With lunar rays as wings

1

 満月の夜を選んだ。

 なぜならその廃鉱山には街灯などなく、満月でもなければただ漆黒の闇が広がるだけなのだ。初見のコースだ。さすがにそんな暗闇の中を滑るのは危険すぎる。せめて月明かりがほしい。そう愛之介は考えた。


 あと少しで高校二年に進級という春休み。

 中高一貫であるエスカレータ式の私立学校は、高校へ進学したところで顔ぶれもあまり変わらない。退屈な高校生活一年目だった。それでも勉学に励み神道家の名に恥じぬ成績を収め、学科だけではなく、何事においても常に学内トップであることは、神道家の跡取りとして当然の責務だった。

 愛されるためにはそれが必須だったのだ。トップの成績をとったところで嬉しいと思ったことはない。当然のことだったからだ。

 そんな愛之介の気晴らしはスケートだった。愛之介にとって窮屈な神道家の中にいて、スケートだけが唯一の〈楽しい〉と言える遊びだった。スケートはひとりで滑るか、スケートを教えてくれた忠と滑る。忠以外の連中と滑ろうという発想にはならなかった。能力差がありすぎて交流する気にもならなかった。

 忠は愛之介より二歳年上で神道家使用人の息子だ。友達というのとは違うのかもしれない。それでも愛之介にとってはスケートの師であり幼なじみだ。何より唯一心を許せる相手だった。

 あのとき、忠が「一緒に滑りませんか?」と言ってくれなかったら、と思うとゾッとする。忠と一緒に滑るスケートは最高に楽しい。それは嘘ではない。それでも愛之介は、何かが足りないと最近感じていた。

 これは、もしかするとマンネリだろうか。漠然と愛之介は考える。

 プールで滑ること、パークで滑ること。それらは安全である分、当然むちゃはできずヒリヒリするようなスリルや興奮とは無縁だ。

 そんなタイミングで、進学する大学も決まり高校卒業を控えた忠が、運転免許を取ったという。というより愛之介の父親である愛一郎に取らされた。忠は高校を卒業し大学進学と同時に国会議員である愛一郎の秘書となる予定だ。秘書といっても忠はまだ学生。当然私設秘書であり、雑務をやらせるためのアルバイトだ。

 それでもそんな仕事を神道家使用人の息子でしかない大学生に修行を兼ねてやらせようというのは、将来を見越して彼に大きな期待を愛一郎がかけていたからだった。

 これからも、息子愛之介の代になっても、変わることなく神道家に仕え、役立つ人間であれと。


 ある日、そんな忠に愛之介は言った。

「忠、免許取ったんだよね? 今度、車に乗せてくれない? 連れて行ってほしいところがあるんだ。こっそり」

 帰り支度の手を止め、忠は顔を上げた。

「それでしたら大旦那さま……いえ神道先生の許可をとっていただければ」

「先生? 秘書の予行演習?」と愛之介はくすくす笑う。

「人前で大旦那様や愛一郎様、では示しが付かないから、そう呼ぶようにと」

「そっか。あのさ、僕はこっそりって言ったよ。許可をもらえるようなところなら、そんな言い方しないだろう?」

「それはそうですが」

「大丈夫、バレても僕が脅したとか騙したとか、適当な理由考えて、忠の責任にはしないようにする。頼むよ」

 忠は「ふぅー」と息を吐き、困ったように宙を見た。

「仕方ないですね」

「ありがとう忠。恩に切る」

 二人の目が合った。愛之介がいたずらっぽく笑えば忠の口元も緩んだ。


「愛之介様。こちらでよろしいのですか?」

 忠が愛之介に命じられた目的地は、神道家所有の廃鉱山だった。ここは閉山してからそこそこ時間がたつ。こんなところに何の用事が? と忠が怪訝に思うのは当然だろう。愛之介がわざわざ父親や伯母たちに内緒で連れていけなどと言い出すのは、スケート絡み以外考えらえれないのだが、ここは廃鉱山だ。一般的に考えて、とてもスケートに適している場所ではない。

「忠はこの場所で待っていて。印つけてあるから」

 そう伝え、愛之介は地図を忠に渡した。

「ここで落ちあおう」と愛之介は地図の丸印を指し、スケートボードを抱えた。

 車のドアに手をかけた愛之介を、忠は慌てて制止した。

「お待ちください。愛之介様、まさかここで滑るつもりなのですか?」

「決まっているだろう? 僕がスケート以外の目的でどこか連れて行けなんて言うわけないじゃないか」

「それはそうですが、いえ、いけません。危険です。愛之介様がおけがでもされれば、私が大旦那様の……」

 焦る忠を愛之介は遮った。

「心配するな忠。今日は下見だからむちゃなことはしないよ。ゆっくりと滑ってコースの確認をするだけだ。忠は伯母や父からも僕の面倒を見るという建前の監視を命じられているんだろう?」

「そ、それは……」

 忠は困ったように言い淀み俯いた。その気まずそうな様子に愛之介は、フッと笑った。

「いいよ、別に。忠には忠の立場があるんだし。それに忠は、何があってもいつでも僕の一番の味方だって知っているから。だからさ、もう少し僕のことを信用してほしいな」

 忠は諦めたようにため息をつき、愛之介の目を真っすぐ見た。

「十分気をつけてください。整備されていない道にはどのような障害物があるかわかりません。崖崩れの可能性もあります」

「わかった。忠には迷惑をかけない。約束する」

「はい。くれぐれもお気をつけて」

「ありがとう、忠」

 パタンと車のドアを閉めた。

 愛之介は施錠を解除し朽ちかけた塀に飛び乗り、廃鉱山の中へと足を踏みれた。


 前もってこの廃鉱山の地形や構造は調べてある。このゲートからの道は下り坂だ。整備さえすればダウンヒルスケートボードのコースとして利用できる。

 夜空を見上げれば、明るい満月に雲がかかりはじめているが、真っ暗闇にならなければ問題ない。このくらいの明るさがあれば十分だ。

 ボードを置き足を乗せ慎重に地面を蹴り、滑り出す。

 忠との約束だ。むちゃはするな、と自分自身に言い聞かせ、はやる気持ちを抑える。それでも徐々にスピードは上がっていく。コースは荒れていたが、大きな問題があるとは感じなかった。

 最初のコーナーに差し掛かったときだった。頭上から降り注いでいた月明かりが遮られ、目の前に影が落ちた。思わず夜空を仰げば、何かが空中で翼を広げていた。

 天使?

