日記

 その日は暦の家で夏休みの宿題を一緒に片付けていた。ランガは暦に英語を。暦はランガに設問の日本語を解説する——というふうに協力しようと話がまとまっている。

 ほぼ終わったあたりを見計らって、暦の母親が冷たいお茶とケーキを持って部屋に入ってきた。

 ふたりの前にお茶とケーキを置いた母親から「毎日スケボーばかりだからこんなことになるのよ。宿題なんて最初のころにさっさと片付けておきなさい」と小言が飛んできた。

「仕方ねーだろ。大体高校生にもなって宿題とかふざけんなよ」

「日本は夏休みに宿題があるんだね」

「まったくだ。夏休みになんであんなくだらない宿題出すんだろうな。カナダは宿題ないのか?」

「ないよ。本を読んでくるように……くらいかな」

「小学生の夏休みの宿題、暦は絵日記の絵だけは得意だったわね。でも文章はてんでダメなのよ」

 暦の母親がケラケラと楽しげに笑った。

「仕方ねーだろ。何も書くことがないんだから」

「その絵日記、見てみたいな」

「あるわけねーだろ」

 暦の母はあごに指を当て上目遣いの視線を宙に向けた。

「そうねぇ。もしかしてどこかにしまってあるかもしれないけど。探し出すのは難しそうね。どこに放り込んだのか見当もつかないわよ」

「そうなのか。毎日スケートの話ばかりなのかな、どうスケートで遊んでいたのかな、とか少し気になった」

「日記があったとしても小学生のころはスケートなんてしていないぜ。俺スケート始めたの遅かったし」

「そうか。残念」

「それに思いっきり力を入れて絵を描いたけど。文は一行『たのしかったです』とか『あそびました』とか『きょうもあつかったです』って書いて、しまいには『なにもありませんでした』で終わらせたし」

「暦は絵が上手いから……」

「絵でごまかしていたわね」

「その絵日記って日本の小学生は皆やらされるの?」

 暦の母親が答えてくれた。

「私が小学生だったころも書かされたわよ。日本の伝統かしらね」

「へえ」


 宿題も終え清々しい気分で迎えた夏休み最後のS。そこで愛抱夢と会った。そのときの会話の中でふと絵日記のことを思い出す。

「僕の絵日記?」

「うん。暦のお母さん世代でも宿題で書いたって言っていたから、愛抱夢も子供のころの夏休みの宿題で絵日記書いていたのかなって」

「書かされたけど残念ながら残っていないな」

「そうか。そうだよね」

「それに……僕の絵日記なんて面白くないよ」

「え? どうして。愛抱夢は小さい頃から滑っていたんだよね。愛抱夢だったら毎日スケートのこと日記に書いていたんじゃないの? だから興味があったんだ」

「確かに夏休みは毎日滑っていたけど、宿題の絵日記には一行も書かなかった。周りの大人たちにやらされた習いごとは書いたけどね。乗馬とか……」

「なぜスケートのこと書かなかったの?」

 仮面の奥にある目がふっと伏せられた……ように見えた。

(もしかして触れてはいけないことだったのだろうか)

 不安になりランガは慌てて謝った。

「いいよ話したくなければ。変なこと言ってごめん」

 彼の口端がクイっと上った。

 笑った?

「ああ、なにしろ僕はいい子だったんだ」

「いい子?」

 それとスケートのことを日記に書かなかったこととどう繋がるんだろう。スケートといい子が関係あるようには思えなかった。それとも日本は違うのだろうか。いや愛抱夢の家が特殊なのかもしれない——とランガはどう返答しようかと悩み、眉を寄せぐるぐると混乱していた。

 ふふふ……と笑う声が聞こえ頭にポンと手が置かれた。

「僕は嬉しいよ、ランガくん!」

「え?」と顔を上げれば愛抱夢は若干身を乗り出し胸に手を当てうっとりと宙を見ていた。いつものことだが芝居がかった大袈裟な仕草だ。

「君が僕の子供時代にはじめて興味を持ってくれたんだよ。こうやって君はひとつずつ確実に僕を理解しようとしてくれるんだね。ふたりの関係がより近づきつつあるのを感じるよ」

 まるで歌うよう彼は言った。

(いや……子供時代の愛抱夢のスケートに興味があっただけなんだけど)

 内心でそう呟き、それでも「は、はい……」となんとか否定しないで済ませることができた。

「これからもお互いのことをもっと知り合うべきだと思うよ。君はどう?」

「えっと。知らないより知っている方がいい——かな?」

 彼の口角がさらに吊り上がった。

「意見が一致したね。ああ僕たちは本当に相性がいい」

 スッと差し出された彼の手をランガは反射的につかんでいた。

「一緒に滑ろう。ランガくん」

「わかった」

 立ち上がりスタート地点にふたりは向かう。繋ぎっぱなしの手のことは、すっかり忘れて。

「あいつら、なんで手を繋いでいるんだ?」とつぶやいた親友の声は、幸いふたりの耳には届かなかった。