渇望

 愛抱夢所有のマンションに居候させてもらっている。このマンションは東京と沖縄を行ったり来たりしている彼が在京中に滞在するいわば別宅だ。ランガの進学タイミングに合わせて購入を決めたというのだが、大学まで近くてとても助かっている。でもきっとそれは表向きで少しでもふたり一緒に居られればとわざわざ用意したものなのだろう。厚意には甘えることにして、そのことを確認したりはしなかった。

 同居しているとはいえ、愛抱夢が沖縄に帰っている間ランガひとり東京に残される。さらに仕事柄忙しい彼といつも一緒にいられるわけではない。その夜も。

「何時になるかわからないから先に寝ていて。この埋め合わせは必ずするから」

 いいよ気にしなくて——と言ったものの、さっきまでのウキウキした気分は消し飛んでしまった。

 ずっと会えなかった。愛抱夢は海外へ視察ということでしばらく留守にしていて——いやその前から忙しくすれ違いの毎日だった。今日の帰国で久しぶりに顔を見られるはずだったのに。もちろん今夜中には会えるのだが、彼がここにたどり着くのはかなり遅くなるだろう。

 部屋を掃除をしたり、花を飾ったりもした。あとは軽食でも用意して彼の帰りを待つばかりだった。それなのにこれだ。

 ダイニングテーブルの上を片づけている間、知らず知らずのうちに何度もため息をついていた。

 それでもあの人の仕事が仕事なのだから仕方ない。彼が悪いわけではないと自らに言い聞かせ、シャワーを済ませ寝巻きに着替えベッドで横になり部屋の照明を落として目を閉じた。イライラしながら待つより眠ってしまった方がいい。


 頬にあたたかい息がかかった。

 帰ってきた——と半分夢の中で考える。夢かもしれないけれど。

 髪に触れる指の感触と、ほのかなタバコと汗のにおい。間違いない。気分を落ち着かせてくれる愛抱夢のにおいだ。今夜は飲んでいないようでアルコール臭は感じなかった。

 上着を脱いでいるのだろう衣擦れの音、シュッとネクタイを引き抜く音、ハンガーにスーツをかけているのだろうカタッ……という音が静かに響く。

 そして気配は遠のき、バスルームのドアがパタンと鳴った。

 やがて聞こえてきたシャワーの水音を耳に、ふっと意識は遠のき、ふたたび夢の中へ。


 うつらうつらしていれば、まだ湿り気を帯びた体がベッドの中へと、もぐり込んできた。いつものボディーソープとシャンプーの香料がもわっとした湿気とともに鼻腔に広がった。背後から引き締まった腕が抱き締めてきて、背中に彼の胸が重なる。鼻先でうなじにかかる髪をかきあげ唇が吸いついた。くすぐったい。

 それと同時にパジャマの裾がたくし上げられ手が滑り込んでくる。彼の手のひらは、へそ周辺からみぞおちをなぞり、胸をなで始めた。やがて乳首を探し当て、指の腹でそっと押さえソフトに捏ね出した。

 うなじかかる吐息は熱っぽく、耳元で聞こえる息遣いが妙にせわしない。困ったなと少し悩む。目を開き「おかえりなさい」と声をかけるタイミングを失ってしまった。

 帰ってきてから名を呼ぼうとしないのは、起こさないようにと気を遣っているからなのか。いや、もしそうなら、こんなことをするのは矛盾している。目が覚めてしまうじゃないか。まあいいけど。

 やがて彼の指は下へと降りてくる。布地越しに外もも、そして内ももをなでさすり、股間の膨らみを大きな手のひらがやんわりと包んだ。

「あっ……」と思わず腰を浮かせれば「ふふふ……」と楽しそうな笑い声が耳元に響いた。

 やっと声が聞けた。電話越しではない愛抱夢の笑い声だ。

「起こしちゃったかな。それとも僕が帰ってきてから実はずっと起きていて、眠っているふりをしていたとか」

 首を回し薄く目を開ければ体を起こした彼が上からのぞき込んできた。ランガも続いて上体を持ち上げる。

「あなたが帰ってきたの夢かもしれないって思うくらいには寝ぼけていたよ。おかえりなさい。久しぶり愛抱夢。会いたかった」

「僕もだよ。フライト中、気を抜くと君を抱くことばかり考えていた。ただいまランガくん。いい子でお留守番していたかな?」

「いい加減子供扱いはやめて」

 文句を言えば愛抱夢は楽しげに笑い顔を近づけてきた。後頭部を掴まれ唇にあたたかい息がかかる。

 最初から噛みつくような激しいキスだった。いつもならば軽い触れ合うだけのキスからはじまり徐々に深みを増していくのに。侵入してきた舌が口腔内の敏感なところを意志を持った生き物のようになで回した。そして熱い舌と舌をからめ強く吸ってくる。急激に増す昂りにランガも彼に抱きつき夢中で食らいついていった。痺れるような快感に脳が侵され、意識がぼうっとしてくる。

