坂道

 Sは廃鉱山で開催されているルール無用の危険なスケートボードレースだ。山道を利用し作られた入り組んだダウンヒルコースは、廃工場に設置されたゴールまで続いている。Sはスピード——いや、そうではない——とにかく誰が早くゴールへたどり着くことができるかを競い合う。その間、妨害、暴力、なんでもありだ。どれだけ卑劣な手を使おうが、早くゴールしたスケーターの勝利となる。


 前を滑る男の赤い背中を追う。

 不意に振り向いた彼の仮面の奥にある目が挑発する。「着いて来い」と。コースを逸れた——と思った次の瞬間、彼は飛んだ。

「行く!」とランガも迷わず男の後に続く。

 カッシャンというデッキ底面と金属がぶつかる高い音が響き、ボードは朽ちかけた金属製フェンスの上を滑り降りていった。そこから荒れた路面に着地し、減速しながら目的の場所へ向かう。先に到着した彼は、くるりと振り向きボードを蹴り上げた。

 ここは愛抱夢とランガだけが知っている秘密の場所だ。ここにたどり着ける能力を持ったスケーターは自分たちふたりだけだと愛抱夢は豪語する。

「ようこそ。ランガくん。僕たちのひみつの花園へ」

 愛抱夢は両腕を大きく広げた大げさなポーズで近づいてくる。

「どこに花なんてあるの?」

「君が居れば、そこはもう花園だよ」

 毎度のことだけど意味不明だ。追求しても時間を浪費するだけなので話題を変えることにする。

「で、またこんなところへ誘い出して。誰かに見られちゃいけない話?」

 愛抱夢がランガをここへ誘い出したということは、誰かに訊かれたくない話をしたり見られたくない何かをするということだ。もちろん大したことをするわけではない。ハグをするか、せいぜいキスをするくらいだ。

「本当は明日の予定だったんだ。それにしても残念だ。ゆっくりランガくんと過ごす素敵な週末になると浮かれていたのに。うん、本当に悔しいよ」

 愛抱夢はため息をひとつ落とすと、わざとらしい笑みを深くし体を少しかがめながら顔を近づけてきた。ランガは軽く後退りしながら肩をすくめた。

(もしかして暦と先に約束しちゃったこと、怒っている?)

「ご、ごめんなさい。でも暦の方が先に言ってきたから……」

 そうだ。愛抱夢に誘われた日の前日、暦がランガに都合を訊いてきた。たまたまタイミングが悪かったんだと思う。愛抱夢とは再来週に会う約束ができたのだから、それで許してほしい。

「もう二連続でこの僕が断られたんだ。よりによって赤毛くんと先約があるという同じ理由で。仕方なく翌週——と思ったら今度はこっちの都合がつかない。僕はまる二週間も君に会えないんだよ。ランガくん不足で頭がおかしくなりそうだ」

 何を大袈裟な——と思う。

 だが確かにここ最近、暦が誘ってくるタイミングが早くなっているのは間違いない。愛抱夢と付き合い始めたころはスケジュールが埋まっていることなんてことなかった。むしろ当日か前日に提案してくる暦の誘いを断ることが増えて申し訳ないと思っていた。ところがここのところ暦は早め早めにランガの予定を押さえてくるのだ。

「僕たち付き合っているんだよね? 僕はそのつもりだったんだけど、君は違うのかな?」

「もちろん俺もそう思っている」

「君は僕より赤毛くんを優先している?」

「え?」と思わず目を見開いて愛抱夢の顔を凝視した。この人は何を言い出すんだろう。

「すまない。今言ったことは忘れて欲しい。あまりにも大人気なかった。それでも僕は……」

 小声でブツブツ何か言っている。多分だが仮面で隠された眉間にしわが寄っているのだろう。今の状況は愛抱夢的にとって不本意であるということは理解した。

 そうだとしてもランガが謝ることとは思えなかった。

 だって仕方ないじゃないか。体はひとつしかないのだから暦と約束したら愛抱夢とは会えない。当たり前だ。よほどの理由がない限り先約を優先するのは常識だってことくらい知っている。

