焼きたてのパン
おいしそうなにおい——そうか今日は休日だから、父さんが朝早く起きてパンを焼いているんだ。
それなら焼きたてパンが朝食のテーブルに並ぶ。
夢の中でそんなことを考えていたら、しゃっとカーテンがひかれる音とともに朝の外光を瞼に感じた。目を閉じていても直射日光でなくても眩しい。
肩をポンポンと叩かれ耳にあたたかい息がかかり「起きて」と囁かれた。
うんわかった。起きるよ——
「ダッド……」
「ランガくん。寝ぼけてないでちゃんと目を覚まそうね。朝だよ」
ん? この声は——
ぱちっと目を開けば、深紅の瞳が至近距離から覗きこんでいた。
「うわっ!」
なんだ愛抱夢か。心臓が止まるかと思った。
そうだった。ここはカナダじゃない。日本——沖縄なんだ。
起こされたとき「ダッド」って口走ってしまったような記憶があるけど気のせいだと思いたい。でないと気まずい。ものすごく恥ずかしい。
そんなランガの心を読んでなのか、愛抱夢は口元にニタニタと意地の悪い笑みを浮かべ「かわいいね。ダッドの夢でも見ていたのかな」と頭を撫でてきた。
やはり聞こえていたのか。
口を尖らせ、ふいっと目を逸らしたとき——ふわりとパンのよい香りがしてお腹がぐーと鳴った。
これは夢ではなかったんだ。
「パン……焼いたんだ」
「そう。約束だろ? 焼いたのはホームベーカリーだけどね。昨晩ふたりで材料を入れてセットしたじゃないか」
そうだった。少しずつ思い出してきた。
ベッドから床に足をつけ立ち上がり大きく伸びをする。
愛抱夢がホームベーカリーを買ってきたきっかけになった会話を思い出していた。
「日本のパンってコンビニやスーパーで買っても美味しいよね。柔らかくてふわふわで甘くて。お菓子みたいだから食事には向かないって母さんが言っていたけど、おやつにはちょうどいい」
「確かに欧米のパンって茶色い全粒粉とかライ麦などが入った歯応えのあるものが多かったよね。甘みもあまりないし。日本のパンでも沖縄の菓子パンは特に甘くて大きいんだ。子供のころの僕は菓子パンなんてあまり食べさせてもらえなくて。大人になってからだよ。食べたの」
「ふーん。そういえば父さんが焼いてくれたパンも甘くなくて茶色っぽかったなって、なんか懐かしくなった。もちろん甘くて柔らかい日本のパンも美味しいけど」
「へえ。お父さんがパンを焼いたんだ」
「夜は母さんに合わせて日本と同じお箸でお米だったけど、休日の朝、父さんがたまにパンを焼いてくれたんだ。朝、パンが焼けるにおいで目が覚めたよ」
「ふむ。そういったパンも探せばあるけど、焼きたてを食べようとすると流石に作らないと無理だな」としばし考えている様子だった。
その一週間後、訪ねるとホームベーカリーが、どーんと鎮座していたのには驚いたというか呆れた。
前の晩に材料を計量してホームベーカリーの中に投入し、タイマーをセットしておけば、捏ねて発酵させ自動的に焼き上げてくれるらしい。
日本人は妙なものを発明すると感心した。
カタログで比較することもなく「一番高いものを買えば間違いないだろう」などという基準でさっさと決めてしまう大雑把さは、いかにも愛抱夢らしい。
愛抱夢は「せっかくだから君のお父さんが作っていたようなしっかりしたパンを作ろう」とパンドカンパーニュのレシピを参考にしようと提案してきた。よくわからないからそれでいいよと返事をする。
商品についてきたレシピブックと睨めっこして、ふたりであーでもないこーでもないと、悩みつつ粉だらけになりながらなんとか小麦粉、全粒粉、モルトパウダー、塩、イーストなどの材料を投入したのが昨晩のことだった。砂糖やミルク、バターは入れないタイプのパンらしい。
「ちゃんと焼き上がるのだろうか」と言えば「この僕が失敗するわけないだろう」と愛抱夢は自信満々だった。
そして今朝、部屋中によい香りが立ち込めている。父さんがパンを焼いてくれた朝に嗅いだあのワクワクさせてくれるにおいだ。
懐かしくて嬉しくて——でも今はどこか切ない。
「さあ食べようか。この手のパンは焼いてから三十分後くらいが一番美味しいらしい。ちょうどそ食べ頃だ」
言いながら愛抱夢はブレッドナイフでパンを切りはじめた。
「うん。オムレツ焼けたから少し待って」
二つ目のオムレツをフライパンから皿に移し、愛抱夢と自分の席の前に一皿ずつ置く。
「「いただきます!」」ふたり同時に手を合わせた。
パンを頬張れば、口の中でバリバリとクラストが弾ける軽快な音が響く。
愛抱夢は興奮した様子で「なるほど……これはおいしい」と目を輝かせた。
「パン屋で買ってきたものとはまったく違う。ランガくんはどうかな? お父さんの作ったパンには敵わないだろうけど……」
「同じくらいおいしいよ。ちょっと違うけど……なんか似てる」
ランガは目を閉じ確かめるように味わった。
そう。違うけど十分似てるんだ。
香ばしいにおい。噛んだときのパリパリした歯応えとクラムのモチモチとした弾力。噛み締めていると軽い塩気と、砂糖を入れてないのにほんのりとした甘味を感じる。
ランガは顔を綻ばせ身を乗り出した。
「俺、またこのパンが食べられると思っていなかった」
そう……父さんのパンが。
「そう言ってもらえるのなら買ってよかった。もちろん甘いパンも作れるよ」
「甘いパンはいくらでも売っているから作らなくてもいいよ。これがいい」
「そうか。この系統でナッツやドライフルーツを入れたりアレンジはできるみたいだしね。僕はパン作りの天才かもしれないな」
「大袈裟だな。でも、きっと……ホームベーカリー選びの天才だったのかもね」
ふたりは顔を見合わせ笑い合った。
失われ二度と戻ってくることはないだろうと諦めていた、優しくしあわせな世界がここにある。なのになぜか泣きたい気分にさせてくれる。
時間がゆっくりと流れていく——そんな朝だった。
了