初めての……
お疲れー。解散! となった深夜のS。
チェリー、ジョー、実也、シャドウたちは「気をつけて帰れよ」と手を振り、散り散りに帰途へついた。帰り支度を終えたランガが、親友と並んでバイクへ向かって歩いているときだった。いきなり、ふわりと体が宙に浮いた。
何が起こったのかと目を見開けば真っ赤な壁。頭を少し持ち上げ理解した。地べたに立つ、脚、尻、腰と見えてくる。どれもこれも赤い。赤といえばマタドール。なるほど。どうやら愛抱夢の肩の上に担がれているらしい。
「忠」とスネークを呼ぶ愛抱夢の声が聞こえた。
「はっ」と返事をしたキャップマンに扮したスネークは「失礼します」とランガの腰に何かを巻いたようだった。何をしているのだろうか。それから右手首に赤いリボンを蝶々結びにしている。おそらく腰も同じリボンを巻いて蝶々結びにしたのだろう。それにどういう意味があるのかまではわからないが。愛抱夢のこういった突飛なパフォーマンスにはいい加減慣れてしまった。生来の鈍感さも手伝ってランガにしてみれば今更慌てるようなことではない。しかし暦は違った。
事態を飲み込めずポカンと口を開け固まっていた親友が、我に返って抗議する。
「なんだよその赤いリボンは。何のつもりだよ。てめえは」
「見ての通りだよ」
ランガも自分を担いでいる男に何か言うことにした。一応、彼はS主催者だ。まずは挨拶したほうがいいか。
「こんばんは。あなたとは滑れなかったけど、今夜もS開催ありがとう。で、重くない?」
「抱き上げているのが愛しのランガくんだと思うと、羽のように軽く感じるよ」
「ランガ! 何を呑気な会話しているんだよ。さっさとそいつから降りろ」
「そうやってまた保護者ヅラして喚かないでくれないかな。僕はランガくんに用があるだけなんだ」
「それが用があるだけって態度かよ。早くランガを離してその変なリボンを取れよ」
「変なリボンとは失礼だな。これはシルクのリボンだ。触ってみるかい? 手触りが安ものとは天と地ほどの差だ」
言いながら愛抱夢はランガの腰に巻かれたリボンを撫でる。くすぐったさに体がピクリと小さく跳ねた。リボンの感触を確かめているのだろう。ランガも手首に結ばれているリボンを触ってみるが、とても滑らかだ。手触りといい光沢といい確かに高級感があるのかも。
「ほんとだ、すべすべしていて気持ちいいね」
「感動している場合じゃねーよ。いったいランガをどうするつもりだ」
「ふむ。親友としての心配はもっともだ。安心してくれたまえ。誓って今夜はランガくんに手を出したりしないさ。僕は誠実な男だよ。信じて欲しい」
「てめえなんざ一ミリも信じられるか。ランガを返せこのクソ変態野郎」
「返せって聞き捨てならないな。ランガくんは君のものなのかい。違うだろう。それにクソ変態野郎なんて汚い言葉を使うとは、ランガくんの親友として失格だよ。今日のところは大目に見てやるが」
「なんだよ。その上から目線の屁理屈は。てめえこそ偉そうにさっきから何訳わからないこと言ってんだよ」
「僕はね。偉そうなのではないんだ。偉いんだ」
「けっ! そう来ると思ったぜ。こんなやつに付き合う必要なんてないぞ。ランガ」
ふたりで何やら言い争っているが、その間ランガといえば、肩に担がれ頭を垂らしたまま宙ぶらりんの状態だ。頭に血が上ってきたのか、ぼーっとしてきた。
暦は自分のことを心配してくれているのはわかっている。だからこそ冷静になってもらわないと。
「落ち着いて、暦。どれほどエキセントリックでぶっ壊れているように見えたとしても、愛抱夢には愛抱夢なりの理由があるんだ。話を聞けば、そういうことだったのかと納得できる。だから俺ちゃんと事情は聞くよ。それに愛抱夢は俺が嫌がることは絶対にしないっていつも言っているし。大丈夫だよ。報告は必ずするから」
「ランガくんもこう言ってくれていることだし。ではごきげんよう」と手をひらひらと振るなり、愛抱夢はゲートに向かって猛ダッシュする。それなりに体格のいい男を担いでよくこんなに軽々と走れるなぁと愛抱夢の体幹の強さに感心する。
「ランガー。自分の身はちゃんと守れよー!」と暦が叫ぶように言った。ランガも「わかってるー」と大声で返した。
「あ、そういえばバイクが——」置きっぱなしだったことを思い出す。
「問題ないよ。明日には君の家まできちんと届けさせよう」
顔を上げて見れば数人のキャップマンたちがランガのバイクを運んでいた。
「わかった」
