靴音

 そのリゾートホテルのカフェレストランにはテラス席がありプライベートビーチへと続いていた。白い砂浜とエメラルドグリーンの南国リゾートだ。ビーチで海水浴を楽しんでいる人たちはホテルに宿泊する観光客なのだろう。水着姿で海に入るなんて観光客だけだと前に暦たちが教えてくれた。沖縄県民は海で泳いだりしないという。海に入ったとしてもTシャツを上に羽織りせいぜい膝下ほどの深さで水遊びするくらいで、中には水着を持っていない人もいるという。しかも日差しの強くない朝方にしか入らず、こんな炎天下で直射日光を浴びるなんて自殺行為やるバカは観光客くらいだと。宮古島で海水浴したときは真っ赤になって痛くて酷い目にあったことを思い出す。特に女子たちは美容に悪いと日焼けを嫌う。もっとも中には海に入る気などないのにファッションで水着姿になって本土から遊びに来ている女の子に声をかけまくるナンパ男もいるらしい。そんなのジョーを見れば納得だ。

 サンシェードで日陰になっているとはいえ、ここは高温多湿の沖縄だ。とにかく蒸し暑い。ひたいにじわりと汗が滲む。ランガは冷たいアイスティーを喉に流し込んだ。

 と、そのとき——

 タッタタターン。

 軽快なステップを踏む音にランガは顔を上げた。控え目(当社比)にフラメンコのポーズを決めた男がウインクをしてくる。ランガの口元から笑みがこぼれた。今日も機嫌は良いようだ。

「こんにちは。愛抱夢」

「やあ、お待たせ」

「そんなに待ってないよ」

 日本人の平均身長から考えれば上背のある彼はゆったりとした歩幅で歩く。足音の特徴としてはそのくらいかもしれない。でも機嫌がいいときは今のような靴音を聞かせてくれる。それは、こちらの気持ちまでウキウキさせてくれるような——そんな陽気な音色だった。

 フラメンコは愛抱夢の趣味だ。ランガが愛抱夢とはじめてビーフで対戦したとき、ボードの上で踊っていた、あのステップはフラメンコのものだったのだろう。実際ロングボードの上でステップを踏みダンスするように滑るというスケートボードの技はあるらしい。それでもあんなダウンヒルコースでやるヤツなどいないと暦は呆れながらも感心していた。

 そしてフラメンコは、ランガが愛抱夢と個人的に会う——というかデートするようになったきっかけだった。そう思えば感慨深い。日中の街中でばったり会い、そのまま車に引きずり込まれ、気がついたらフラメンコ教室で踊らされていたっけ。

 ランガに少し遅れてランチを食べ終えた愛抱夢がすっくと立ち上がった。

「さて、行こうか」

「どこへ?」

 愛抱夢はその日の予定を前もって教えてはくれない。サプライズが好きだからという。

「観劇」

「カンゲキ?」

「フラメンコと琉球舞踏がコラボした舞台の公演があるんだ。スペインから有名なダンサーも参加する。先生からチケットを何枚か買わされたからね。一緒に行こう」


 舞台は圧巻だった。

 琉球舞踏とフラメンコ——の強引な合体技のようではあった。演目は琉球の伝統芸能である組踊「執心鐘入」をアレンジしたものだという。この話も全然知らないし舞台を見てもストーリーはチンプンカンプンだった。

 公演が閉幕したあと、一緒に食事をした。

「え? 愛抱夢も何を言っているかわからなかったの?」

「ところどころね。台詞は古い琉球語や首里方言だからあまり馴染みがない。ストーリーは有名だから台詞なくてもわかる」

「そうなんだ」

「どんな話かは、今度ゆっくり解説してあげよう。他に何か感じたことある?」

「あ……そうだ。フラメンコなんだけど。靴の音が違ったなって。音がすごく響いて綺麗なんだ」

「そうか。君はフラメンコの舞台そのものを観ることも初めてだったね。舞台だとあんな感じだよ。フラメンコの靴は打楽器なんだ。音楽に合わせ音を鳴らすもの」

「でもフラメンコ教室ではあんなに音はしないよね。プロのダンサーでないから? それとも遠慮している?」

「そうではなくて。本番用のフラメンコシューズにはつま先とかかと部分に釘が打ちつけられている。でも床が傷むとか騒音の問題とかある場合、釘なしの練習用シューズを使うんだ。君と一緒に行ったスタジオはフラメンコだけではなくて他のダンス教室もやっているから、練習用シューズを履くことになっている。やむなくね。先生は練習でも本番用シューズを使えるよう独立してフラメンコ専用スタジオを作りたいって言っているよ」

「へえ、知らなかった」

「それにね、ただ鳴らせばいいというわけではない。こういったふうに演奏しようと決めてダンサーはギターの音に合わせ踊りながら靴で床を叩き音を出すんだ。靴音だけで四種類ある。足裏全体で打つゴルペ、かかとを使うタコン、足先を力強く落とすプランタ、つま先でコンと軽く鳴らすプンタ。これらを十二拍子に合わせメロディを奏でる——ほら楽器だろう」

「す、すごい」

 あの靴音にそんな意味があったのか。愛抱夢はごく自然にそれを身につけているんだ。

 愛抱夢は目を細め、ふふふ……と笑った。

「どう? フラメンコを本格的に習おうって気になってくれたかな?」

「えっと……」

 愛抱夢が通うフラメンコ教室には、その後二回ほど顔を出したけれど、正式に習おうという気には、まだなっていない。

 情熱的なギターの演奏とあの靴音が耳にこびりついている。胸に手を当てれば心臓が激しく鳴っていた。自分はまだあの舞台を引きずっていて興奮が冷めていないんだ。舞台用シューズを履いた愛抱夢は、どんな靴音を聞かせ踊りを見せてくれるのだろう。

「ねえ、ランガくん。僕は君と踊りたいんだ」

 考えるより早く、ランガは無言でうなずいていた。