疑惑

 愛之介様が何か考え込んでいる。

 その表情や空気から主人の頭の中を推察し先回りをすることが自分の責務だと認識している。公私関係なくだ。

 そして主人の様子から察するに多分政務とは関係ない。まず政務ならばそこまで悩まない。主人はその勘の良さから方向性だけはさっさと決めてしまう。その後、優秀な秘書たちと議論の中で骨子をまとめていくことになるのだから、ひとりで考え込むことはまずない。

 ならば主人の悩みは極めてプライベートな問題だ。


 スクリーンの分割されたパネルすべてに今現在の主人の最大の興味の対象である少年が映し出されていた。主人は部屋に入ってきた忠に背を向けたままそれを鑑賞していた。

 少年の名は馳河ランガ——スノーというSネームで呼ばれている。

 彼は先日開催されたトーナメントで主人——愛抱夢を破り優勝した。この少年がSに彗星の如く登場してからというもの、主人の脳内は彼中心に回っている。それはトーナメントが終わった今でも変わっていない。もちろんトーナメント結果により心境に変化はあっただろう。だが少年への一方的な執着はそのままだった。そう。一方的なのだ。

 忠は振り向く気のないだろう主人の背中に声をかける。

「どのようなご用件でしょうか」

「忠。少しお前にやって欲しいことがあるのだが」

「はい。私は何をすればよろしいのでしょうか」

 そこで主人はやっと椅子をくるりと回し忠と向き合った。

 主人からの説明をメモに書き留めていく。やがてペンを握る指が震えはじめ忠は絶句した。それでも気を取り直し、主人の要望は一字一句逃さぬようなんとかペンを走らせていく。どのような無理難題であったとしても計画を立て遂行していくしかないのだ。

 そもそも、このシナリオはどこからの発想だ。今どきこんな安っぽい筋書きなど――そこで、はたと思いだす。

(これはあれだ。自分が中学生のころまだ小学生だった愛之介様に貸したラノベにこんな展開があったような? しかしその展開を愛之介様はツッコミ笑っていた記憶があるのだが。馬鹿にしつつも、もしかして潜在意識に染み付いてしまい、愛之介様のイメージするロマンスの原型になってしまったのかもしれない。ピンチのヒロインを主人公が助けそこからロマンスがはじまるという……ベタすぎる)

 だがしかしそういった違和感は些細なことだろう。秘書以前に神道家の使用人——いや犬である自分の役目はとにかく主人の希望通りに物事を進めることだ——と無理やり己に言い聞かせる。今現在頭の中でぐわぁんぐわぁんしているのは多分気のせいなのだ。とりあえず詳細な計画書を作成することにした。


 まずは実行部隊を編成しなくてはいけない。必要人数は三名——いや念の為四名ほど予定しておこう。報酬は一人当たり……二万か三万もあれば引き受けてくれるか。当然守秘義務をきちんと守れる人物でなくてはならない。外部への他言を一切許さないS参加者であることからしてある程度その辺りはクリアできていると考えるべきだろう。もしもの場合——始末するコストは神道家所有の廃鉱山へ埋めて隠蔽するのはさほど難しく——いやいやそんな物騒なことは起こってから考えるとしよう。


 そして決行当日。

 タブレットに映し出されるドローンから送信される映像を見守っていた忠だが、想定外のアクシデントに慌てて現場へと急いだ。

 これは大失敗かもしれない。

 忠が現場に到着したとき、仁王立ちするスノーの後ろ姿が目に入った。片手でスケボーを掴み、もう片方のぎゅっと握り締めた拳がぶるぶると震えていた。その足元には四名の男たちが仮面を着けたまま転がっている。

 それから少し遅れて「ランガ、大丈夫か? なにがあった?」という声が背後から聞こえた。スノーの友人である赤毛——

「暦!」

 そうだ。暦という名前だった。

「いきなりすぐ来いとか言ってきてさ——しかもここ立ち入り禁止区域じゃないか。あれ? こいつら——」としゃがんで「おーい。大丈夫か?」と地べたに這いつくばっている男たちに声をかけている。

「そいつら強盗なんだ」

「は? 強盗って何を盗ろうとしていたんだよ? おまえ現金も持っていないんだろうが!」

 暦が疑問視する。確かに強盗はない。

 そこへ——

「ランガくん。大丈夫かい?」

 愛之介様——もとい愛抱夢が割り込んできた。実際はもっと早くから物陰に隠れ待機していたものの予想外のアクシデントに登場するタイミングを失ってしまったのだ。

 チラリと忠を一瞥し「言い訳は後で聞く。今は黙っていろ」と、小声で命じてきた。

 ここは静かに見守るしかない。

 スノーは愛抱夢に視線を向け、きっと睨んだ。

「愛抱夢! ちゃんと管理してよ。こんな強盗とか危ない人を入れるなんて」

「あ、ああ。すまなかったね。——忠、こいつら全員連れて行くよう指示を出してくれ」

「はい」

 キャップマンたちに、四人の男たちを連れて行ってきちんと介抱するように命じた。少々行き違いがあったとごまかす——ではなく説明をする。男のひとりがぽつりと「話が違う」とこぼす声が耳に入ってきた。仕方ない。報酬は少々上乗せさせてもらうとしよう。