 その天使が目の前に落ちてきた。ではなくてストンと着地した。それと同時にクルリとターンし愛之介と向かい合った。

 彼が蹴り上げ掴んだものはスケートボードだった。よく見れば白いシャツに細身のジーンズとスニーカー。この薄闇でもわかる抜けるように白い肌と水色の髪、青い瞳。欧米からの観光客? いずれにしろ天使でも宇宙人でもなく、普通に人間。愛之介と同じ年頃の少年であることが見てとれた。

 夜空を見上げれば月に分厚い雲がかかりその切間から光の筋が放射状に伸びていた。それを翼と錯覚していたのか。人がいるはずがないという思い込みからか、よりによって天使とは馬鹿馬鹿しい。

 その現象を月の薄明光線〈lunar rays〉という。太陽の薄明光線は天使の梯子と呼ばれているのだが、もちろん愛之介はそんなことなど知らない。

 愛之介も彼の目の前でピタリと止まり真っ正面で向き合った。

 視線が交わった次の瞬間、その少年は目を大きく見開き「アダム!」と叫ぶように言った。

 愛之介は眉を顰める。

「アダム?」

 誰だそれは。少年はバツが悪そうに目を伏せた。

「あ、ごめん。似ているように見えたからつい」

 どうやら日本語は話せるらしく、ホッと胸を撫で下ろす。

「僕に似ているやつがいるのか」

「アダムはもっとずっと歳が上だったよね?」

 なぜそこで同意を求める? まるでそのアダムを僕が知っている前提だ、と愛之介は疑問に思った。

「そもそもアダムって誰だ? その名前、日本人じゃないのか」

「日本人だけど、アダムは本名じゃないよ。そう名乗っているだけ」

「日本人なのか」

 アダムと名乗るなど 外国かぶれなのかカッコつけているのか。恥ずかしいだろうが。

「えっと、愛抱夢を知らないってことは、最近Sに参加するようになったの?」

「Sって?」

「Sを知らない? じゃあ紛れ込んじゃったのかな?」

 紛れ込んだって不法侵入はそっちだろうが。どうも話が噛み合わない。

「それより、君は何者なんだ?」

「俺? スケーターだよ。あ、それより暦を待たせられない。詳しい自己紹介は皆と合流してからにして、そこまで一緒に滑ろう」

「一緒に?」

「うん、ひとりで滑っても楽しくないし。あなたと滑ってみたい」

「ひとりだと楽しくない? 僕は大抵ひとりで滑っている。たまに忠と一緒に滑るけど」

 忠以外の誰かと滑ったことはない。

「スケートはたくさんの仲間と滑った方が楽しいよ」

 仲間? そんなものはいない。

 そもそも同年代のスケーターなど技術的にも話にならず、一緒に滑ってもつまらななそうに思えた。今、ともに滑れるのは忠くらいだ。その忠だっていつも一緒にすべれるわけではない。

 彼が高三になり受験勉強に本腰を入れるようになってから一緒に滑るどころか顔もあまり合わせられなくなった。進学先が決まった今、やっと少し時間が取れるようになったくらいだ。大学生と父親の秘書を兼任するようになれば、ますます一緒に滑る機会は減ってしまうだろう。

 別にそんなことは納得しているし、忠とふたりで滑っていたのが、ひとりで滑ることになっても、どうってことはない。別に寂しいわけではない。

「仲間なんていないし、必要ない」

 彼は、目を丸くしてじっと愛之介の顔を覗き込んだ。

「俺も昔はそう思っていたんだけど、スケートをずっとやっていた暦——友達だよ——に出会って一緒に滑るようになって、他にもたくさんのスケート仲間ができた。みんなと滑るのは楽しいんだ」

「下手くそと滑っても楽しくないだろう」

「俺が初心者で暦に基本を教えてもらっていたころ、俺、下手だったけど暦は一緒に滑れて楽しいって言ってくれた」

「そんなものなのか?」

「そりゃ、すごいスケーターと滑るのはヒリヒリしてすっごく楽しいしドキドキするけど、それとは違う楽しさなんだ。だから……」彼はスッと愛之介に向かって手を差し出した。

「一緒に滑ろう」

 月明かりを受け目を輝かせている。吸い込まれそうな青がきらめく。愛之介はゆっくりと頷いた。


 ふたり並び同時にスタートを切った。

 最初は慎重に、お互い相手のスケートテクニックを見極めようとするかのように様子を窺いつつ、無難なスピードでしばし滑っていく。やがて少しずつスピードが乗ってくる。並んで滑走しながら、ふたりとも本気の滑りへと、意識を集中させていった。

 こいつ、自分と同等かそれ以上だ。でも、この僕が負けるはずがない。

 忠との約束は愛之介の脳内から軽く消し飛んでいた。フルスロットルで加速に入る。

 楽しい。トクントクンと心臓が激しく鳴っていた。かつてないほど興奮していることがわかる。

 風を切る。なんて気持ちがいいのだろう。これなら忠がいなくても、彼と滑ることができるのなら。

 コーナーが見えてきた。抜きつ抜かれつつを繰り返し、ヒートアップしていく。先にあのコーナーを抜けるのは僕か、それとも彼か。一瞬の攻防。愛之介がわずかに遅れ、彼が先にコーナーへと突っ込んでいった。愛之介も食らいつく。直線に入ったら抜いてやる。

 コーナーを抜け、前方に視界がパッと開けた。

 え?

