないわけ?」

 それでも母親には聞こえてしまったらしく、叱られ暦は肩をすくめた。

「覚えてるわけねーだろ」

 ふたりの顔を交互に見た。どうしたらいいんだろう。

「少しだけ話を聞いてあげてくれない? ランガくんのこと、とても気になっているみたい。大城さんサーダカーね。すごい能力があって本当はユタにもなれるんだけど、ユタと名乗ることを嫌がってね。だから、話聞いて悪いことはないと思うよ」

 サーダカー? ユタ? 立て続けに聞いたことのない言葉が飛び出してくる。

「オカア、もう少しわかりやすい言葉で説明してやって。サーダカーとかユタとか言われてランガにわかるわけないだろう」

「ああ、悪かったね。どっちも日本語というより沖縄の言葉だよ。サーダカーは霊感の強い人とか、霊能力者のこと。えーと、死んだ人と話せるとか、幽霊とか魔物とかが視える人ね。ユタはそういった霊感とかを職業にしている人って言うのかね。英語だとなんていうのかね、暦?」

「俺に振るなよ。英語だとって……うーん。そうだ!」暦は手のひらをグーで叩いた。「シャーマン」

「わかった」

 なんとなく理解した。シャーマンか。カナダの先住民族のシャーマンは受け継がれている。

 居間をチラリと見れば、大城さんと目が合った。彼女はシワが刻まれた顔にニコッと人懐っこい笑顔を浮かべ、手のひらを下に向けて日本式のハンドサインで手招きをしている。これ、カナダだと「あっちへ行け」というサインになるのだが日本では「こっちにおいで」という意味になるのは面白い。大城さんは、ごく普通の穏やかで優しそうなお婆さんだ。何となく安心して話を聞けそうな気がした。

「俺、話聞くよ」

「お、おい。ランガ、無理しなくてもいいんだぞ」

「別に無理ってことはないし」

 暦のお祖母さんがここに座りなさいというように、ぽんぽんと隣の座布団を叩いた。ランガはそれに従い、暦も渋々ランガの隣に腰を下ろす。ランガの真正面にはローテーブルを挟んで大城さんが座っていた。そしてその背後は大きく開放された掃き出し窓で、南国の花々が咲く明るい庭が見渡せる。窓から入り込む風が心地よい。

 暦のお祖母さんは、ランガと暦に「かめー」と菓子をすすめてきた。ランガはペコリと頭をさげ手作りのサータアンダギーをひとつ取る。

「いただきます」

 暦の家に遊びに行くと、お祖母さんが「かめーかめー」と食事や手作りの菓子や果物など何でもすすめてくる。「食べなさい」と言っているんだなと、今では理解している。

 ランガの顔をじっと見つめていた、大城さんが口を開いた。

「ウンジュヤーアミリカー 」

 またわからない言葉が。これ本当に日本語だろうか。ランガは助けを求めるように隣に座る暦にアイコンタクトを送った。

「多分だが、アメリカ人かって」

「カナダです」

 ランガは即否定した。

「いや、それは大きな問題じゃないというか、オバア世代には同じことというか……」

「違う国だよ」

「それはわかるんだけどさ……」

 そんなやりとりの中、お茶をのせたトレイを手に暦の母親が入ってきた。

「さんぴん茶ね。飲んで」

 皆の前にグラスを置いていく。さんぴん茶と氷が入ったグラス表面はたっぷりと結露し、付着した水滴がコースターに流れ落ちていった。こういうところに沖縄の高い湿度を感じる。

 大城さんはぶつぶつと何かを話しているのだが、やはり何を言っているのか暦にすらわからないようだった。見かねた暦の母親が通訳をしてくれた。

「ええと、ランガくんを大切に思っていた人が、すぐそばまで来ているって」

「え? それって、どういうことですか?」

 大城さんは、ランガに目をやり、くしゃっと優しげに笑った。

「すーやっさー」

 また何を言っているのかわからなかったけど、暦のお母さんがすぐに教えてくれた。

「ランガくんの……お父さんだねって」

 父さん? それより、どうして父さんが死んだことを知っているんだろう?

