目覚まし時計

 手首に目をやれば、時計の針は夜の九時を回っていた。予想より手間取ってしまった。さらに帰宅後いくつかやっておかなければいけないことがあるのだ。何時に寝ることができるのか、あまり考えたくない。それなのに明日ゆっくり寝ていられるわけではない。

 スマホを取り出し「もうすぐ着く」と同居相手にメッセージを入れた。


 ドアを開ければ明るい玄関にホッと息を吐く。

「ただいま。ランガくん」

「おかえりなさい」と玄関まで出迎えてくれたランガはするりと愛之介の首に腕をまわし、チュッと触れるだけのキスをしてきた。

 ああ、これだけで癒される。一日の疲れが吹っ飛ぶよ。

 見ればランガは、パジャマに着替えていて、もうすっかり寝る準備を整えていた。普段の彼の就寝時刻は比較的早い。その年頃の若者らしいゲームやネットのせいで夜更かしのような習慣はないようで、沖縄にいたときも夜中に起きているのはS開催の日くらいだったと彼は言う。

「ご飯ちゃんと食べた?」

「食べたよ。君は?」

「食べた」

「僕はまだ仕事が残っていているんだ。風呂に入ってから片づけるけど、何時に寝られるのかわからない。君は気にしないで先に寝ていて。明日も朝から講義あるんだろ?」

「うん。そうさせてもらうけど、ちゃんと起きられる? 目覚まし時計セットするの忘れないで」

「目覚まし時計はあまり気が進まないな。あんな音に叩き起こされるなんて無粋だと思わないかい? 朝の目覚めかたひとつで一日のコンディションが違ってくるんだ」

「そうなの?」

 そんな会話の流れから、ちょっとしたアイディアが閃いた。

「そうだよ。だから明日も気持ちよく目覚めたい」

 ランガは眉を寄せて考え込む。やがて何か思いついたのか顔を上げた。

「じゃあ前みたいに、モーニングコールをスネークに頼んだら?」

 なぜそうなる。もう随分前に忠から起こしてもらうのは卒業したと言ってあるはずなのだが。だいたい君がここにいるのに、どうしてモーニングコールという発想になるんだ。

「あいつに起こされても午前中いっぱいくらいは調子が出ないだろうな。もっと簡単な方法があるだろう」

「えっと……」

 彼はますます難しい顔になって首を傾げている。ランガに空気を読めというのは難易度が高かったか。仕方ない。はっきりと言おう。

「ランガくん。僕は君に愛情たっぷりな方法で優しく起こしてもらいたいんだ」

「なんだ。だったら最初から明日は起こしてって言えばいいだろ? で、何時に起こせばいいの?」

「七時半で」

「わかった」

 そのあっさりさ加減。本当にわかっているのか。もしかすると「愛情たっぷり」が、聞こえていなかったのかもしれない。不安になって念を押す。

「愛情たっぷりだよ。愛情たっぷりな方法で起こすんだよ。君はほんとに理解している?」

「愛情くらいわかるよ。母さんが俺を起こしてくれたみたいに——でいい?」

 彼の母、菜々子の息子に向ける優しい眼差しが目に浮かんだ。彼女にはランガと同居するにあたって何度か会っている。愛情溢れた母子の関係は羨ましくもあった。

 ああ上出来だ。

「じゃあ俺、もう寝るね。おやすみなさい」

「おやすみ、ランガくん」

 おやすみのキスをして、ランガは自室へと入っていった。

 それから残りの仕事に取り掛かり、なんとか体裁が整う程度に書類をまとめ終え、寝ることができたのは午前三時近かった。照明を落として目を閉じればすぐに深い眠りに落ちていった。


 シャッと遮光カーテンが開けられる音が聞こえると同時に、閉じた瞼に朝の光を感じた。眩しい。反射的に布団を引っ張り上げ頭からかぶった。

「起きて。七時半だよ」

 遠くにランガの声が聞こえる。あと十分いや五分でいいから寝かせておいてほしい。

「ねえ、起きてよ。愛抱夢、遅刻するよ」

 無視して目を閉じていると、今度は肩を掴まれグラグラと雑にゆすられた。意識は覚醒しつつあるのだが体が重く起き上がれる気がしない。頼む。あと三分でいいから、そっとしておいてほしい。っていうか、君は僕の話を聞いていたのか。愛情たっぷりな方法で起こすって約束したじゃないか。

「もうっ!」という大きな声と同時に思い切り上掛け布団を引っ張られた。思わず布団にしがみついたのだが、そのままズルズルと力任せに引きずられ、ドシンという音とともに衝撃が走った。何が起こったか理解するまでに数秒を要した。布団と一緒に床へ転げ落ちた——いや落とされたのだろう。

「いてて……」

 流石に目が覚めた。起きるしかない。

「大丈夫? 愛抱夢」

「まあなんとか」

 額にかかる前髪を搔き上げ顔を向ければ、霞んだ視界に心配そうな表情で覗き込む青い瞳が見えた。そんな顔をするくらいならもっと手加減してほしかった。

「朝ごはんの用意できているけど、先にシャワー浴びてから?」

「そうさせてもらおう」

 シャワーのバルブを締め、ふぅーと息を吐いた。濡れた髪から滴り落ちていく水滴をぼんやりと見つめる。やっと頭がすっきりとしてきた。


 ダイニングテーブルにはパン、サラダ、オムレツという定番の朝食メニューが並んでいた。ランガが無言でカップにコーヒーを注ぎ愛之介の前に置く。

「ありがとう」

 見ればランガはすっかり身支度を整えていた。

「君はそろそろ大学へ行く時間かな」

「あと十五分くらいしたら出るよ」

「ではひとつ質問だけど、ランガくんのお母さんは、いつもあんなふうに君を起こしていたの?」

「うん。最初は普通に声をかけて、カーテンを開けて、次に体を揺すってくるんだ。それでだいたい目が覚める。でも一度だけそれだけでは起きられなくて、毛布引き剥がされたことがあるんだ」

「なるほどね」

 自分はその最終手段まで起きようとしなかったらしい。自業自得とはいえ、もう少し優しく起こしてくれても良さそうなものなのに。

「愛抱夢さ、俺がカーテン開ける前に声かけていたの、気づいていた?」

「いいや」

「それで、あの……午前中いっぱい調子が出なさそう? 目覚めかたひとつでコンディションが違ってくるって言っていただろ。俺の起こしかた悪かったかなって……」

 彼は申し訳なさそうに目を伏せた。

「そんなことはない。愛情たっぷりに起こしてくれたのはわかったよ。ただ次はもう少し優しく起こしてくれると嬉しいかなって」

「わかった。頑張る」

 朝の光の中で見せられた彼の笑顔が眩しくてしばし見惚れていた。

 手のひらを上にして手首をくいっと曲げ「カモーン」のジェスチャーをする。素直に従ったランガの襟足をすかさず掴んで引き寄せ桜色の唇にキスをした。その柔らかい感触と弾力を少しの時間堪能してから唇を外す。名残惜しいが——

「続きは今夜ね。今日はなるべく早く帰る。では行っておいで」

 ランガは少し頬を赤らめ、小さくうなずいた。