 いない。がらんとして人影ひとつ見えない。あの少年の姿は、どこにもなかった。

 バカな。ここからストレートの下り坂だ。崖もないのだからミスして滑落したとは考えにくい。こんな一瞬で消えるなんて、そんなことあり得ない。

 愛之介は呆然として、しばし、その場に立ち竦んでいた。夜空を仰げば、雲を抜けた満月が眩しく輝いていた。


 あの少年は何者だったんだろう。本当に生身の人間だったのか。

 月を背に、翼に似た光芒を広げ高く飛ぶ姿は美しかった。それは焦がれずにはいられないほどの。また会えるだろうか。会いたい。君に会いたい。

2

 彼がいない。

 コーナを抜けたランガは、すぐ後ろにピタリとついてきていたはずの少年が姿を見せないことを不審に思った。問題のコーナーまで引き返し後方を確認する。

 やはりあの少年はいなかった。

 コーナーへ突っ込んで行ったのは僅差でランガの方が先だったとはいえ、ほぼ同時のタイミングだった。それなのに、彼らしき人影は見られない。それより誰もいなかったはずなのに、スケーターたちが、パラパラといるではないか。レースに夢中で見落としていたのだろうか。そのスケーターたちの中に混じり暦がいることをにランガは気がついた。暦はコース斜面の上方をじっと見つめている。

「暦! 何しているんだ?」

 ランガの声に暦は振り返り目を丸くした。

「あれ? ランガか? おまえを待っていたのに決まっているだろう。ここ通らず、またよくわからないショートカットでも見つけたのか?」

「そんなわけないだろう」

「それなら、いつ俺の前を通り過ぎていったんだ?」

「たった今だよ。暦、寝ていたんじゃないの? それより俺とほぼ同時くらいにコーナー突っ込んだやつがいたはずなんだけど。どこ行ったか知らない? ふたりで勝負していたんだ」

「はあ? そんなスピード出していたやつなんてここ通ってないぜ。おまえ滑りながら寝ていて夢見てたんじゃねーの? 器用なやつだな」

「そんなわけないだろ。暦こそ俺が前を通り過ぎたの気がつかないなんて、寝ぼけていたんじゃないのか?」

「まあ、それを言われると。って、そいつ、どんなやつなんだ?」

「Sのことは知らないみたいで、間違って紛れ込んでしまったのかな。愛抱夢に似ていたような気がした」

「げっ! あいつにか?」

 思いっきり嫌そうな顔をしている暦に、ランガはクスッと笑う。

 きっとそこまで愛抱夢が嫌いって訳ではないのだろう。きっと意地になっているだけなんだ。もっとも、それを言ったら愛抱夢も同じだけど。

「よく見たら俺たちくらいの年齢だから全然違う人」

「へえ、じゃあ高校生くらいなのか」

「うん。それがさ、すごくいい滑りだったんだ。一緒に滑って、とてもドキドキして楽しかったんだ。これからも一緒に滑りたいって思ったんだけどな」

 あの滑り……愛抱夢に似ていた。今の愛抱夢よりずっと荒削りだったけど。もしかして兄弟とか親戚だったりして。今度聞いてみよう。

「もしかして、そいつユーリーかもな」

「ユーリー?」

「幽霊だ! 冗談だから気にするな。ま、そんな上手いやつなら噂になるだろうし、そのうち会えるだろう。おまえが寝ぼけてたんじゃなければな」

「うーん」

 ランガは首を捻り、しばし考える。

 あれは現実だったのだろうか。暦の言うとおり、滑りながら寝ていて、夢でも見ていた?

 暦と話しているうちに記憶が曖昧になっていくことがわかった。目覚めた直後にはっきりと覚えていた夢が、覚醒し活動を始めると消えてしまうように。

 今、思い出そうとしてもぼんやりとしたイメージが浮かぶだけだった。顔も声も、何を話したかも。

 目を閉じれば薄闇の中でもそれとわかる深紅の瞳が浮かぶ。だが、それは愛抱夢に似ているという印象から〈赤〉だと思い込んでいる、つまり記憶を改変しているのかもしれない。自分の記憶に自信が持てなかった。

「まあ、いいや。ここからゴールまで一緒に滑ろうぜ、ランガ」

「わかった。競争だ」

 スタート前にランガは夜空を仰ぐ。中空に浮かんだ満月が銀色に輝いていた。眩しさに目を細める。

(愛抱夢と滑りたいな)

 なぜか愛抱夢と滑りたいと思った。でも今夜は来れないと聞いている。滑れないとなると、その気持ちはますます強くなりランガの胸を焦がした。

3

「愛之介様? どうかされました?」 

 助手席で黙り込みぼんやりと窓の外を眺める愛之介に忠は声をかけた。

 愛之介は、先ほど出会ったスケーターの少年について考えていた。だが忠に話すことはやめておいたほうが無難だろう。話したところで理解させることが難しい。まして一瞬で消えてしまったなどと言えば、忠は心配するだろう。主に愛之介の精神状態を。そうなると色々と面倒だ。

「あ、悪い。この廃鉱山に誰かが入り込んだ形跡はあるか?」

「どうでしょう。侵入することは不可能ではありませんから絶対とはいえませんが、難しいのではないでしょうか。愛之介様が入られたときには鍵がかけられていましたし、こちらの出口もきちんと施錠されていました。それに誰も見かけませんでした」

「そうだな」

 確か、彼は仲間と来ていると言っていた。なら集団でこの廃鉱山近辺にスケーターたちがいるということになる。スケートボードを抱えた集団なら目立つはずだ。しかも目指すゴール地点は愛之介とほぼ一緒。忠の待つ出口付近のようなことを言っていた。目撃していても不思議はないのだが、忠は誰も見かけなかったという。