 そこへ、また背後から「なんだなんだ」という声がして、振り向けばゾロゾロといつものメンツ——実也、チェリー、ジョー、シャドウ——がやってきた。

 やれやれ。

 話を中断させられたスノーが友人に訴えた。

「何を盗ろうとしたかって、そんなのスケボーに決まっているだろ。俺のスケボーを奪おうとするから思わず蹴り上げて取り戻した。そしたら一斉に飛び掛かってきたんだ」

「それで全部おまえがぶちのめしたってか? ほんとおっかねーやつだよ。見かけによらず、おまえは」

「すごいな。ランガは。今夜も勇者って呼んであげるね」と実也は無邪気に感心している。

「だって暦が作ってくれた大切なスケボーなんだ。ついカッとなって……」

「でもさぁ、そんなトチ狂ったスケボーなんておまえ以外乗りこなせないぞ。そんなの盗むか? ふつー」

「う、うん……」

 そこへシャドウが拳でポンッと手のひらを叩いた。

「そうだ。これはあれだ。そのボードを取り上げればビーフで有利に立てるって思ったんじゃねぇのか?」

 今までのやり取りで判断する限り、この四人は気にしなくて大丈夫だろう。問題は——ジョーとチェリーか。

「んなわけあるか。ボードなんて所詮消耗品だろうが。だいたい近々ランガにビーフの予定はあるのか?」

「ないよ。ジョー」

 その返事を聞いてジョーはチラリと主人に視線を向けた。

「ふーん。ボードの用意など一週間もあればなんとかなりそうだよな」

 大雑把なガタイに似合わず勘は悪くない男だ。用心しておこう。

「ふむ」と、チェリーが一歩前に出て、ジョーの隣に並び主人に視線を向けた。

「愛抱夢。おまえ何か心当たりないのか?」

 訊かれて主人は顎を掴んで考えているふうな演技をした。

「さあね。皆目見当もつかないな。まあ調べさせよう。そしてこんなことが二度とないようにしないとね。ランガくんに怪我がなくて何よりだ」

「これ以上治安が悪くなるのはごめんだ。くれぐれも頼むぞ」

「まったくだ。行こうぜ。薫」

 主人に対し疑惑の目を向けつつ、ふたりの旧友たちが引き下がってくれたことにホッと胸を撫で下ろす。


 あの事件から本業が立て込んでいたこともあり忠のしくじりについての追求はなかった。静かなもので特に八つ当たりもない。かえって不気味だ。そんなとき呼び出された。

「失礼します」

 ノックをして薄暗い主人の部屋に入る。呼び出した主は振り向きもせずにスクリーン一面にドローンから撮影された動画を鑑賞していた。

 これはいつものことだ。しかし通常ならばSでのスケートシーンをチェックしているのだが、今回主人が繰り返し見ているのは——

 スノーの周囲を四人の男たちが取り囲んでいた。スノーは困惑した表情で四人の顔を見る。しかし全員仮面を装着してもらっているから誰であるかは特定できないだろう。会話内容までは捉えていなかったが男のうちのひとりが何か言いながらスノーからスケートボードを引ったくった。と次の瞬間スノーは「返せ!」と男の腕を蹴り上げ手から離れたボードをキャッチしてから後ろ手に捻じ上げてしまう。男が悲鳴をあげた。他三人は一瞬たじろぐが「この野郎覚悟しろ」と棒台詞で一斉に飛びかかろうとした。その後あっという間に全員地べたに這いつくばることになった。

 すぐにスノーはスマホを取り出し、友人に連絡を入れている。

 ここから少しして自分が到着することになる。愛抱夢は颯爽と登場しスノーにかっこいいところを見せるという野望をくじかれ、物陰にひっそりと隠れているしかなかった。そのことはは申し訳なかったと思う。

 主人はそこで動画を止め椅子をくるりと回転させ振り返った。そして興奮気味に言った。

「見たか? 忠。やはりランガくんは素晴らしいよ。彼はいつも僕の想像の遥か上を行ってくれる」

「はい」

 確かにこうなるとは予想できなかった。スノーは喧嘩慣れしているようには見えない。いや喧嘩慣れしているわけではない。ひととおり護身術の教えは受けたと考える方が自然だが、とにかく反射神経がずば抜けている。相手のへっぽこな攻撃は軽くかわし、自分に向けられた力を利用しねじ伏せる。回し蹴り、回し打ち、中段突き、前蹴上げ、子安キック? と、いくつかの攻撃技も確認できたが、相手の致命傷にならない程度に加減はしている。人選ミスか? とも思ったのだが今回依頼した男たちに限らず誰であったとしてもスノー相手では荷が重すぎる。

