傷痕

 何かが腕をもぞもぞと這うようなくすぐったさに、まぶたがピクピクと動いた。隣に寄り添う体温に首を回せばシーツに片頬を押しつけたランガが目に入る。自分はといえばいつの間にか寝てしまったらしかった。見れば肘を曲げた自分の腕が彼の目の前にあり、内側の柔らかい皮膚を白い指が撫でていた。身じろげば、気がついて顔を上げたランガと目が合った。

「起こしちゃった?」

「気にしなくていいよ。少しうとうとしていただけだから」

「最近終わったあと寝ちゃうこと多いよね。三十分くらい寝てまた起きるけど。疲れてる? 睡眠不足かな」

 今ふたりとも何も身につけていない。毛布にくるまり並んでベッドの上に横たわっていた。ランガは話している間も愛之介の腕——手首から上の内側の箇所を熱心に撫で続けていた。そこには昔——幼い頃につけられた傷痕が、まだ薄く残っている。

「ここのところ忙しくてね。——それより、そんなに目立つ?」

 訊けば彼は首を横に振り、片肘をつき上体を軽く持ち上げた。

「よく見ないとわからないよ。俺も最近気がついたくらいだし」

 それはそうだろう。幼い頃に教育を父から任されていた伯母たちからの体罰だった。肉がえぐれるほどの傷ならば残るだろうが、擦り傷やミミズ腫れや打撲痕など、色素沈着がしばらく残っていたとしても年数が経てばほぼ消える。それでも意識してみればうっすらとした傷痕が確認できる。あくまでも目を凝らせばのことだ。

「痛い?」

「いや別に痛くはない」

「そうなんだ。たまにさすっているからてっきり痛いのかと思った」

「僕がさすっている?」

「うん」

 腕を持ち上げ前腕の内側を見せ「ここを?」と指で差した。

「そうだけど、もしかして自分で気がついていなかった?」

 困惑して言葉を失い、しばし見つめあっていた。

「知らなかった」

「愛抱夢は子供の頃の怪我だって言っていたよね」

「そうだね」

 嘘ではない。なぜ怪我をしたかまでの話はしていないだけで。

「よく見ないとわからないくらいの痕なのにちょくちょく触っていたから気になった」

「それは」と言い淀んだ。

「別に話さなくてもいいよ」

 手を滑り込ませランガの体を抱き寄せる。彼の頭が裸の胸に収まった。素肌をあたたかな吐息が掠める。

「それ、愛の証なんだ」

 ランガの髪を撫でながらスリープライトに照らされた天井をぼんやりと眺めた。わかっている。自分は解放されていないのだろう。まだあの時間に支配されたままだ。

 幼い愛之介にとって父や伯母たちは絶対だった。

 優秀だと賞賛される子供でなければいけなかった。学校の成績だけではなく教養としてやらされていた習いごと全てにおいてトップであることは当たり前。さらに神道家の嫡子として恥ずかしくない立ち振る舞いも求められた。礼儀作法に厳しかったが、ごく幼いときは誰だって間違えることはあるだろう。子供なのだから仕方ない。次は気をつけよう——などという甘えは許されなかった。

 そして定規が振り下ろされることになる。ヒュッという空気を切り裂く音に続いて腕に衝撃が走るのだ。パシっと。

「私たちは愛之介さんが憎くてこんなことをしているわけじゃないのよ。あなたを愛しているからこうするの」 

 愛されていたから。将来的に恥をかかないように、神道家の後継者にふさわしい立派な大人にならなくてはいけないのだからと、その痛みでもって伯母たちは教えてくれたのだ。

「ありがとうございます。愛してくださってありがとうございます」

 当時の愛之介はその愛を疑わない。愛はいつでも痛みを伴うものだった。

 手首から上、腕の内側の柔らかい皮膚にいくつもの赤い筋が刻まれ血が滲んだ。裂傷はミミズ腫れになりヒリヒリと痛む。しばらくすれば痛みは消え痣となりそれもやがて薄くなっていく。だがその痣が消える前にその上から新しい傷が刻まれる。その繰り返しだった。

 今から思えば、学校の教師もクラスメイトも当然気づいていたのだろう。半袖の制服と体操着だった。包帯を巻いていたとしても、おかしいと思わないはずはない。しかし神道家の問題に、口出しできる度胸のある教師などいるはずもなく、大人たち誰もが見て見ぬふりをした。

