忘れかけた記憶

「いい天気だね。こんなに暖かくても冬なんだよね」

 ランガは額に手の甲を当て晴れた空を仰いだ。

「カナダはすごく寒いんだろうね」

「もう雪が積もってスノーボードとかウインタースポーツのシーズンだよ」

「カナダが懐かしい?」

「少しね。雪山で見る晴れたときの空って沖縄の青空と色が違うんだ。もっと青が濃くて深い——暗い青っていうのかな」

「ああ、それはわかるよ。僕も旅行したとき色が違うって思ったから。空中にある水蒸気量や光の強さの差なのだろう。多湿である沖縄の空は明るい水色、空中に粒子が少ないカナダの冬山の空は、深い群青だ」

「へえ。——雪がないとできないスノーボードと違ってさ、スケートっていつでもどこでもできる、すごいって思っていたけど、それは雪が降らない沖縄だからで、雪が積もったら室内でしか滑れないんだよね」

「それはそうだよ。雨が降ったときも難しいけどね。それで、スノーボードが恋しくなったのかな?」

「たまにね。スノーボードは父さんとの思い出がたくさん詰まっているから。今は、スケートで満足しているけど」

「カナダに行くのは難しいけど日本でも本土にスキー場がたくさんある。時間ができたら一緒に行こうか。僕は初心者になるから君に教えてもらわないとね」

 ランガは瞳を輝かせ身を乗り出してきた。

「それいい。できれば暦——だけじゃなくて実也やシャドウやチェリーやジョーたちとも一緒に滑りたいな。みんなどんな滑りをスノーボードでするのか興味がある」

 やはりそうきたか。もちろん想定済みだ。

「そうだね。その前にふたりでスキー場の下調べに行こう。皆をガッカリさせたくないだろう。どうかな?」

「わかった」

「よし決まりだ。ところでスノーボードとスケート、君から見てやはり似ている?」

「似ているけどやはり違うかな。もし今カナダにいてスノーボードやっていて、それでも暦からスケート教わったとしたら——」

 彼は顎に指を当て少し首を傾げた。

「教わっていたとしたら?」と先を促す。

「きっと両方やっていた。スノーボードのできないシーズンはスケートをして、雪が積もってスケートできなくなったらスノーボードしていたような気がする」

「確かにスノーボーダーでもオフシーズンはスケートで活躍する選手もいたね。それにスケートを夏場のトレーニングとして採用するスノーボーダーは多いよね」

「ねえ知っていた? スノーボードは上半身、スケートボードは下半身の筋肉をより使うんだ。似ているようで鍛えなくてはいけない筋肉が違う。だからスケートやりはじめのころ結構筋肉痛がしてびっくりした」

「面白いね。——ところでランガくんとしては、スケートとスノーボードどっちが好きかな?」

 ランガは眉根を寄せ口を尖らせた。

「そんなの比べられないよ。まったく別のものだし」

 言いながら、スケートボードボウルへ勢いよく飛び込み滑り出した。

「愚問だったか」と苦笑う。

 滑るランガを眺めながら、前にふたりで交わした会話を思い出していた。


 きっかけはランガに、誰からスノーボードを教わったのか、という当たり障りのないはずの雑談だった。「父さんだよ」と彼は答える。寂しげに目を伏せる彼に少々慌てた。ランガは続ける。

「スノーボードは楽しくて大好きだった。でもあの日――父さんが死んだあの日から、楽しさがわからなくなったんだ。何も感じなくなった。あんなに楽しかったのに、楽しい思い出が俺の中から消えた。なんだろう。楽しんでいる俺と父さんがいたことは知っている。その記憶と楽しいが繋がらない。ただ寂しくて悲しくなるばかり。気がついたら滑らなく——いや滑れなくなった。世界って一瞬で変わってしまうものなんだね」

 ランガの話に胸が強く痛んだ。同情ではない。ただ、世界がガラリと変わってしまうその瞬間を愛之介も確かに経験しているのだ。

 スケートとスノーボードの違いはあれ、愛之介もランガも滑ることが大好きだった。そしてふたりともそれが永遠に続くのだと疑いもしなかった。でもそんな楽しい日々は、ある日突然、なんの前触れもなく唐突に終わりを告げてきたのだ。

 その日、ランガはスノーボード——滑る楽しさを教えてくれた父親を失った。死別という形で。片や愛之介はスケートを教えてくれた唯一心を許していた幼馴染を失った。裏切りという形で。そうして、ランガにとってのスノーボードと愛之介にとってのスケートは、ふたりに耐え難い苦痛を突きつけてくるものになった。孤独という。