 それまで黙って話を聞いていた暦のお祖母さんが、察したのかランガの頭をポンポンと軽く叩いた。

「大城さんはでーじサーダカーよ」

 サーダカーは不思議な力を持つ人だとさっき聞いている。大城さんはすごいサーダカーだから知っていて当然ということなのか。

 と、そのとき、開け放たれた縁側から通り抜ける爽やかな風とともに、一羽の綺麗なチョウが迷い込んできた。チョウはなぜかランガの周りをヒラヒラと飛び回っている。

 大城さんは「あい、来たねー」とニコッと笑った。

 ランガは目の前をヒラヒラと飛び回るチョウにそっと手を近づけた。チョウがランガの手の甲に留まる。ランガがじっと見つめる中、チョウは羽をゆっくりと閉じたり広げたりを繰り返していた。まるで何かを語りかけるように。

 この感じ……いくつものイメージがパラパラとフラッシュのように切り替わっていった。

 例えば、雪山で見上げた青い空。釣りをしながら眺めるキラキラとした初夏の湖面。雪の中で作って食べたメープルタフィの甘さ。そんな幸せの記憶。隣には必ず父さんがいた。そのときの空気だ。

 チョウの中にランガに笑いかける父オリバーの面影が重なった。

「父さん……」

 無意識にぽつりと呼びかける。そんなランガを暦は心配そうにのぞき込んだ。

「大丈夫か?」

 ランガは顔を上げうなずき、大城さんの目をまっすぐに見た。

「これ……このチョウが父さんなんですか?」

 大城さんはにっこり笑って、うんうんとうなずいた。

「父さん、チョウに生まれ変わったということ?」

 大城さんは目を丸くして「あらんどーあらんどー」と、首を横に振った。どうやら違うらしい。

「ハベルー乗り物やさー」

「オカア、ランガに説明してくれない? 俺も半分くらいしか理解できていないし」

「そうだね。ハベルはチョウのことね。チョウに生まれ変わったわけじゃないって。チョウは少しの間、乗り物になってもらっているだけさね。沖縄では、良い死者のマブイはチョウや赤トンボに乗って生きている大切な人に会いにくるって言われてるよ」

 チョウやトンボや死者は、わかる。が、マブイってなんだろう?

「マブイって?」

 暦が解説してくれた。

「マブイって標準語だと魂のことだ。英語だと、えーとスピリット……いやソウルかな? でもさ、悪いマブイはバッタやカマキリやカナブンに乗り移るとか、虫からしてみたらとんだ風評被害だよな」

 その不満そうな物言いに、暦はバッタやカマキリが好きなのかなとランガは思った。

 大城さんは、ランガの手の上で羽を上下させているチョウを真剣な表情で凝視している。

「ありまーくりゃアミリカグでや分からねー」

 大城さんは申し訳なさそうな顔をしてランガに謝った。

「ワッサイビーン」

 暦のお母さんがすかさず通訳してくれた。

「大城さんが言うには、チョウが何かしゃべっているけど英語だから何を言っているのかわからない。ごめんなさいって。チョウは何かをランガくんに伝えたいみたいねえ」

「うん、いいよ。なんとなくわかるから」

 ランガは胸に手を当てた。そう、父さんはここにいる。言葉にしなくても思いは伝わってくる。胸がぼうっとあたたかい。

「アキサミヨー」と、突然大城さんが素っ頓狂な声を上げた。

「くれー日本語やっさー。きさから何度もむにーこと言っちょーさ」

 大城さんは目を閉じ、ゆっくりと一文字ずつ区切りながら、その言葉を声にした。

「ア、イ、シ、テ、ル。イ、ツ、デ、モ、ソ、バ、ニ、イ、ル、ヨ」

 ——愛している。いつでもそばにいるよ。

 ふと懐かしいオードトワレの匂いを嗅いだ。続いてあたたかい手のひらに両頬を包まれ、そっと額にキスをしてくる。その唇の感触まで。

 父さん……。

 目を伏せた。目頭が熱くなる。ランガは唇を噛み涙をこらえた。


 ランガの父オリバーは、菜々子から日本語を教えてもらっていた。でも日常的に使っていていたわけではなく、きちんと勉強もしていない。たどたどしい日常会話ができるくらいのレベルだった。いくつかのフレーズを、これは何て言えばいいのかと菜々子に聞いて、丸暗記していた。その中でもお気に入りの言葉がいくつかあった。

 ——愛してる。いつでもそばにいるよ。

 この言葉もそうだった。仕事で少し長めに家を留守にするとき、ランガと菜々子を交互に抱きしめながらこの言葉を口にしていた。

 やがて、チョウは大きく羽ばたきランガの手から離れていった。ランガは思わず「父さん!」と叫んだ。

「すーやハベルから離れたよ」

 ランガの父はチョウから離れていったと大城さんは言っている。チョウはそのまま縁側から外へと飛んでいった。父さんは伝えたいこと全てを伝え終え、チョウを解放したのだろう。ランガはそう解釈した。

「また会えるかな」

 ぽつりと言えば、大城さんはうんうんと首を縦に振りニコッと笑う。

「会えるよー」

 ランガは大城さんに頭を下げた。

「ありがとうございました」

「気んかいしなくていいねー」

「大城さん、気にしなくていいって」

 暦のお母さんが伝えてくれたけど、なんとなく通じていた。

 心から感謝した。大城さんと、大城さんに会わせてくれた暦のお祖母さんとお母さん、そして暦に。


 居間から出て、暦の部屋に入っていった。

「おい、ランガ。大丈夫か? なんか悪かったな。おかしなことに巻き込んじゃったみたいで。どうもうちのオバアもオカアも迷信深くて恥ずかしいよ。ユタだのサーダカーだのマブイだの。もう何バカ言ってんだか」