 忠とそんなやりとりをしているうちに、どう考えても非現実的だと思うようになっていた。大体、あんなふうに一瞬で消えてしまうなんて幽霊だと言ってくれたほうが説得力がある。あるいは、別世界軸の二人が、一瞬だけ交錯し夢幻の中で邂逅したと。

 目を閉じ彼の滑りを脳内に描いた。

 あのスピード。安定感。全身バネのような体。印象的な滑りだった。なのに妙にリアリティのないものに感じられた。


 その晩、愛之介は少年の夢を見た。

 ——この前の続きだね。一緒に滑ろう。

 涼やかな声が耳の奥で心地よく響いた。


 朝、目覚めると淡い幻影だけが残った。

 こうなってくると、どこまでが現実でどこからが夢なのか、もうわからない。彼と出会い、あの廃鉱山で一緒に滑ったことが、すべて幻覚だったのかもしれないと。

 抜きつ抜かれつ滑ったこと、交わした言葉。彼の髪の色や瞳の色、声音が思い出せない。

 それから数日の後には、愛之介の中でその少年の記憶はほとんど消えていた。

 それでも、強く心を揺さぶられた〈何か〉が漠然と胸に留まり燻り続けた。

4

 春休みも終わり新学期を迎えた。退屈な学校生活がまた始まる。

「おはよう! 神道。また同じクラスになったな」

「おはよう。ああ、また一年よろしくな」

 新しいクラスメイトたち——ほとんど知った顔だが——と、お決まりの挨拶を交わした。優等生神道愛之介として爽やかな笑顔を向けて。

 

 授業終了時間となり、昇降口から外へ出たとき愛之介はある生徒から声をかけられた。

「神道くんだよね?」

 この人は、この学校の生徒なら知らないやつなどいない。なんせ生徒会長だ。そんな会長が自分に何の用事だろうと、愛之介は愛想の良い笑顔を作りつつ警戒した。

「はい。何でしょう」

「少しいいかな? 歩きながら話そう。家の方角こっちだったと思うけど。大丈夫かな?」

「はい。問題ありません」

 そして彼はいきなり、切り出した。

「君、スケートボードやっているよね?」

 ギョッとした。なぜ知っているのだろう。学校関係者に知られることはないと思っていたのだが。そのことでなんらかの脅しをかけようというのか? いやさすがにスケートが脅しのネタになるはずはない。

 バレているのなら変に誤魔化すより肯定しておいたほうがいいだろう。動揺をにっこり笑顔で隠す。

「軽い趣味ですが。それがどうかしましたか?」

「そうか。実は僕もなんだ」

 予想外の返答に、愛之介は目を大きく見開き、隣を歩く会長の顔を凝視した。

「会長もですか?」

 まさか生徒会長が、スケーターだったとは。世間は狭い。こんなつまらない学校にもスケーターがいるとは、ちょっとした衝撃だった。

「君のことはパークで見かけてね、目深にフードを被っていたから、最初、確信を持てなかったんだけど、もしかしてと思ったんだ。やはり神道くんだったんだね」

 しっかり変装したつもりだったのに、バレていた?

「それで、僕はちょっとしたチームをつくって滑っているんだ。他のチームと勝負したりする。喧嘩じゃないよ。夜にね。まあ大人から見れば不良であることには変わらない」

 そう言って、生徒会長はふふふと笑った。

 驚いた。この絵に描いたような品行方正成績優秀な生徒会長がスケーター?

「そんなこと、僕にバラしていいんですか?」

「いいも悪いも、君もスケーターじゃないか」

「まあ、そうですけど」

「さて、本題だ。そのチームに君も入ってくれないかなと思って。僕もそろそろ大学受験に備え忙しくなる。滑る時間は前より取れなくなっていく。チームでこの学校の生徒は僕一人だ。他は他校生。一応僕がリーダーみたいなものだから、あまり顔を出せなくなると少し心配なんだ」

「なんで、僕に頼むんですか?」

「パークで君の滑りを見せてもらったよ。素晴らしかった」

「それはどうも」

「君になら任せられるかなと思って。それと君はいつもひとりだってことも気になった。一緒に滑る仲間はいないの?」

 仲間——〈仲間〉という言葉に少し引っかかった。もちろん仲間などいないし、そんなもの必要だと思ったこともない。

「そんなものいません」

「ふむ」と先輩は顎に指を当て、何か思案しているようだった。そして続けた。

「あのさ、君はもしかして自分より下手なやつと滑ってもつまらないとか思っていない? ほら、神道くんよりうまいやつなんて、いそうもないし」

「そんなこと……」と言いかけるものの図星だった。愛之介は目を伏せた。

「神道くん、君は楽しそうに滑っていた。でもどこか寂しそうにも見えたんだ。僕の思い過ごしだったらすまない。誰かと滑るのは、ひとりで滑るのと違う楽しさがある。他のチームと勝負するのもね。一度、試しに参加してみないか? それでつまらないと思ったのなら、やめればいい。仲間と滑った方が楽しいよ」

 耳の奥で誰かの声が響いた。

 ——仲間と滑った方が楽しいよ。

 この声は、誰だ? 思い出せないのに奇妙な懐かしさを覚えた。

 生徒会長は続ける。

「もちろん君には君の都合もあるだろう。だから無理にとは言わない。少し考えておいてくれないかな」

「はい」と愛之介は素直に返事をしていた。

 そんな自分に驚く。

 なぜだろう。いつもの神道愛之介ならば、温和な笑みを崩さず残念そうなふりをして、もっともらしい都合をでっち上げ、速攻で断っていただろう。

 仲間など、欲しいと思ったことはない。皆と滑るスケートを羨ましいと思ったことなどなかった。そのはずなのに、どうして。


 その日の夜、愛之介は神道家で打ち合わせを終えた忠と取り止めのない雑談をしていた。ひと通り、大学についての話題が終わったタイミングで、愛之介は今日生徒会長からの誘いを忠に相談することにした。