毎度のことだけど、あっさり押し切られてしまった。そのときの気分も含め、明確に断る理由が見つからないとこうなってしまう。暦の見立てだと俺は、信じられないくらい〈ちょろい〉らしい。もちろん相手は愛抱夢限定だけど。そうなのだろうか。
ゲートの外にはいつもの黒塗りセダンがドアを開けて待機していた。後部座席に押し込められるが、スケートボードも他の私物も既に運び込まれていた。手際が良すぎる。
「車を出せ」
「はい」
車が走り出すが、どこへ行くつもりなのだろうか。
ぼんやり外を眺めるが、車窓から見える暗がりの風景だけでは、どこを走っているのか見当がつかない。
やがて目的地に着いたらしく停車し、ドアが開いた。
降りたその場所は、ランガも何度かスケート——プラスアルファ——のために訪れたことがある愛抱夢の別荘だ。ランガは目を輝かせた。
よし! ここならまた思い切りスケートができる。そう思うとかなり嬉しい。
ふたりを降ろした車は、そのまま走り去っていった。
屋内に通されたランガは、自分のスケートボードと荷物を床に置いて、愛抱夢に尋ねた。
「それで、俺に何の用。こんなところでないと話せないこと?」
「そんな急かさないでくれないかな。まずは汗を流そう。バスタブにもう湯は張ってあるからね」
「それから?」
「ふたりともちゃんと睡眠をとる。睡眠不足の働かない頭では話しても無駄だろう。それで目が覚めたらブランチにしよう。そのときに話すよ。それとも今お腹すいている?」
ランガは首を横に振った。
「大丈夫。Sで軽く食べたから」
「そう。では君が先に入って。バスローブが置いてある。あとパジャマと下着も用意してあるからね」
それなら「一緒に入ろう」と提案した。だってその方が効率がいい。もうこんな時間だし、ふたりともなるべく早く寝たいのだから。
ところがすぐにあるだろうと思っていた愛抱夢からの返事がない。不思議に思って彼の顔を見たら、なぜだろう。目を丸く見開いて、口をパクパクさせていた。
「愛抱夢?」
「僕が君と風呂に入る。一緒に?」
「そうだよ。それなら時間がかからない。ここのバスルーム広いから問題ないだろ。それとも俺と一緒だと嫌なの?」
「そんなことあるわけない。でもいいのかな?」
「いいのって、どうして? 宮古島では、暦だけじゃなくて、シャドウや実也やジョーやチェリーとも、みんなで温泉入ったよ。諸事情で臭かったけど。日本には温泉、銭湯文化があって〈ハダカノツキアイ〉っていうんだろ」
「そ、そ、そうだね。そうだったよね、ここ日本だしね! ははは……」
しゃべりの抑揚が不自然だったり、おかしなところで声が裏返ったり——今の愛抱夢は明らかに普通ではない。
ランガは眉を寄せて、ぬっと顔を近づけた。
「大丈夫? なんか疲れているとか?」
「そんなことないよ。さあ入ろうか」
愛抱夢はバスルームへと向かい、ランガも続いた。
やはり妙だ。バスルームに入ってからもアダムの挙動は、いつもと違っているように思えた。まず目を合わせようとしない。それ以前にこちらを見ようとしない。洗い場で頭と体をひたすら泡だらけにしていた。
ランガはシャワーで全身の泡を流し、バスタブに入り肩まで沈めた。
こんなふうに洗い場があって、湯を満たしたバスタブはリラックスしたり温まったりするものというのは日本独自のものだ。愛抱夢はそんな日本の風呂が好きだ。ところが暦も母さんもそうだが、沖縄県民は湯に浸かる習慣などないという。愛抱夢が少々特殊なのだろう。
ランガが湯船に入って少ししてから、愛抱夢はバスタブの中へと入ってきた。並んで湯に浸かるが、愛抱夢は相変わらずランガの方を見ようとはしない。いや、チラッチラッと、こちらに向けてくる視線はたまに感じるのだが目が合うことはなかった。
不自然な沈黙が続いている。なんか気まずい。
「ねえ、愛抱夢」と声をかけてみた。
「何かな?」と振り向いた愛抱夢と目が合った。
「えっと、いい匂いだね」とバスローションで白濁した湯を両手のひらですくい上げる。愛抱夢は口もとに笑みを浮かべ「そうだろう。どの入浴剤にするか悩んだけどね。バラの香りで保湿効果の高いものにしたんだ。気に入ってくれたのならよかったよ」とやっと笑った。
口調は、いつもの愛抱夢に戻っているようだった。よかったとほっとする。さっきまでの愛抱夢はなんだったのだろう。
お湯は気持ち良いのだが、あまり長時間浸かっているとのぼせてしまう。断ってもう上がることにした。
「俺先に出ているね」
「僕はもう少ししたら出るよ。冷蔵庫から適当に飲みたいもの選んで水分補給しておいて」