 死別と裏切り。失い方が違えば孤独との向き合いかたも違っていた。


 そんな感慨に耽っていたとき、ランガがボウルの外へと着地しスケートボードを蹴り上げ掴み、愛之介の正面に立った。

「俺さ、暦にスケートを教えてもらってスケートの楽しさを知ることで、忘れかけていた滑る楽しさを取り戻すことができた。でも、せっかく取り戻せたのに沖縄ではスノーボードできないから——もう一度雪の上を滑って確かめたいんだ。そうしたら、もっと前へ進めるような気がする。だからスキー場でスノーボードができること楽しみにしている」

「君ならいくらでも遠くへ行けるさ」

 ランガはニコッと笑った。

 そうか。ならば、自分も確認しなければいけないこと、向き合うべきことがあるのではないだろうか。


「はい? 私とですか?」

 顔を上げた忠は怪訝な顔をしていた。

 一通りの報告と打ち合わせを終えたタイミングで切り出していた。

「ああランガくんが、おまえとビーフをやりたがっている」

 これは嘘ではない。ランガは何度か「俺さ、スネークと滑りたいんだ。キャップマンだと無理なのかな。なんとか滑る方法ないの?」と愛之介に訴えていた。他ならぬ彼の頼みだ。なんとかするしかないだろう。

「はい。それとこれとどういう関係が」

「せっかく滑ったとしてもおまえの滑りが期待はずれだったらどうする? ランガくんをガッカリさせたくないんだ。それで今のおまえのスケート技量がどれほどのものか僕が直々に確かめようと思ってな。ということで一緒に滑る機会を作りたいのだが」

「それは構いませんが、ビーフですか?」

「いや、勝負ではない。ただ滑るだけだ。ギャラリーも邪魔だ。その上で僕がおまえの滑りをチェックする。現時点のスケートの腕前がどうであれランガくんにとって一応おまえは僕のスケートの先生ってことになっているらしい。不本意だが。おまえだってみっともないところを見せたくはないだろう? まあちょっとした親切心と思ってくれればいい」

 ほら、礼でも言ってみろ——というこっちの心を見透かしたように「それはお気遣いありがとうございます」と忠は軽く頭を下げた。犬のくせに心を読むな。腹立たしい。

「スケジュールの調整はおまえに任せた。適当にセッティングしておいてくれ」

「はい」

 言うだけ言って忠から顔を見られないように背をむけ、窓から外を眺める。明るい青空が広がっていた。

 スケートは、無邪気な子供にとってただ楽しむだけの純粋な遊びだ。幼少期の愛之介にとってスケートは唯一「楽しい」と思えるものだった。それがあの裏切りで「楽しい」を失った。人は変わるものだと思い知った。ならば捨ててやるしかないだろう。変わってしまうだろうもの全てをだ。

 大人になった今なら理解できる。当時の忠の立場ではどうにもすることはできなかったのだと。だとしても許すことはできない。一度壊れてしまったものが元に戻ることはないのだ。

 あのトーナメント決勝戦で。

「滑ろう。ひとりでは楽しくない」

 目を閉じればあのときの光景が脳裏に映し出される。満月の光を背に受け、スケートボードを差し出すランガの姿が。それは清らかで美しく神々しいとすら感じた。そして思い出していた。

 ——一緒に滑りませんか?

 膝を抱え、誰にも見られないよう庭の隅で泣いていた幼い自分に手を差し伸べた忠のことを。

 あの瞬間、自分は確かに光を取り戻していたのだ。

 再スタートしてからのランガとのスケートは不思議な感覚だった。浄化されていくようだった。体が楽しいと喜んでいた。でもどこか意地になってそれを否定しようとした。「負けることは許されない。勝たなければ愛されない」と己に強く言い聞かせて。

 それなのに鮮明によみがえるのは——青空の下、光あふれる庭でまだ子供だった忠と滑るスケートだった。子供特有の甲高い笑い声を響かせながら。ふたり同時に障害物をオーリーで飛び越えた。プールで頑張って決めようとしたトリックなのに派手な尻餅をつきふたりで大笑いする。楽しくて楽しくて、あのころ目に映るものすべてがキラキラと輝いていた。そんな忘れてしまったはずのものが次々に想起されていった。

 とうに捨てたはずの、色褪せ消えて行く寸前の忘れかけた記憶。

 確かめなければ。だから今一度おまえと滑ろう。忠。