「忠は僕以外の誰かと一緒にスケートしたりする?」

「今は、時間が取れませんが、前はちょくちょくしましたね」

 今まで気にしたことはなかったけれど、当然といえば当然だ。忠には忠の付き合いがあるのだから。

「スケート仲間?」

「まあ、そんな感じでしょうか」

「それって、楽しい?」

「そうですね。ひとりで滑ったり、愛之介様と一緒に滑るというのと、また違う楽しさがあります。どうかされました?」

「うん、今日、同じ高校の先輩から一緒に滑ろうと誘われた。まだ保留にしてある」

「そうですか。それでどう返事をされるつもりですか?」

「それで、忠に相談しているんだよ」

「実は気になっていました」

「何が?」

「愛之介様はひとりで滑るか、私と滑るかのどちらかでしたから。今は私が滑る時間を割くことが難しくて、申し訳ないです」

「そんなの気にしなくていいよ。今の忠は大学生と秘書とどちらもやらなくてはいけなくて、すごく忙しいって知っているから」

「ありがとうございます。それで、ちょうど一緒に滑ることのできるお友達がいらっしゃればいいのにと思っていたんです。ただ、スケートをする若者は〈不良〉と呼ばれるような連中も多くて、言い出せずにいました。愛之介様と同じ高校のかたでしたら、間違いなさそうですね」

「品行方正、成績優秀な生徒会長なんだ。驚きだろう?」

「まあ、それを言ったら、愛之介様がスケーターだということも驚きだと思いますよ」

「なら、忠もだね」

「そうですか? それでどうしますか?」

「うん決めたよ。試しに参加してみることにする。合わないと思えばやめればいいだけだ」

「いいと思いますよ。ただ、けがなどなさらないよう注意してください」

「わかっている。気をつける」

 背中を押してくれたのは忠だった。


 夜、指定された場所へ赴けば、生徒会長が両腕を広げ歓迎してくれた。

「来てくれて嬉しいよ。それで、自己紹介だけど、本名を言う必要はないからね。皆それぞれ事情はある。適当にスケーターとして名乗る名前を考えて」

 確かに〈神道〉の名を出すのはまずい。沖縄ではほとんど耳にしないだろう姓だ。簡単に国会議員〈神道愛一郎〉と結びつけられ身バレしかねない。それでも前もってニックネームを考えておくようにと教えておいてほしかった。

「偽名ってことですね」

「そう、芸名というかペンネームというかニックネームというか」

「では会長はなんて名乗っているんですか?」

「そりゃ、もちろん〈カイチョー〉だ」

 愛之介は思わず吹き出した。

「まんまじゃないですか」

「呼びやすければなんでもいいんだ。ポチでもタマでも」

「はい」

 呼びやすい名前ね。さすがにポチ、タマは避けたい。……困った。

「おーい、みんな、集まってくれ」

 会長が片手を上げ、呼び掛ければ気ままに滑っていたスケーターたちが集まってくる。

「新しい仲間を紹介する。いや、仲間になるかもしれないスケーターだな。今日のところは、まだ」

 紹介されて一歩前へ出る。

「名前は……」どうしよう。何も思いつかない。なんでもいい。適当に呼びやすい名前にすれば……と、そのとき耳の奥で、またあの声が響いた。

 ——アダム

 次の瞬間、反射的にその名前を口にしていた。

「アダムだ。よろしく」

「よろしくな、アダム」

 スケーターたちが次々と自己紹介をはじめた。

 新鮮で、刺激的な夜だった。


 それから度々連中と滑った。会長は受験勉強で忙しくなり、ほとんど顔を出せなくなっていた。

 愛之介より技術も経験も浅いスケーターばかりだった。そんなスケーターと滑るなんて退屈なのだろうと思っていたのだが、意外にもそうではなかった。自分のアドバイスで上達していく仲間を見ているのは気持ちがいい。素直に嬉しいと思った。

 そうか、忠は初心者の自分にスケートを教え滑れるようになっていくことを、こんな気持ちで喜んでくれていたのか。そんなどうでもいいことをひとつ知ったような気がした。

5

 楽しい毎日がはじまり、そんなある夜、あいつらに出会った。

 違うチーム。お互い、どちらかということもなく勝負を挑んだ。勝敗はトリックの数、難易度で決めているのだが、揉めることはない。高難度のトリックを決めれば、敵味方関係なく興奮し盛り上がり、称賛する。

 相手チームの中に、例のふたりがいた。

「すごいな、おまえ」と緑髪が声をかけてきた。

「どうも」

「自己紹介まだだったな俺はジョー。そんでもって、こいつはチェリー」

 親指でグイッと後ろにいるピンク髪を指した。

「おい、勝手にその名前で紹介するな! 俺はそんなニックネーム認めていないぞ」

「何言ってるんだよ。おまえのことみなチェリー以外の名で呼ぶやつなんて、いないだろうが。おまえもそれで返事するし。もう定着したんだよ、諦めろ」

「ふざけるな! いまからでも変えろ」

 ギャーギャー言い争いが始まる。どう見ても喧嘩というよりじゃれているようにしか見えない。

「チェリーは無視してと。おまえのこと、なんて呼べばいい?」

「アダムだ」

 この名が自然に口から出るようになってしまった。自分でもなぜこんな名前が唐突に思いついたのか不思議だった。欧米では今でも人気のある男児の名前だというが、日本人がそれを名乗るのは少々おかしな感じがする。それでもこのニックネームにすっかりなじんでしまった。最初から誰も突っ込まない。他の名前はもう考えられない。