 そんな伯母たちからの愛は、やがて形を変える。小学校も高学年になり愛之介の身長が伯母たちを超えたあたりから腕に新しい傷が刻まれることはなくなっていた。それは多分愛の形が変わったからだ。一切の反論を許さぬ高圧的な愛に。しかし、もうすでに愛之介の中で肉体の痛みと愛を切り離すことは難しくなっていた。

 腕にヒリヒリとした痛みを感じ、同時に「愛抱夢!」と耳元で響く声が、愛之介を現実に引き戻した。何度か目をまばたいてピントを合わせる。青い双眸が真上から見下ろしていた。

 腕の内側を恐る恐る触ってみるが、痛みはない。

 ——幻痛?

「大丈夫? 目を開けたまま寝てたの? ほんとうに疲れているみたいだね」

「寝ていたわけではないはずだが」

「もう、三回目に耳元で大声出したらやっと返事したんだよ」ランガは視線を少し下げ「また腕触っている」とむすっと唇を尖らせた。

「そこ子供のころ怪我したって言っていたけど、誰かにやられたの?」

「やられたというのとは少し違う。僕のことをとても愛してくれていた人たちが僕のためにそうしてくれたんだ」

「だから愛の証?」

「そういうこと」

「その人たち本当に愛抱夢のこと愛していたの?」

「もちろんだよ。僕は愛されていた」

「ふうん。愛抱夢がそう言うのならそうなんだね」

 ランガはそれ以上追求せずに再び胸の上に頭をのせた。

 そんなふうにしか愛してもらったことはない。ならば自分も同じような愛し方をしてしまうかもしれない。

 もちろん大人になった今では、彼女たちがやったことは愛とは関係ない行為であると知っている。識者を講師に招いて開催される児童虐待についての勉強会では、どれほど些細な暴力であっても否定されていた。今は「愛とは何か」という宣伝が行き届いていて、愛するが故の体罰など否定されているのだ。伯母たちの愛が嘘ではなかったとしても、やったことはただの暴力で児童虐待でしかないと判断されるだろう。そんなこと知識としては十分すぎるほど理解している。

 それゆえ自分の知識や理解に基づき正しい愛を語ることは容易かった。

「私達の愛は日本を救う」

 いいスローガンだと自負している。

 それでも識閾下深く食い込んでいる痛みと切り離せない愛と、実感の伴わない正しい愛が自分の中に混在しているのだ。

 ランガを愛している。彼を愛おしんできた今までの行為は、演技なのかわからなくなっていた。どれほど正しいと言われる愛を体現し演じようが、いつか馬脚を露わしてしまうのではないか。それが怖い。

「君はどう思うかな?」

 前提を説明せずに唐突な問いかけをしてしまうが、返事はなかった。代わりに胸の上でスースーと穏やかな寝息が聞こえてくる。苦笑すると同時に、埒が明かない話題でランガを混乱させなくて済んだことに安堵していた。

 ランガを胸からそっと下ろしながら上体を起こす。視線を落とせば白い裸身が無防備にさらされていた。毛布を引き上げ胸までふわりと掛け、額にかかる水色の髪を指でどけ唇で触れる。


 僕は君を失いたくない。だから誰からも——僕からも傷つけられないよう君を守ろう。


 床の上に誰かが全裸で横たわっていた。うつ伏せの状態で手首を頭上にまとめて拘束されている。脚から尻、腰そして背中へのラインを目でなぞっていく。白い背中から腰にかけて鞭打たれたような赤い筋が何本も痛々しく刻まれていた。片頬を床に押しつけピクリともしない。乱れた水色の髪に隠され顔は見えない。だが……。

 ——ランガくん?

