以心伝心
「ほら終わったぞ。また違和感があったら言えよ」
メンテナンスを終えたスケートボードが暦から手渡された。
「ありがとう。俺が手間取っていたところをこんなに簡単そうに。さすが暦だ」
工具の片付けをしてる暦が振り返りニッと笑った。
「何ごとも慣れだよ」
「うん。少しずつ自分でできるようにしたいけど、まだ暦みたいに上手くいかない」
プシュッという音が聞こえ顔を上げれば、暦がコーラのキャップを回し隣に腰をかけてきた。
「このスーパーメカニックな俺とタメを張ろうなんて十年早い」
「何だよそれ」
「それよりさ、おまえ愛抱夢と付き合っているのか?」
暦はなんか大真面目な顔をして唐突な質問をしてくる。〈付き合っている〉というのは日本では恋愛関係にあるのかという意味であることが多いらしい。自分と愛抱夢はそういう関係ではない。
「誘われて断る理由がなければ会うだけだよ。暦との先約があればそっちを優先しているよ」
「会って、おまえら何しているんだよ」
「スケート」
「いや、それだけじゃないだろう」
「食事とかフラメンコ教室に連れていかれることもあるかな」
「それだけか?」
「う、うーん。遅くなってそのまま愛抱夢の別荘に泊めてもらったこともあった」
ぶーっと暦はコーラを吹いた。
「汚いなぁ、暦」
暦は手の甲で口元をゴシゴシ擦ってから「って、なんかされなかったか?」と慌てた様子で両肩を掴み顔を近づけてきた。
「何言ってんだよ。俺が暦の家に泊めてもらって同じ部屋で寝たこともあったじゃないか。同じことだろ」
「そ、そりゃそうだけど。あ、あいつはアレだから……」
語尾が消え入り、モゴモゴと口の中で何かを言っている。一体何を考えているのか。
「アレってなんだよ」
「いやまあ、おまえのその反応だと別に何もなかったようだな。とりあえず安心したけどあいつのことは用心しておけよ」
「用心って?」
意味がわからなくてランガは眉を寄せ暦の顔を覗き込んだ。目が合った暦は気まずさそうに人差し指でボリボリと頬を掻き、視線を宙で泳がせている。
「それは、あんなイカれたやつとよく一緒にいられるよなぁって、思ったというか……」
「そうかなぁ。そこまでイカれているとは感じないけど」
「おまえはあいつのスケートにしか興味なかったから、あのイカれ具合見えていなかったのかもな」
「確かに最初、愛抱夢はすごいスケーターだとしか見ていなくて。どういう人間かなんて意識したこともなかった」
難しい顔をしてランガは唸った。
「まあ気にすんな」と暦はランガの肩に手を置いた。
「気にしてないよ」
「なんでおまえが愛抱夢に平気で会っているか不思議でさ。でも子供じゃないんだし俺がどうこう言う問題じゃないんだよな。俺、長男だからつい癖で。ジョーにも『おまえは過干渉だ』って言われたのにな。余計なこと訊いちまって悪かった」
「いいよ。謝らなくても」
膝に置いたスケートボードに視線を落とした。オレンジ色の〈FUN〉の文字を指でそっとなぞってみる。これのおかげで帰ってこられたのだ。暦のいるここへと。
ではどうして愛抱夢に会っているのだろう。断る理由がなかったからと、あまり深く考えていなかった。しかし、それだけではない。自分は愛抱夢に会いたくて会っているのだ。
トーナメントでの暦と愛抱夢の準決勝。純粋に速さだけを競って先にゴールするだけだったのなら、雨が降り出す前に愛抱夢の勝利で決着はついていただろう。でも、愛抱夢にはどうしても暦を叩き潰さねばならない理由があったのだ。結局、愛抱夢はビーフに勝利したものの、暦を排除することには失敗する。
あのときの泥にまみれた愛抱夢は勝敗とは関係なく、惨めな敗者の姿を晒していた。そして暦が暗に指摘したことを認めざるを得なくなる。
——ひとりぼっちだと言ったな。その通りだよ。僕の世界には僕しかいない。だがすぐにふたりになる。
その瞬間、ランガは、はじめて愛抱夢の内面に目を向けたのだ。
それからずっと愛抱夢の言ったことが引っかかっていた。決勝戦までの間、その意味を考える。