「そうか、よろしくな、アダム」

 差し出された手を握った。大きくてしっかりとした手だ。

「よろしく、ジョー」

「よろしく」と、続いて差し出された手を握る。どこか神経質な細く骨張った指だった。

「ああ、よろしく。チェリーでいいのか?」

「ああ。仕方ない」

 ムスッとしながらチェリーは答えた。

「なあ、アダム。嫌でなかったらでいいんだが、今度三人だけで滑らないか?」

 真剣な表情で、ジョーが提案してきた。そこへチェリーが割り込んでくる。

「おい待てよ。なんで、おまえは俺が言おうとしていたことをパクるんだよ!」

「ひでー言い掛かりだな。おまえ口に出していないんだから、言おうとしていたかどうかなんて俺が知るわけねえだろうが」

 またはじまった。このふたりはいつもこんな調子なのだろうか。

 愛之介はふと自分と忠の関係を思う。


 忠は愛之介より二歳年上だ。それなのに幼い頃から忠は、ずっと愛之介に対して敬語だった。さらに「愛之介様」と〈様〉という敬称をつけて愛之介を呼ぶ。ところが愛之介は、忠のことを「忠」と呼び捨てにしていた。今もだ。

 忠は神道家使用人の息子で、片や愛之介は神道家の嫡子だ。古臭い言い方をすれば〈主人〉と〈下僕〉の関係だ。そうである以上〈様〉を敬称としてつけ、敬語で話すことは、ごく自然なことだった。そのことに愛之介は疑問を持ったことはない。〈なぜ?〉などと深く考えたりはしない。幼い頃からそれが身に染みついているのだ。おそらく忠も。

 そんな時代錯誤の関係性に薄々疑問を持ち始めても、今更その壁を取り払うことは難しい。お互いに。いくら愛之介の中で、忠が唯一心を許せる相手であったとしても、対等な友人関係にはなり得ない。少なくても忠にその壁を壊す気はない。父である愛一郎の秘書となった今なら尚更だ。

 愛之介は忠が仕える主人の子息。これは揺るぎようのない現実だった。

 小突きあうふたりをぼんやりと眺める。羨ましいと思った。素直に感じたことを口にする。

「君たち仲良いな」

「「良かねーよ!」」

 ふたり同時に反論するが、そんなところも、やはり仲良しだ。

「幼稚園からの幼なじみというか、腐れ縁なだけだ」

 むすっとしてチェリーが説明すれば、ジョーがまた余計なことを付け足した。

「こいつ早生まれのせいか、チビで細くて弱くて泣き虫で、とにかく手がかかってな」

「泣き虫だったことはない。それに中学生になってから背は伸びただろ」

「縦にはな。ヒョロっとして弱っちいのは相変わらずだろうが」

「今はおまえの学力不足の方が手ぇかかってるってこと忘れるな」

「うるせー」

 さすがに呆れて、それでも笑いながら愛之介はふたりを止めることにした。

「ねえ君たち。その漫才いつまで続けるつもりなのかな? それよりさっきの話だけど、OKだ。一緒に滑ろう」

 ふたり同時に愛之介を見ると瞳を輝かせ「よっしゃー」とハイタッチを交わし、愛之介にもハイタッチを求めてきた。掲げた両手のひらに、パシっとふたりの手が同時に勢いよく叩きつけられた。次の瞬間、三人目を合わせて笑い合っていた。ごく自然に。


 チームで滑るとき、自分がリーダーであるという意識が節度を保たせてしまっていた。大きく羽目を外したりはできない。無意識にブレーキがかかっていた。

 しかし、チェリーやジョーたちと滑るときは、別だった。

 繰り返す狂乱の夜。大人たちが顔を顰める迷惑行為。ときには警察官をからかい、追跡を振り切った。三人で肩を組み、笑い転げた。

 チェリーもジョーも神道家のことは何も知らない。それゆえ変な先入観もなくただひとりのスケーターとして接してくれるのだ。そのことが何よりも心地よかった。ふたりと滑っているときだけは神道家から解放される。今、この瞬間だけ、神道愛之介はただのスケーター〈アダム〉でいられた。

 スケートをして、バカをやっている時間は、ひたすら自由だった。何ものにも縛られない。スケートのことだけを考えていればいい。ここはこんなにも素晴らしい。

 まさにスケートの楽園だと思えた。

 ある夜、パトカーを撒いてたどり着いた河川敷、橋下の陰で愛之介は顔を隠す目的で目深に被っていたフードを外した。薄闇の中ではあったが顔を晒した愛之介に、ジョーもチェリーも困惑し一瞬言葉を失った。顔を隠しておきたい事情が愛之介にあるのだろうと、ふたりとも詮索も立ち入ることも、今までしたことはなかった。

「アダム、フードを……」

 愛之介はふたりに顔を向けた。

「ああ、構わないさ、見られても。おまえらは〈特別〉だからな」

 はじめてできた対等な友だち。このふたりとなら、ずっと楽しく滑っていられるだろうと疑いもしなかった。そのころはまだ。

 だが、人は変わるものだ。

6

「愛之介様」

 夜、そっと家を出ようとしたとき忠に呼び止められた。

「何だ?」

「最近、夜の外出が増えたと聞いておりますが」

「別にいいだろう?」

「はい。ただ愛一郎様が、うすうす勘づいていらっしゃいます。スケートそのものには、目を瞑られてますが。あまり羽目を外されると……」

 愛之介は軽く肩をすくめた。

「忠は心配性だな。大丈夫だ」

 笑って見せたものの、その考えは甘かったと、程なくして思い知らされることになった。


 強い焦げ臭が鼻についた。木と塗料を燃やした臭い。そこには部分的に黒く炭化し、まだ燻るスケートボードが打ち捨てられていた。

「今まで目溢してやってきたが、こんな遊びそろそろ卒業しろ」

「愛一郎様」

「なんか文句でもあるのか? 忠」

「いいえ、私に意見はありません」

 ——私に意見はありません。私に意見はありません。私に意見はありません。

 耳の中で忠の声がこだました。

 何かが粉々に砕け散る音がした。


 ——一緒に滑りませんか?