 きっと愛抱夢だってわかっているんだ。わかっているからこそ暦より自分を優先しろなんて言えるわけはない。

 それでも、きっと——理屈では理解しているけれど心の奥でモヤモヤしたものが燻っているのかもしれない。モヤモヤした気持ちを整理できずに引きずってしまうことなんていくらでもある。

 ランガにもそんな覚えはある。

 幼かったころ、父さんとの約束を楽しみにしていた。それなのに、急な仕事でキャンセルされた。父さんは何度も何度も謝ってきて、また次の機会に埋め合わせをすると言ってくれた。でも次の機会なんて一年後だ。あのときの父さんの困ったような顔は今でもはっきり覚えている。

 父さんは忙しいのだから、わがままを言ってはいけない。父さんが悪いわけではない。困らせてはダメだ——と何度も自分に言い聞かせた。けれど、そうしたところで心は晴れなかった。

 父さんは俺より仕事の方が大切なの?——そんな口から出かかった言葉を呑み込んだ。

 一緒に居たい人と一緒に居たいときに一緒に居ることができない。そんなときの心の中は、ただ寂しい——そう寂しかったのだ。

 ——あなたも同じ?

「愛抱夢……あの……俺が今できることで何かしてほしいこととか希望ある?」

 自分の顎を指で掴み口の中でブツブツ言っていた愛抱夢がその言葉を聞いて、ランガに顔を向けた。

「もちろんたくさんある。だけど君の嫌がることはしたくない——とりあえず今はランガくんを感じたい。抱きしめさせて」

「わかった」

 愛抱夢の胸へ入り込むようにして背中に手を回せば、彼の腕が強く抱きしめてくる。しばしその姿勢のまま抱き合った。抱きしめる腕の力が緩んだところで体を少しずらせば、愛抱夢の顔が間近にあった。

 愛抱夢はいつの間にか仮面を外し、素顔が晒されていた。目尻を下げランガを見つめる深紅の瞳に穏やかな光が浮かぶ。視線を下げれば、大袈裟に口端を吊り上げた笑みではない自然な微笑みを浮かべた赤い唇が目に入った。ランガはその唇にそっとキスをした。これはいつものキスだ。唇と唇が一瞬触れ合うだけの。

 たったそれだけのことで不思議と心が満たされるように感じて気分が落ち着いた。

(何でだろう)

 頬に手袋を外した愛抱夢の指が触れてくる。彼の指に自分の指を重ねランガは目を閉じた。

 手袋越しではない。大きくてしっかりとした愛抱夢の手だ。

「ねえランガくん。今度は僕からキスをしていいかな」

「いいけど?」

 なんで今更そんなことを訊いてくるんだろうと不思議に思う。

 それを察してか愛抱夢は言った。

「ランガくんがしてくれるキス。ずっと変わってないんだ」

「え?」

 そこで、はたと気づく。最初のキスこそ愛抱夢から「キスしていいかな?」と確認されてからのごく軽いキスだったけれど、その後はなんとなくランガからキスをしていたことが多かった。というかそればかりだったように思う。しかもそのキスだって軽く触れるだけのキスだ。

 愛抱夢はただランガが前触れもなく仕掛けてくるキスを受け止めてくれていた。

 どう考えてもお子様のキスだ。

(俺、もしかして調子に乗っていた?)

 ランガは急に羞恥を覚えた。

「ごめん。嫌だった」

 愛抱夢は驚いたように眉を上げた。

「まさか嫌なはずはない。ただ変わらなかったのは僕のせいなんだ。仮にもずっと年下のランガくんをリードしあげられなかった。だから謝るのは僕の方だ。君は気にしなくていい」

「うん」

「ではキスをするよ」とランガの後頭部を掴み固定すると顔を近づけてきた。唇にかかる甘い吐息がくすぐったい。

「今までのキスは君の知っているキスだったね。そして——今からするキスは、君の知らないキスだよ」

 ——知らないキス。

 その言葉の意味がストンと胸に落ちてくる。それと同時に体の芯が熱を持ち心臓がドキドキとうるさく鳴りはじめた。

 ランガは目を閉じ、降りてきた唇を受け止めた。