 唇が外され大きく息を吸って吐いた。彼はランガの着ているパジャマの裾をたくし上げ頭と腕から引き抜き、次にパジャマのパンツを下着ごとまとめて引き下ろす。すでに起きあがった熱いものを手のひらで包むようにふわりと握られ「ヒッ」と変な声が出た。

「もうこんなになって」

 からかうように言われランガは愛抱夢の股間に目をやる。彼はベッドにもぐり込んできたときから何も身につけていなかった。薄闇の中で目を凝らせば、充血し堂々と反り返った陰茎には血管が浮き上がり今にもはち切れそうに見えた。

「人のこと言えないでしょう」

 彼の屹立したものに唇を寄せようとすれば愛抱夢はランガの髪を掴みそれを制した。

「どうして?」

「ランガくんはこの時間いつも眠っているだろう。だから何もしなくていいよ。何なら眠っていてくれて構わないさ。僕は時差ぼけで、どうせ眠れそうにないしね。勝手に君で遊んでいるから」

 俺と、ではなくて俺で、遊ぶ? 何を言っているんだ。この人は。

 訝しげに眉を寄せるランガを気にする様子もなく、ベッドサイドチェストからローションのボトルとコンドームふたつを取りだし「はい自分で着けてね。もう慣れたでしょう」とひとつ手渡してきた。

 眠っていてもいいって眠っていられるわけないだろう——と首を傾げ、とりあえずコンドームを装着した。まあいいか。こっちから何もしなくていいのなら何かしろと要求されるより楽だ。

「ひとつお願いがあるんだけど、何もしなくていいけど君は感じるまま振る舞うんだ。声を押し殺す必要はない。ここはどんなに大声を張り上げても外には漏れない。嫌だったら暴れて抵抗しても構わないし泣き叫びたければそうすればいい。本能、欲望に動かされる君を僕に見せてほしい。いいね?」

「わかった」と反射的に返事をしてみたものの、さっぱりわからない。

 ベッドに横たえられたランガの上に熱い体が覆いかぶさり唇が頬から鎖骨へと降りていった。くすぐったさに身をよじる。愛抱夢はランガの膝裏を掴み上げると肩にかけた。それから彼はローションを取り、ランガの尻を左右に開き濡れた指を差し入れローションを塗り込んでいく。それから自分のものにもコンドームの上からローションをたっぷり垂らした。

 両膝がグイッと胸に押しつけられ、剥き出しになった尻に熱く猛ったものが、いきなりあてがわれる。

 おや、と思う。いつもならば時間をかけじっくり入り口を柔らかくほぐして準備をしてから挿入するのに今回はさらっとローションを塗ったくらいだ。

 ふと目が合った。次の瞬間、愛抱夢の口端がクイっと持ち上がり浮かんだ笑みに不穏なものを感じ、ランガの中で緊張が走る。強く体重をかけられ、いきなり愛抱夢が入ってきた。痛みを伴いながら。入り口をこじ開け、押し戻そうと抵抗する粘膜をねじ伏せ蹂躙していった。

 ランガは混乱し、拒み、抵抗する。こんな愛抱夢を知らない。

「待って、愛抱夢——痛い。止まって」

 抗議しても彼は応えない。聞こえるのは荒々しい息遣いだけ。容赦なく貫かれ、悲鳴をあげ、のしかかる体を跳ね除けようと試みるがガッチリと押さえ込まれていてびくともしない。闇雲に腕を振り回し叩いてみても彼の動きは止まらなかった。

 そうだった。嫌だったら暴れて抵抗してもいい——確かにそう言ったけれど、やめてくれるとは一言も言っていなかった。この体勢では愛抱夢が手心を加えない限り逃れることは不可能だ、とランガはようやく理解する。諦め彼に何もかもを明け渡すしかなかった。全身から力が抜けていく。

 熱く昂る肉の凶器がランガの体を強引に押し開いていった。

 はじめての感覚——快感。ランガ自身が知らなかった深淵へ。暴かれ曝け出されていく体と心。喉の奥から漏れ出す喘ぎを抑えられない。

 そうだった。声を押し殺すなと言われていたんだ。

 ふと愛抱夢の動きが止まった。薄目を開ければ上から深紅の瞳が見下ろしていた。仄かな光を逆光にして、彼のシルエットが浮かび上がる。乱れた髪。額に浮かぶ汗。たくましい腕。肩から胸にかけての無駄のない綺麗な筋肉。結局、この人には逆らえない。