 もうあの忠はいない。

 誰にも涙を見せることもできず膝を抱え、ひとり泣いていた。そんな愛之介に忠はスケートボードをおずおずと差し出した。あのときから忠は、ずっと愛之介の味方だった。一番の理解者。唯一愛之介の心に寄り添うことのできる存在。忠にとっての一番は自分なのだと、無邪気に信じ込んでいた。あの瞬間まで。

 でも今の忠は、それ以前に愛之介の父である愛一郎の秘書——従者だった。忠は主人である愛一郎に逆らうことができない。忠が優先するべき相手は愛之介ではなく愛一郎だった。

 それでも、いざとなれば神道愛一郎の秘書としての安泰より愛之介を最終的に選ぶだろう、体を張ってでも愛之介を庇うだろうと信じて疑わなかった。なんて愚かな。

 忠の一番は、もう自分ではない。そのことを思い知らされた。

 やつは主人——愛一郎に唯々諾々と従うだけの〈犬〉に成り下がったのだ。

 昔の忠は、もうどこにもいない。人は変わる。変わるものなのだ。

 ならば、あいつらも、いつか裏切るのだろうか。

7

 ジョーとチェリーの誘いを断り、ひとりで滑るために廃鉱山へと向かった。誰にも邪魔されたくなかった。

 先日試したのと違う、もう一つのコース。こちらが危険なことは百も承知。転落防止柵など張られていない崖の際を滑り降りて行く必要がある。転落したら大けがは免れない。

 愛之介がこのコースを滑ると忠が知ったら、力づくで阻止しようとするだろう。強引に押し切ることも可能だろうが、忠を心配させてしまう。そのことを理解していたからこそ、愛之介は前回このコースを選ばなかった。

 しかし、今ここに忠はいない。そう、あの男はもういないのだ。

 目指すスタート地点、頂上には一本の木が、ぽつんと風に吹かれ枝葉を揺らしていた。そこを目指しゴツゴツとした岩を踏みしめ、ゆっくりと歩を進める。

 見上げれば夜空に浮かぶのは半月。満月ほどではないが、ヘッドライトを装着すれば、なんとかなるだろう。

 目を閉じ、湿気を含んだ夜気を肺に吸い込んだ。

 せめてスケートをするときだけは、全ての抑圧から自由でいよう。神道家というしがらみから解放されてやる。もう自分を抑える必要はない。思うがまま己の欲望に任せ、ただ滑ればいい。

 目を開け、ダウンヒルコースを眺めやる。スリリングなコースだ。

 よし滑ろう。

 スタートダッシュで、いきなり最大限の加速に入った。気にしなくてはいけない相手など誰もいないのだ。ためらう理由は何ひとつとしてない。

 速く、速く、もっと、もっと。まだいける。限界は遥か先、まだ見えない。ただ滑ることだけに精神を集中させろ。


 それからも愛之介は、何度もその場所を訪れひとり滑った。

 やがて愛之介は、偶然そこに迷い込んだ。虹色に輝く、あの美しい空間に。心が歓喜に震えた。愛之介が欲したもの全てがそこにあるような気がした。

 大人の身勝手な期待を押し付けられることもない。誰にも振り回されない。裏切られる心配もない。自分を傷つけようとする人間などどこにもいない。俗世を忘れ、純粋にスケートのことだけを考えていればいい。ここは……自由だ。

 愛之介は夢中になった。

 その素晴らしい世界、楽園——エデンに。

 ところが、そこへ何度も出入りするうちに、俗世で感じる以上の強い孤独感を愛之介に突きつけてくるようになった。そこが魅力的であればあるほど「おまえはひとりぼっちだ」と。光が強くなれば闇は深くなる。のめり込めばのめり込むほど、耐え難い孤独に苛まれるようになっていった。

 しかし、今の愛之介には他者を求める勇気はなかった。人は変わる。いつか必ず裏切られる。そんなことで絶望するなんて真っ平だった。

 必要なのは、決して自分を裏切らない、自分のそばから消えてしまうことのない存在。この素晴らしい世界でともに滑り、同じ景色を共有できるスケーターなのだ。


 満月の晩だった。

 虹色の空間から俗世へと戻ってきた愛之介は、暗い空を仰いだ。月にかかる重い雲の切間から光の筋が放射状に広がり、まるで翼のように見えた。それを目にした瞬間、強烈な既視感に囚われた。

 その印象を記憶の海の中で探した。

 だめだ。まるで思い出せない。愛之介はきつく目をつぶった。

 確かにこの目で見た。光の翼を広げ優雅に軽々と飛ぶ存在を。もう一度あれに会いたい。あの天使のような……。

 天使? いや、そうではない。アダムに寄り添うべきものは天使ではなくイヴだ。アダムの肋骨から作られたイヴはアダムの一部。イヴはアダムを決して裏切らない。

 そうだ。それならイヴを探せばいい。アダムのためにだけ存在するイヴを。世界にひとりだけいるだろうイヴを必ず見つけ出してみせよう。

 イヴは、いつかこの腕の中に落ちてくる。そのとき僕は、楽園——エデンの中へと君を導き愛するだろう。

8

 夢を見ていた。長い長い夢だった。

 ——ポーン。

 機内チャイムの音にうっすら目を開けた。客室乗務員のアナウンスが続く。

〈皆様にご案内申し上げます。 この飛行機はあと30分で那覇空港に着陸いたします。那覇空港の天気は晴れ、気温は27度……〉

 もうそんな時間なのか。

〈この先15分後にベルト着用サインが点灯する見込みです……〉

 腕時計に目をやる。羽田と那覇間の三時間にわたるフライトのうち二時間以上を愛之介は熟睡していたことになる。

 日本語アナウンスが終わり、英語でのアナウンスに切り替わる。

〈Ladies & gentlemen, we will be landing at Naha Airport in about 30 minutes. The weather in Naha Airport is Sunny and temperature is 27 degree Celsius. The seatbelt sign will be……〉