「暦は信じていないの?」

「俺は幽霊とか超常現象的なものは信じてねーよ」

「へえ、その割に宮古では怖がっていただろ」

「あ、あれはだな! えーと、その……」

 暦はなぜかしどろもどろになっている。

 ああ、なるほど、とランガは合点した。暦は怖がりだ。だからこそ幽霊なんていないと自分に言い聞かせているのだろう。

 ランガはクスッと笑う。

「いいよ、もう。暦が幽霊とか信じていないって、わかったから」

 笑いをこらえながら言えば、暦はふいっと目を逸らした。

「別に信じていないわけでもないんだ」と気まずそうにボリボリと頬を掻いている。

 ランガはわざとらしく驚いて見せた。

「へえ、そうだったんだ」

「まあな」

「そっか。暦はそういうの信じていないって聞いていたから黙っていたけど、トーナメントの決勝戦で崖を滑ったとき、俺、父さんに会ったんだ。父さん『楽しんでいるか?』と聞いてきたから『もちろんだよ、父さん』って答えた。でもあれっきり父さん俺の前に現れてくれなくて……。そうしたらだんだん自信がなくなっちゃって。父さんに会ったというのは幻覚だったのかなって。でも今日わかったよ。大城さんが教えてくれたんだ。顔が見えなくても声が聞こえなくても、父さんはいつでも俺と母さんのそばにいるって」

 暦は神妙な顔でランガの両肩をがしっと掴むと正面で向かい合い、真っすぐランガを見る。二人の視線が静かに交わった。

「よかったな。父さんに会えて」

 こういうときの暦の声は、耳に優しく響く。

「ありがとう、暦」

 暦は両腕を上げ、大きく伸びをした。

「さーて、少し予定が狂ったけど滑りにいくか」

「うん、行こう」


 ふたりスケートボードを抱え、玄関を出たところで、暦のお母さんに呼び止められた。

「暦、ちょっといい?」

「なんだよ」

 ランガはふたりの会話が聞こえないところまで移動して暦を待つことにした。やがて話し終えた暦はランガの近くまで走り寄ってくる。

「お母さん、何か用事でもあったんじゃないの?」

「大したことじゃないから、大丈夫。気にすんな」

「ならいいけど」

「じゃあ、パークへ行くぞ。そこまで競争だ! 負けた方がジュースおごりな!」

 そう言うなり暦は、ボードに足を乗せ勢いよく地面を蹴った。

「ちょっと、ずるい。待って暦!」

 ランガも慌ててボードを地面に置いた。

「待ってって言われて待つやつなんていねーよ」

 ふたりは楽しげな笑い声を響かせ、パークへと急いだ。


 さて、以下は蛇足である。

 暦が母親から呼び止められ、交わされた会話の内容について少し説明しておこう。このことはもちろんランガは知らないし、これからも知ることはない。


「暦、ちょっといい?」

「なんだよ」

「あれから大城さんが教えてくれたことがあったのよ。ランガくんにイチジャマが憑いてるって」

「イチジャマって?」

「生霊のことね」

「なんだそりゃ、ヤバイじゃねーか。あいつなんか恨みを買うようなことしたんかな?」

「大城さんが言うにはね、そんな悪い生霊じゃないよって」

「悪くない?」

「そう。ランガくんが心配で守りたくてという、ランガくんを思う心が生霊となって常に見守っているらしいよ。親が幼い子供に向かって飛ばすようなものだって」

「じゃあ、いいんじゃね? ランガの母さんが心配性なだけってことだろ?」

「それがね。その生霊、男だって。だから少し気になってねー」

「へ? 男?」

「暦やランガくんよりずっと歳は上だけど、まだ若い男。赤い男で赤い薔薇の花束を持っているんだってさ。なんか不気味よね? 大城さんは心配しないでも大丈夫だって言ってくれるけど……。それにこういったイチジャマって本人も意識して飛ばしているわけじゃないから、例え相手が誰だかわかっても、説得してやめさせることのできるものじゃないってさ」

 嫌な予感がした。

「……」

「だから、ふたりに話すかどうか迷ったんだけど。一応ね」

 言うだけ言うと、オカアは家の中へと入っていった。

 頭が重いような気がするのだが、多分気のせいではないだろう。該当する男など、日本中探したとしても見つかるのはひとりだけだ。

 そう、間違いない。

 目を閉じればまぶたの裏に浮かんでくる。仮面をつけた赤いマタドール姿の男が唇の端を吊り上げ邪悪に——もちろん暦の主観でだが——笑っていた。