「そうだ。それでいい。いい子だ」

 彼は満足げにほほ笑んで優しくキスをすると、ふたたび腰をゆっくりと動かはじめた。

 ベッドが軋みリズミカルに音を鳴らす。体をずらし角度を変え、たまに焦らしながら巧みに快感の波をコントロールしていった。愛抱夢が漕ぐたびに、だらりと投げ出された手足が揺さぶられる。

 ふと気がつけば痛みは消えていた。甘く痺れるような快感が襲いかかる。それは突き上げられるたびに膨れ上がり熱いうねりとなって腰から背中を駆け上がっていった。声は掠れ目に涙が滲む。自分の体が自分のものでないみたいだ。

 何度も何度も快楽の頂点が訪れ、触れているところからふたりの境界が崩れていくようだった。思考はバラバラになり何もわからなくなっていく。

「愛抱夢……俺……もう……」

 朦朧とした意識で、何かを必死に懇願していた。

「そう。ではフィニッシュだ」

 言うなり、愛抱夢はしなりを効かせたペニスで腹側の敏感なポイントを一突きした。その刹那、甲高い鳴き声がランガの喉を震わせ、白濁した熱い液体をコンドームの中に吐き出していた。

 それから少し遅れて深々と埋め込まれたものが熱く脈打つのをランガはぼんやりと感じていた。


 何時だろう。まだ夜明け前、真夜中は真夜中だ。

 ランガは愛抱夢の腕の中で目を閉じていた。胸と胸を合わせお互いの鼓動を聞き、吐息を分かち合う。

 落ち着きを取り戻すとランガは、くるりと体の向きを変え愛抱夢に背中を向けた。それでもまだ彼の腕に閉じ込められたままだ。

「怒っている? 自分勝手だったことは謝るよ。ずっとランガくん不足だったんだ。君が欲しくて欲しくてたまらなかった。だから大目に見てほしい」

 愛抱夢は何か謝ってくるけれど、そういう問題ではない。

 ランガは混乱していた。こんなぐちゃぐちゃになった思考では、まともに話すことはできない。頭がおかしくなりそうな感覚だった。押さえつけられ身体の自由を奪われ、乱暴に突っ込まれ一方的に支配され犯されて、男としての尊厳を奪われる。屈辱を感じていいはずなのに強い快感に悶え、一回の行為で何度もいかされた。それはどこまでも受動的な感覚で——女の人がイクというのは、こういうことなのかとわかってしまった。

(でも俺は……)

 愛抱夢の指がそっと髪をなでた。

「拗ねているの?」

 首をまわし見下ろす愛抱夢を睨みつける。

「俺、男だよ」

 彼は驚いたように目を見開き瞬いた。

「当然だよ」

「でも……」

「嫌だった?」

「うるさい」とランガは髪をもてあそぶ愛抱夢の指を払い除け、枕に顔を押しつけた。

「嫌でなかった自分が嫌なんだ」

 くぐもった声を絞り出した。 

 わかっているんだ。もう後戻りはできないことなんて。だって体が覚えてしまったから。この人の肉体を。この人とのセックスを。そして今、暴力的に犯されることの快楽と支配され身を委ねてしまうことができる悦びを知ってしまった。

 でもそれは愛抱夢だからだ。相手が誰でもいいわけではない。この人でないと駄目なんだ。そのことに少しだけ安堵する。

「ねえランガくん。君はまだ若いんだから急いで答えを出さなくてもいい」

 あなただって国会議員としては最年少で弟分扱いされていただろうが——という憎まれ口を呑み込み続く言葉を待つ。

「男か女かという以前に君は馳河ランガでありスノーだ。それさえ忘れなければいい。僕は君ほど綺麗な人間に会ったことはない。それだけじゃないよ。逞しくて強くて——すごい滑りをするスケーターで、誰よりもスケートを愛している」

 スケート——その言葉に耳がピクリと反応する。

「明日——ってもう今日か。丸一日ふたりで滑ろう。思いっきりヘトヘトになって頭の中が真っ白になるまで滑り込めば時差ぼけなんて吹っ飛んで、夜眠れるようになると思うんだ。つき合ってくれるかな」

 ランガは枕から頭を持ち上げ「わかった」と答えた。

「じゃあ寝ようか。明日のスケートに響かないようにね」

「あ、俺で遊ぶの禁止ね」と一応釘を刺しておく。

 愛抱夢は「しないよ」と苦笑しながら額にキスをしてきた。

「おやすみランガくん」

「おやすみなさい」

 久しぶりに愛抱夢と思いっきり滑れるんだ。そう思うとモヤモヤした気分も少しは晴れる。明日がとても楽しみだ。ランガは愛抱夢の肩口に頬を押しつけ目を閉じた。