安息日

 留学先の大学が都会にあるというのは、便利かつ刺激的だった。日本ほどストリートスケーターが白い目で見られるなんてこともなく、神道家という縛りをちょくちょく忘れるくらいは、スケートもキャンパスライフも充実した毎日を過ごしていた。残念ながらイヴは見つかっていないが、それはいつか出会えると信じ気長に待つことにする。

 それでもたまに沖縄の青い海が恋しくなる。都会の雑踏を離れ、青く澄んだ海を見たい。沖縄では当たり前の風景。特に感動もない。珍しくもなんともない珊瑚礁の海。離れてみてはじめて、その美しさを知った。

 そうだ。今度の休みは実家には戻らず軽く旅行でもしよう。沖縄の実家には、見聞を広げるためとでも言っておけばいい。


 ということで愛之介はひとり旅を満喫していた。

 旅行先はカリフォルニアやフロリダにあるビーチ——の予定が、なぜかカナダの広大な自然の中に愛之介はいた。

 確かにビーチを検討していたのだが、パンフレットの写真を眺めていても、どうもピンとこない。これなら沖縄に帰ったときに近場の海に行った方がいいと思えた。そこで急遽、旅行先を変更した。どうせなら沖縄では出会えないような景色がいい。それなら北への旅行がベストだろう。

  愛之介は沖縄どころか日本本土でもなかなか見られないような、美しさと静けさに満ちたカナダの大自然に魅了されていた。

 明日には大学の寮へと戻ることになる旅行最終日、その美しい湖畔を散策していた。沖縄には、このようなスケールの大きな湖はない。あってもダム湖くらいで、こういった北の大地にある湖の趣は、決して亜熱帯の沖縄で味わうことはできない。

 カナダは、森と湖の国と言われるだけのことはあるのだ。

 この湖畔に沿って続いているロングトレイルで、ワンデイハイキング、サイクリング、バックパッキングと思い思いのアクティビティを人々は楽しんでいる。家族連れも多く、観光客も地元住民もいるのだろう。

 湖畔で釣りをしている人たちもけっこう目に付く。やはりフィッシングロッジが立ち並ぶ場所だけあって、釣りを目的に訪れる人も多いのは頷ける。

 ふと釣りをする親子連れらしき、ふたりの後ろ姿が目に入った。父親と子供なのだろう。離れていたことと後ろ姿だったこともあって、その子が男の子なのか女の子なのかはわからなかった。淡い水色とピンク色の柄の長袖シャツを着て、日除けの帽子を被っている。

 遠目から見ても親子の仲の良い様子が伝わってくる。そのふたりを覆う空気のせいだろう。その親子から目が離せなくなっていた。

 なんだろう……そこはあまりにも優しくあたたかく、愛之介にとって眩しすぎる情景で見続けることは辛いのだと気づく。

 愛之介の視線を感じたのか、子供が振り向いた。口もとに笑みを浮かべ。

 逆光の中、おそらく紫外線除けだろう目深に被った帽子と、湖面の眩しさ対策だろうサングラスをかけていたため、やはり子供の性別を判別することはできなかった。サングラス越しとはいえ、一瞬目が合ったような気がして、愛之介は慌てて親子から視線を逸らし、その場を足速に立ち去った。

 そうか。あれは過去自分に与えられなかったもので、未来永劫、決して手に入れることのできないものなのだ。

 ならば、せめてあの美しい世界をともにすることのできる唯一の存在であるイヴが自分のかたわらにいるべきだ。

 アメリカではどこを探してもイヴとは出会えなかった。この先、ここでは見つからないような気がする。けれど日本、沖縄で必ず出会える。なぜかそう強く確信していた。

 どこにいる?

 どこにいるのだろう。僕だけのイヴ。

 我が半身、君は今どこに……


「それで俺とこんなところで観光していていいの? 愛抱夢はこっちに視察に来たんだろ」

「かまわないさ。そもそも公費は使っていない自費での視察だ。土日くらい好きにさせてもらう。明日は〈環境・気候変動大臣〉と面会予定だ」

「ふーん」

「いや、それにしてもラッキーだったよ! ランガくんの墓参りと偶然スケジュールが重なって、たった一日とはいえ、こうしてデートできるなんて夢のようだ。まさに奇跡! 最高だ」

「なんか、頭を抱えながらスケジュールを調整していたよね」

 確かにランガの指摘どおり、かなり強引な裏技を使って日程を合わせた。しかし不正なことは一切していない。政務に支障をきたすようなことも断じてない。後ろ指をさされなければいけないことなど、何ひとつやっていないのだ。それは胸を張って断言しよう。

「僕はすべき責務は果たしているよ」

「うん。知っている」

「ここ、僕は一度観光に訪れたことがあるんだ。留学していたとき少し足を伸ばしてね」

「へえ。愛抱夢はここに来たことあったんだ。俺もだよ。懐かしいな。ここ自宅から割と近かったし、父さんと釣りに何度か来ているんだ。ウインタースポーツのオフシーズンにね」

 言いながら、ランガは湖に向かって歩き、水際で振り返った。

 逆光の中、彼の笑顔の眩しさに、愛之介は目を細めた。

 過去、ここに来たとき出会ったあの子供の振り向いた姿と脳裏で二重写しになり、愛之介は息を呑んだ。

 その瞬間、愛之介は理解する。イヴだけではなく、あのとき未来永劫、手に入れられないと信じ込んでいたものが、すでに自分の手の中にあることを。