「ランガくんがこれほど強かったとは——なんてラブリーなんだ。さすが僕のイヴだ」

 イヴがスケート以外でもこれほど攻撃的とは問題な気もするが、主人がいいというのならいいのだろう。

 それにしても、どのような叱りを受けるか覚悟していたのだが「僕に予想できなかったランガくんの新たな才能が、おまえ如きに予想できるはずはないだろう」などとむしろこの結果にご満悦のようだった。こちらとしては失敗した自分が叱責されなかったことにほっとしたというか気が抜けたというか。まあいい。このことが主人の機嫌を損ねなかった——どころかとても気分を良くしているらしいことに安堵する。機嫌の悪い主人が仕事に支障が出ないような対策を講じることはなかなか労力がいる。

 とにかく終わりよければすべてよしとしよう。

「それでだが、忠。おまえを呼んだ理由だが、また頼みがある」

「頼みですか?」

 いやーな予感がした。

「ああ。次の計画について話そう」

 次の計画? まだ何かをやる気なのか。そのときピンと閃いた——

「お断りします。いくら愛之介様の命令とはいえ、それはお受けできません!」

 しまった。これは脊髄反射だ。思考するより先に口走ってしまった。そもそも自分の妄想が脳内を一気に駆け巡りそれを主人の言葉と誤認識してしまったせいなのだ。

「何を言っている。僕はまだ何も話してはいない。おまえは僕が何を言おうとしていたのかわかったというのか? よかろう。僕がおまえに何を頼もうとしてたのか話してみろ。それが当たっていたら断ってくれても構わん。どうだ」

 確かに、もし外れて——自分の想像した内容でないのならば、その依頼を受けることはやぶさかではない。

「承知いたしました。では——もしかしますと愛之介様は、ご自身が暴漢に襲われた、その窮地をスノーに救ってもらおうなどと考えてはいらっしゃらないでしょうか?」

「……」

 主人は押し黙り、すぐに苦虫を噛み潰したような顔になった。やはり図星か。だとしたら自分のかっこよさを見せつけたいという当初の目的から大幅にずれてしまっている。どうも主人はこと対スノーになると、精神年齢がマイナス十四歳くらいなってしまうような気がする。

「愛之介様?」

「気に食わんな。犬のくせに主人の考えを読むな」

「申し訳ございません。ただ——もし愛之介様がスノーとより近しい関係になりたい、とお考えでしたら、もう少し良い方法があるかと存じます。私ごときが差し出がましいとは思いますが提案させていただいてよろしいでしょうか」

「まあいい。話してみろ」

「はい。やはりスケートです。あれ以来愛之介様はスノーとビーフをされていません。なぜでしょうか」

「なぜって……それはだな。僕から申し込むのもなんというか……おかしくないか?」

 薄明かりの中、指でデスクの書類を所在なさげにペラペラといじりつつ、ふいっと目を逸らした主人の横顔をじっと観察した。心なしか頬が赤らんでいるような気がした。

 まさか……もしかして恥ずかしかったのか? スノーに対して、今まで周囲をドン引きさせるくらい無遠慮にベタベタしていたのに? イヴだの愛だの尋常じゃないポエムを口走っていたのに「一緒に滑ろう!」がなぜ言えない。

「トーナメントの優勝こそは逃したとはいえ、愛之介様のSの神としての地位は揺るぎません。スノーはそんな愛之介様からのビーフの誘いを待っているのではないでしょうか」

「つまり、おまえは僕からランガくんをビーフに誘うべきだと考えているのか」

「はい。彼は愛之介様と滑ることを待ち望んでいます」

「待ち望んでいる?」

「当然です。スノーは相手が誰であっても心から楽しそうに滑ります。ですがそうであってもあの限界まで神経を——感覚を研ぎ澄まさねばならないような、あのヒリヒリするようなスケートをスノーが見せてくれたのは、愛之介様と滑ったときだけでした。愛之介様とのスケートはスノーにとっても特別なのです」

 カタン! と、椅子から立ち上がる主人の表情が、ぱぁっと明くなる。

「なるほど。そうか。そういうことか」

 忠は軽く頭を下げた。

「以上が私の提案です」

「ランガくんにビーフを申し込もう。ああ今すぐにだ——」

 言いながらスマホを取り出し何か操作をしている。おそらくスノーにビーフ申し込みのメッセージを送っているのだろう。——と、ものの数秒で着信音が鳴った。

 スマホ画面を覗く主人の口角が力いっぱい上った。そして、スマホ画面を忠に突きつけてきた。

「ほら見ろ! 忠。さっそく返事が来た。やはり彼も僕と滑りたかったたんだな」

 忠は目を細め微笑んだ。

「愛之介様……私はおふたりのスケートがまた拝見できること、楽しみです」

 そう心からの言葉を残し、忠は退室した。