「うん、わかった」
濡れた体をバスローブで包み、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。キャップをひねり、一口喉に流し込む。冷えた水が心地よく喉を潤しながら胃まで落ちていく。
今のうちにとスマホを取り出す。見れば暦からのメッセージが十ほど並んでいた。それも「大丈夫か?」とか「何かされてないか?」とか「警察に連絡しなくていいか?」など、心配しすぎだろう。暦に返信した。
〈こっちは問題ない 今シャワーを浴びてこれから寝るところ また報告する〉
汗もひいたことだし、とパジャマに着替えた。そのタイミングで愛抱夢がバスルームから出てくる。
「待たせたね」
「愛抱夢は、いつも長風呂だよね」
愛抱夢は冷蔵庫からボトルを取り出しキャップをひねった。
「僕はぬるま湯にじっくり浸かってリラックスしたいんだ。全身の疲れが取れるよ」
「そうなんだ……」とあくび混じりの声が出た。時計を見ればもう夜が明ける時間だ。
「眠そうだね」
もちろん眠い。気を抜いたらここに倒れ、そのまま気を失ってしまいそうなくらい。
「うん」
「では寝ようか」
ゲストルームに案内され、そのまま這うようにしてベッドに潜り込んだ——ところで記憶は途切れた。
思いっきり熟睡した。目が覚めたときは、案の定、陽は高く登っていて十一時を過ぎていた。胃の辺りに手を置けばグゥーと空腹を訴えてくる。
お腹すいた……。
フラフラしながらドアを開けたらいい匂いがした。見れば愛抱夢がダイニングテーブルの上に食事を並べていた。ますますお腹がすいてきた。
「おはよう。よく眠れたかい?」
「おはよう」
「ブランチの用意はできている。顔を洗っておいで」
「わかった」
黙々と食べた。ケータリングで適当に見繕って届けてもらったと説明を受けたけど、サラダもスープもスパニッシュオムレツもパエリアも、どれもこれも美味しい。お腹が落ち着いたところで、気になっていたことを訊いてみた。
「あの、どうして俺を連れてきたの?」
「ああ、説明しないとね。今日は何月何日?」
「えっと」少し考える。「五月一日だけど」
彼は目を細め、ふふふ……と意味ありげに笑った。
「そうだね。実は僕の誕生日なんだ」
「え?」
どうしよう。プレゼントも何も用意していない。自分の誕生日にはプレゼントもらっていたのに。
「ごめんなさい。忘れていて」
「謝ることはないさ。それに君が忘れていたんではない。そもそも僕は君に誕生日を教えた記憶はないよ」
そうだった。確か誕生日プレゼントくれて、愛抱夢はいつ? って訊いたのにはぐらかされたんだ。仕方ないから今度ちゃんと訊くつもりだったのに、ずっと訊きそびれていた。すぐに訊いておけばよかったと後悔した。
「でも、それなら家族が祝ってくれるんじゃなかったの?」
「そうだね。準備はしてくれていたみたいだけど——だからこそ自分の誕生日に家へ帰りたくなかったんだ。君と共にこの日を過ごしたかった。どうしても」
「用意までしてくれているんだよね。大丈夫なの?」
「問題ないよ。僕の仕事が仕事だし。付き合いも仕事のうちってね。帰れない理由のでっちあげは忠が上手くやってくれているだろう」
ランガは黙った。愛抱夢の家族についてをランガの方から尋ねたことはなかった。ランガの世界はまだ狭く、自分の家族や知り合い——たとえば暦の家族——くらいしかイメージできていない。愛抱夢は何も言わないし、今のランガは愛抱夢から見ればきっとあまりにも幼く頼りない。そんな子供が彼の複雑な問題に立ち入って役に立つとは思えなかった。
でも、だからこそこの人の誕生日に何かしてあげたいと思った。愛抱夢が喜ぶことを。
「あの、俺、あなたに何か誕生日プレゼントしたい」
言えば意外な言葉が返ってきた。
「もう十分もらっているよ」
「え? 俺何も上げていないけど……」
愛抱夢は目を細め唇の端を上げた。
「君をもらったんだ」
あ……そういうことか。
「それで赤いリボン?」
「そう。それっぽい雰囲気出すための演出だ。自分で自分の気分を盛り上げようと思ってね。他人からどう見られるかなんてどうでもいい。君は鈍いから気づかないだろうことも想定済みだったよ」とウインクをしてきた。
「そういうことだったんだ」
「勘違いして欲しくないのは、ランガくんを自分のものにしようってことじゃないよ。今日一日ふたりきりで過ごせたらそれで十分。君が甘えてくれれば、なおのこと嬉しいけど、そこまで贅沢は言わないさ」