 思わず駆け寄ろうとしたとき声が聞こえた。

「どうしたの? ちゃんと言わないと駄目じゃないか。愛してくださってありがとうございます、とね」

 顔を向ければ男が隣に立っていた。男が振り向き目が合った。息を呑む。青い髪、赤い瞳、薄く笑う口元。この男は自分自身——神道愛之介だ。

「僕のランガくんに何をするんだ」思わず詰め寄る。

「おまえのではない。これは僕のだ。だからこうして愛してやっていただけだ」言いながら横たわるランガの近くまで歩み寄ると、しゃがんで顔を背中に近づけた。そして赤い血が滲む生々しい傷に唇を這わせていく。男は顔を上げもうひとりの自分に向かって、すっと手を差し出した。

「おまえも本当はこうしたかったんだろう? 遠慮するな。こっちへ来いよ。僕たちはもともとひとつなんだから」

 赤く濡れた唇の両端を吊り上げる。

「違う」と声を絞り出した。

「何が違うものか。気取ることはない。紳士のふりなどするな。わかっているくせに。これがおまえの本性じゃないか」

 男はランガの背中の傷に爪を立て流れる血を拭った。そして血で赤く濡れた指を舌を出しペロリと舐め邪悪に笑う。口内に鉄の味が広がった。


「やめろーーっ!」


 自分の叫び声で目が覚める。数回まばたきを繰り返せば薄闇の中、よく見知った天井が見えた。全身に汗が滲み胸の鼓動がうるさく響く。なんという悪夢。大きく息を吸って吐いてを繰り返し乱れた呼吸を整えようとした。

 落ち着け。所詮夢だ。

「愛抱夢?」

 首をひねればランガが心配そうに見つめていた。

「ランガくん、大丈夫か?」

 口に出してから、まだ意識が混濁し夢と現実の区別がついていないらしいことに自嘲する。

「それ、こっちのセリフだよ。うなされていたし、いきなり叫ぶしで。怖い夢でも見たの?」

 違いない。

「ああ、怖かった」

 ゆっくりと体を起こし額の汗を拭う。ランガも起き上がり「はい」とミネラルウォーターのペットボトルを押しつけてきた。

 ボトルに口をつけ一気に半分ほど飲んだ。

「どんな夢?」

「君を傷つけてしまう夢」

 ランガは軽く首を傾げ愛之介の腕の内側を指で触れた。

「あなたが傷つけられたようにして?」

「ああ」

「寝る前にあんな話をしていたからかな」

「そうかもしれない」

「愛しているから俺のために——ってことだよね」

「もちろんあいつは、そうだったんだろう」

「あいつ?」

「もうひとりの僕だ」

「それは夢だよ」

「そう夢でしかないんだ。それでも僕は怖い。もうひとりの僕も同じ僕だからね。現実でも何かの拍子にそいつが出てきたら……」

 そうなったら際限なく君を傷つけてしまう。

「大丈夫だよ」

 驚いてランガの顔を見れば自信満々の表情だ。

「何を根拠に……」

 薄明かりの中で瞳はキラキラと輝いている。

「そんなときは俺がイッパツぶん殴って……」と言いながら右手のこぶしで左手のひらをバンと叩いた。「俺が目を覚まさせてあげるよ」

「それでは殴り合いになってしまう」

「そうだよ。それでやるからには俺が勝つから」

 なぜ勝敗の話になる? 頭をかかえうなだれる。思い詰めていた自分が馬鹿馬鹿しくなってくると同時に笑いが込み上げてきた。笑いをこらえ肩を震わせる愛之介の首にランガは腕をからめる。

「実はこれ、ジョーに言われたんだ」

「ジョーが?」

「今の愛抱夢は昔に戻ったって」

 昔ということはあいつらに出会った直後のことか。スケートを愛しスケートを信じ、スケートの楽しさをまだ知っていた。同学年でもあるふたりと青春していた日々。

 ランガは続ける。

「でも、もし愛抱夢がまたおかしくなったら一発ぶん殴って正気に戻してやればいいってさ。俺ならできるって言ってくれたんだ。それでチェリーに『おまえには無理だ』って余計なことを言って、しばらくふたりで口喧嘩していた。ジョーもさ、俺が勝つと思ってくれたのかな」

 いや……それは多分意味が違う。が、あまりにも邪気無く言うものだから訂正する気も失せた。それにわざわざ訂正する意味は多分ない。

「だから心配しないで。あなたのことは俺が守るから」

 胸がズキンとする。それは本来こっちのセリフのはずだ——という言葉を呑み込み「ありがとう」とだけ言った。

 体を離そうとするランガを行かせまいと腕に力を込める。

「もう少し、このままで」

「仕方ないな」

 今はまだ顔を見られたくなかった。なぜなら今にも泣きそうな顔をしているに違いないと思えたから。