 シートを起こし、ゴキゴキと強張った肩を回した。

 何か夢を見ていたような気がするが、何の夢だったのか。目を覚ました瞬間までは覚えていたはずなのだが。


 いつものように空港まで迎えにきていた秘書が、車のドアを開け頭を下げた。

「おかえりなさいませ。愛之介様。予定通りこのまま帰宅ということでよろしいでしょうか」

 羽田発那覇着の最終便、時刻はすでに二三時近くになっていた。

「気が変わった。クレイジーロックへ行く」

 忠が眉を上げる。ここのところ政務に忙殺され、寝る時間を削っていた愛之介の疲労はピークだった。今回、S参加を見送ると忠には伝えていた。

「はい。体調の方はもう大丈夫なのでしょうか」

「ああ、問題ない。飛行機の中でたっぷり二時間は寝ていたからな。疲れは取れた。用意は?」

「念のため、一式揃えてあります」

「上出来だ」

 彼に会いたい。無性に彼と滑りたいと思った。


 クレイジーロックへ到着し、廃工場のゴール地点側からS会場へと入っていった。

 予告されていなかった愛抱夢の登場に参加者たちは色めきたつ。

 愛抱夢の周辺からさっと人が退き、皆、Sの神を遠巻きにしている。まるで愛抱夢だけにスポットライトが当てられているようだった。

「おい、愛抱夢だ」

「今夜は参加しないって聞いていたけど」

「気が変わったんだろ」

「すげー、俺、今日来てよかった」

「おー、ラッキー」

 ギャラリーたちがざわめく中、愛抱夢の足元でよぎる影を視界の隅に捉えた。続いて「ランガっ!」と大声が頭上で響く。

 反射的に上方へ視線を向ければ、翼を大きく広げ飛ぶ彼が見えた。その神秘的な美しさに息を呑む。

 天使——という言葉が浮かんだ。

 分厚い雲が月を覆い隠し、その雲の切れ目から放射状に光の筋が伸びている。それはまるで彼の背中から広がる天使の双翼のように見えた。

 天使の名を呼んだ。

「ランガくん」

「愛抱夢!」

 少し離れた場所に着地したランガは、その勢いのまま愛之介——こと愛抱夢に向かって突進してきた。避けるでもなく減速するでもなく。

 構える間もなく、ドシンと強い衝撃が走り、気がつけばふたり体を折り重ねるようにして地べたに転がっていた。

 ああ、みっともない。つい見惚れてしまい反応が遅れた。これではドタバタコントだ。

 愛抱夢の胸から頭を起こしランガがうめいた。

「うっ……痛っ」

「情熱的な愛情表現だね。僕の胸に君から飛び込んできてくれるなんて嬉しいよ。ランガくん」

「ごめんなさい。今夜は来ないって聞いていて、でもなんかすごく、愛抱夢と滑りたくて仕方なかったんだ。だから、つい興奮して……」

「実は僕も同じだったよ。どうしても君と滑りたくて、我慢できなくて予定を変更した。ということで君にビーフを申し込むよ。受けてくれるかな」

「もちろん」

 そこへ赤毛が口を挟んできた。

「ちょっと待て、ランガ。俺ともう一度滑ろうって言っていただろう?」

 不満そうに口を尖らせている。ランガは困ったように肩をすくめた。

「ごめん。暦とは一回滑ったし。それに俺たち、その気になればいつでも一緒に滑れるだろう? だからさ……」

「ったく。しょうがねえな。コーラ奢りな」

「うん、わかった。ありがとう、暦」

 それから暦は愛抱夢をジロリと睨む。

「今日のところは譲ってやらあ。ひとつ貸しな」と人差し指一本を立てて突き出して見せた。

 それは恩に着せているつもりか? まったく。ランガの親友であることに感謝するんだな。

 周囲がざわつきはじめる。

「よっしゃ! 愛抱夢とスノーのビーフだ」

「こりゃ面白いことになってきたな」

「ワクワクする夜だぜ」

「どっちに賭ける? 俺は愛抱夢」

「なら俺はスノーにだな」

 ギャラリーは勝手に盛り上がっているが、まあいいだろう。

「さあ、ランガくん。勝負だ」

 愛抱夢が差し出した手を握り、ランガは頷いた。

「行こう、愛抱夢。一緒に滑ろう」


 キャップマンの車に乗り込み、スタート地点へと向かう。


 まぶたを閉じれば、軽々と飛ぶランガが、脳裏に映し出された。背景に描かれた分厚い雲の切れ目から放射状に広がる月の光芒を翼にして飛ぶ彼は、幻想的で神々しかった。

 そして、かつて同じものを見ていたことを愛之介ははっきりと理解した。

 いつどこで見たのかなんて覚えていない。記憶は失われ、これからも取り戻すことはないのだろう。それでも疑う余地はない。

 僕は君と出会うはるか昔から、君を探していた。自分が本当に求めているものも理解せず、それをイヴと名づけ闇雲に手を伸ばし見つけようとした。

 君が天使であってもイヴであっても、どちらでも構わない。君は、僕が気が遠くなるほどの長い時間焦がれ続けてきた世界にたったひとりの存在、ランガなのだから。


「愛抱夢。着いたよ」

「ん?」

 目を開けば、覗き込む青い瞳とぶつかった。

「疲れているんじゃない?」

「問題ない」

「本当に? 俺が軽く勝てちゃうようなあなたと滑るの、つまらないんだけど」

「言ってくれるね。君のそういった強気なところ実に僕好みだ」

 スタート地点に二人並んだ。レッドシグナルが点灯を開始する。五つのシグナルがすべてグリーンに変わり、フラッグが大きく振られた。

 では、誰にも追いつけない二人だけの世界へ。最高のビーフをはじめよう。