甘えてもらうのが贅沢という理屈がよくわからなかった。もっと大人になればわかるのかもしれない。
「でも、それだと俺が……」
「君の気が済まないのかな?」
「だってあなたの誕生日だよ。だから何か俺にできることあったらちゃんと言ってほしい」
「そうだな。今できること、ひとつあるよ」
「何?」
「僕にキスして」
「キス? キスくらいいつもしているじゃないか。今日は誕生日だからその先も、とか希望はないの?」
反射的にとんでもないことを口走ってしまったような気がする。羞恥に頬が熱くなり、思わず目を逸らした。愛抱夢は落ち着いて返してくる。
「そうしたいのは山々だけど。赤毛くんに約束してしまっただろう。手を出さないってね」
「うん」
「黙ってもらっていたところで君は嘘が下手だ。きっとすぐにバレる」
暦に嘘は言えないし、いつだって本当のことを伝えておきたい。
「そうだよね」
愛抱夢はテーブルに肘をつき、組んだ指の上に顎を乗せ笑った。
「そういえば気づいていたかな。ここへ来てからの君の言動は、僕に多大な自制心を強いたんだよ。無自覚だろうけど」
「えっと」
また何かやらかしたのだろうか。
「風呂だよ。一緒に入っただろ」
「あ……」
いや、それは暦や他の皆とも一緒にはいったことあったくらいのことだし。そんな重大な問題だろうか。
「僕が君の裸を見るのはじめてだったんだよ。本当はじっくり君の体を眺めていたかったんだけど、そうも言ってられなかった。なるべく見ないようにして気を紛らわせるしかなかったんだ。しかも君はといえば、はじめて見るだろう僕の裸の体を意識している様子はなかった。赤毛くんたちスケート仲間と同じ扱いだったんだなって思うと少々落ち込んだ」
納得した。それで昨晩は様子が変だったんだ。自分の鈍感さが腹立たしい。
「ごめんなさい。無神経だった」
「謝らないで。君のそういうところも愛しいと思っているんだ」と、すっと手を差し出した。
「こっちに来て」
言われるままに近づけば、腰を掴まれグイッと引き寄せられる。バランスを崩したランガは彼の膝の上にちょこんと収まった。そのままふたりは、しばし見つめ合う。
「キスする?」
「してくれるの?」
愛抱夢の輪郭を両手のひらで包んで顔を近づけた。唇が触れる。柔らかく温かい——愛抱夢の唇だ。口を小さく動かしながら、その感触を楽しんだ。うっすら開いた唇から歯列を割り、舌を忍び込ませる。熱い舌と舌が絡み合った。キスは少しずつ深まり無我夢中で貪りあう。不意に愛抱夢はランガの肩を掴んで強く押し、唇を外した。つーっと引いた銀の糸がきらりと光った。
「約束を考えると、これ以上は危険だよ。君も親友を裏切りたくないだろう」
「そうか」
わかっているけど名残惜しい。ランガは体重をかけ愛抱夢の肩に頭を乗せた。髪を梳く彼の指の優しさに目を閉じる。
「君は、キスの先とか思いつきで言っていたけど、本当のところは、よくわかっていないのだろう」
「そんなこと……」
体を起こし、反論しそうになったけど黙った。今更背伸びをする必要などないのだから。
「知っているのかな。そんなわけないよね」
当たり前だ。経験なんてないんだから。実体験のない年頃の男子高校生が皆そうであるように、ただ、どこからともなく仕入れた真偽の怪しい知識があるだけだ。思わず唇を尖らせ愛抱夢から目を逸らした。
今の自分は彼の目にどんなふうに映っているのだろうか。きっと、むくれた子供なんだろう。そう思うと少し悔しいし悲しくなる。だって仕方ないじゃないか。生きてきた時間が違うのだから。
「わかっている癖に、わざわざ俺に言わせようなんて、あなたは意地悪だ」
ふふ……と小さな笑い声が聞こえ、大きな手のひらでランガの頬をはさみ顔を近づけてきた。
「決めたよ」
ランガを見つめる深紅の瞳が不穏な光が帯びはじめる。射るような視線を向けられ息を飲んだ。
「次にランガくんと会ったとき、僕はもう自制心を働かせない。僕は僕の欲望に正直になるよ。だから君はそのつもりでいて。嫌だったら僕に会おうと誘われても断ることだ。いいかい。これは大人の僕から、まだ大人になりきれていないだろう君への忠告だ」
「わかった」
頷くしかなかった。
目を閉じれば今の愛抱夢の言葉が耳の奥で再生される。その声音はあまりにもエロティックで、まるですごい滑りをしたときのように鼓動がうるさく体の芯が熱く疼いた。
——ねえ愛抱夢。次に会えるのはいつ? いつ会える?
了