紫陽花

 羽田空港にあるラウンジの窓から灰色の梅雨空を眺めやる。東京滞在中、薄陽すら射すことはなかった。今日も朝からしとしとと小雨が降り、外気は肌寒くすらある。ここは沖縄ではないのだからこんなものかと思う。

 沖縄の梅雨と本土の梅雨は、印象がかなり異なる。話には聞いていたのだが、週の半分を東京で過ごすようになって初めて実感した。沖縄の梅雨は、一時間か二時間パッと強く降り、止むと青空が覗くなどとメリハリがある。東京のように長時間ダラダラと雨が降り続くことはあまりない。

 それでも梅雨入りすれば降雨時間は増え必然的にSは中止になることが多い。スケートボードにとって雨は大敵だ。水浸しになれば、そのボードは二度と使い物にならなくなる可能性が高いのだから。

 潔く諦めるしかないのだが、一番のデートスポットが使えないというのは如何ともし難い。色々鬱憤が溜まる。

 そして、今週末も断続的に雨が降る予報だ。明日のSは中止するしかないだろう。

 彼は寂しがるだろうか。いや寂しいと思うに違いない。スケートは無理だとしても、週末、デートくらいはできる。

 それならばとスマートフォンを取り出した。


 ――「愛抱夢? 沖縄に戻ってきたの?」

「いいや、まだだ。羽田のラウンジでフライト待ち。それよりSは中止するしかなさそうだね」

 ――「そう。残念」

「その代わりといってはなんだけど、土曜日の午後から時間が空くんだ。デートしよう」

 ――「えっと予定は……入っていないな」

「決まりだね。詳細はまた連絡する」

 ――「わかった」

 通話を終え顔を上げればカウンターに飾られた青い花が目に入った。紫陽花が生けられている。そういえば空港内ターミナルのありとあらゆるポイントでも、色とりどりの紫陽花が飾られていた。季節の花という意味で紫陽花が選ばれたのだろう。梅雨は紫陽花のシーズンだ。それは東京も沖縄も変わらない。

 公園や宿舎の庭、ショッピングモール、一般家屋の生垣にも植えられているありふれた花。そんな紫陽花は、雨に濡れるとより色鮮やかに輝きを増す。雨に映える紫陽花は、強い太陽光の下では何故かその色は霞む。


 ふと、前に植物園の研究員から紫陽花についての薀蓄を聞かされたことを思い出す。

 園芸種である紫陽花の原種は日本原産だという。それが欧米に持ち込まれ品種改良が進んだこと。また、その花の色は土壌に左右される。酸性だと青に。そこからアルカリに傾くに従い紫からピンクの花が開くという。ここも含め日本の土壌はほぼ酸性だ。それで紫陽花といえば青、というイメージになる。

 紫陽花の花びらに見えるあの青やピンクの部分は萼だ。その程度の知識はあった。しかし、この花は花粉を媒介する虫を誘うためだけに存在する。萼の真ん中に小さな花があるのだが、花粉のある雄しべだけはかろうじて残っているものの雌しべは退化し実をつけることはない。だから装飾花という。実を結ぶ本物の花――両性花は小さく陰に隠れひっそりと目立たない。それでも萼や花びら、雄しべも雌しべもあり、実を結び子孫へと繋げることのできる完全花だ。正常花とも呼ばれている。

 そんなどうでもいいことに思考をめぐらせてしまうのは、このどんよりとした梅雨空のせいか。

 装飾花と完全花か……

 雄しべと雌しべが揃い実をつけることのできる完全花。

 そして雄しべのみの何も生み出すことのない装飾花。

 苦いものが込み上げてくる。まるで自分たちのことのようだと。

 たとえ、同性婚やそれに類似した制度が整備されようが、子をなさない組み合わせを祝福してくれるような神道家ではない。むしろ全力を上げて妨害してくるだろう。下手をすれば、ランガや彼の母親になんらかの危害を加えてくる可能性すらあり得るのだ。

 神道家の遺伝子を持つ子を成せば伯母たちを言いくるめることは可能だろう。そこで代理出産という方法も頭にあった。ところが調べれば調べるほど、また議員仲間である女性の意見を聞けば聞くほど、それはただの人身売買でしかないと思い知ることになった。

 結婚という形にこだわっているわけではない。自分としては愛を注げるところにランガがいてくれれば満足できるのだ。

 しかし彼はどうだろうか。少しずつ大人びてはきているとはいえランガは自分よりずっと若い。まだ子供だといっていい。今、自分に見合いしろとの圧力が強まっていることなど彼は知らないし話したとしてもピンとこないだろう。

 ランガを傷つけ苦しめてしまう。それだけは避けたいと思った。

 目をぎゅっと瞑り目頭を押さえた。

 何を弱気になっている。しっかりしろ。おまえは神道愛之介であり愛抱夢だ。不可能なことはない。ランガのためなら何でもしてみせよう。

 ゆっくりと瞼を上げていけば、ぼやけた視界に生けられた紫陽花が浮かび上がる。青い飾り花は、空調の風に吹かれ何かを語りかけるように小さく揺れていた。