ひとりぼっちだと言っていた。でもそれなら愛抱夢はなんでスケートしているんだろう、と。そのことを暦に漏らせば「楽しいからだろ! スケートするのにそれ以外あるのかよ」と何の迷いもなく明るく言い切った。きっと相手が誰であってもどのような状況であっても、同じ答えを暦は返してくるだろう。特に愛抱夢というスケーターを鑑みてのことではない。それでも暦の答えが圧倒的に正しいのだ。間違いなく。
誰であってもスケートをするのにそれ以外の理由はあり得ないのだから。
決勝戦で愛抱夢にいざなわれ入り込んだ虹色に輝くあの不思議な空間。後からあれをゾーンというものなのだとチェリーから説明された。そのゾーンこそが愛抱夢の言う〈僕の世界〉なのだろう。彼にとっての素晴らしい——でも愛抱夢ひとりしかたどり着くことのできなかった世界。
よく似たところをランガは知っていた。
父さんが死んでから、ひとりで滑るスノーボードだ。何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。何も楽しくなくなった。あの場所でランガはどうしようもなくひとりぼっちだった。それで滑らなく——いや滑れなくなった。スノーボードから降りれば少なくても母さんがいる。
ある日、母さんが沖縄に帰ろうと思うと言い出した。沖縄は雪が降ることはないけれど、一緒に来るかランガの意思を確認してきたのだ。もう滑ることがないのなら雪の降らない沖縄に行っても関係ない。スノーボードのことは、どうでも良くなった。ただ唯一の家族になってしまった母親を大切にすることだけ考えようと決めたのだから。
スノーボードから離れることに迷いはなかったけれど、父さんとの思い出に蓋をしてしまうような気がして悲しかった。
——でも、だからこそ暦と出会えたのだ。
それなら愛抱夢は? 孤独であったとしても、俗世に戻る選択肢は愛抱夢にはなかったのだろう。そこがランガとは違う。アダムにとっての現実世界はもっと辛く耐え難いものだったのに違いない。愛抱夢ひとりしかいないあの世界を素晴らしいと思えるほどに。しかしだからこそ、ひとりぼっちは寂しかったのだろう。
——それで俺を連れて行こうとした。
胸が締めつけられた。
愛抱夢の抱える孤独は自分のそれとは次元が違うように思えた。
ゾーンだというあの世界で、ランガの意識は完全に愛抱夢の支配下にあった。言葉は交わしていない。ただ深いところで直接愛抱夢の心に——魂に触れた。言語を介さず。そんな気がする。
崖から落ち、ぼんやりと死を受け入れてしまいそうになったとき、〈FUN〉の文字——ボードの裏に暦がペイントしてくれた——が目に入り思いっきり腕を伸ばしていた。その瞬間、掴み取ったボードの確かな質感を手に感じ、崖を滑り降りるウィールの振動音をはっきりと耳にする。ゾーンから脱しこの現実世界に戻ってくることができたのは暦が導いてくれたからだ。
そして、自分の意志で再びゾーンの中へと引き返し、無我夢中で愛抱夢の手首を掴み引っ張り出していた。あんな楽しくないところに、置き去りにしてはいけないと思ったから。
愛抱夢はまるで駄々っ子のように抵抗した。あんな彼を見たことがある人はいるのだろうか。そう考えると、ちょっと面白い。
感情をむき出しにした愛抱夢とランガは、全身全霊で激しくぶつかり合った。全てを曝け出してのほぼ殴り合いのようなものだ。ふたり同時にノックダウンからのビーフ再開。
愛抱夢は、やはりすごいスケーターだった。並走する愛抱夢にチラリと視線を送った。仮面の外れた彼の横顔は綺麗で、その表情はすっきりとしていた。もう大丈夫。心配ないと確信した。
ビーフは、ランガの勝利に終わった。
仲間が集まっての祝勝会に、赤い薔薇の花束を持った愛抱夢が上空からパラシュートで乱入してきた。食べることに夢中だったランガ以外、皆ちょっとしたパニック状態に陥る。楽しかった。それからカナダへの墓参りで父さんに近況報告。暦との幻の決勝戦。と慌ただしく時間は過ぎていった。
その間、ずっと気になっていたことがひとつある。あの決勝戦以来、胸に何か小さな欠片のようなものが残されているような奇妙な感じがしていた。それは何かの拍子にチリチリとした痛みを与えてくる。その度に愛抱夢のことを思ってしまう。きっとこれは彼がランガの心に落としていった忘れもの。
そんな気がして、ランガは痛みが走った胸に手を当て、目を閉じた。
了