眼鏡

「ご一緒してよろしいですか?」

 議員食堂での昼食時、かけられた声に顔を上げればよく知った年若い議員がにこやかな笑みを浮かべていた。最近よく意見を交わすようになった神道愛之介議員だ。

「もちろん構いませんよ。どうぞ」

 自分も三十になったばかりの超若手と言われている。なので年齢の比較的近い彼とは話す機会も多かった。もっとも彼はまだ二十代の若さで県連トップの男だ。いくら堅牢な父親の地盤を引き継いだとはいえ只者ではないと党内でも一目置かれている。もちろん嫉妬からか足を引っ張ろうとする輩もそこそこいるのだが。

 彼は国会議員の中では最年少なのだが、実際の年齢よりは上に見える。下手すると自分の方が年下に見られたりするくらいだ。老けている——というのとも違う。おそらく、その年齢とは思えないほど堂々とした立ち振る舞いと自信に満ちた答弁。要は年齢不相応な貫禄があるのだ。

 政治家になるべくして生まれてきた男なのだろうとわかる。アメリカの有名大学を卒業したという彼はその学歴も申し分ない。それに加えこの容姿だ。整った顔立ちに高身長で長い脚。贅肉とは無縁の抜群のスタイル。古臭い言葉で表現すれば美丈夫といったところだろうか。モデルだと言われても納得してしまうくらいイケメンの若手議員ということで女性ファンが多いこともうなずける。それなのに浮ついた噂ひとつない清廉潔白の男というのも売りだ。各週刊誌やなんとか与党の弱みを握りたいマスメディアが必死で弱点を探り出そうとするのだが、何も出てこない。極めてくだらない「コンビニでスナック菓子を買っていた」とか「そのコンビニの女性店員と親しげに話していた」レベルの記事で大袈裟に煽ることしかできていない。

 いや絶体絶命のピンチだと誰もが思った事件が比較的最近あった。彼を特別目にかけていた大臣も務めた重鎮高野議員が収賄罪で逮捕されたときだ。神道議員も何か関わっているだろうと周辺を洗われたものの結局何も見つからず、最終的に偽証罪の可能性も否定された。それどころか高野議員との繋がりを考え、ここまで綺麗な身でいられるのかと、むしろ評価が爆上がりしたくらいだ。

 また血筋正しい政治家一族生まれの彼はそのことを鼻にかける様子はかけらもない。党内の重鎮に対して歯向かうことこそないが、堂々と臆することなく自分の意見を主張する。しかし同年代の議員に対しては腰が低く、今の地位は神道家という出自があってこそで本当の実力ではないと、常に学ぶ姿勢を崩さない彼の好感度は必然的に高くなる。

 政治とまったく縁がない一般家庭の中からぽっと出てきた自分に「僕は親の七光りで政治家になりました。勉強させていただいています」と謙遜してくるのだ。さらに大きな後ろ盾もなく議員になった自分のことを尊敬しているとまで言ってくれた。

 そんな神道議員は三月末に議員宿舎から引っ越していったばかりだ。新しくマンションを購入したとかで在京中そちらに滞在すると話してくれた。金持ちの二世議員め、と少々やっかみ半分に話題を振ってみる。

「いかがです? 新しい住まいは」

「やっと片付いたところなんです」

「もしかして結婚が近いとか?」とたわいもない冗談を飛ばす。

 神道は軽く肩を上げニコッと笑い、身を乗り出しひそひそ声で言ってきた。

「ナイショですが、実は同棲しているんです」

「え?」と驚いて彼の顔をまじまじと凝視する。

「なあんて冗談ですよ」

 それはそうだろう。いくらなんでも突然すぎる。ホッとして背もたれに体重をかけた。

 食後のコーヒーがふたりの前に置かれる。

「一瞬本気にしましたよ」

「でも、ひとり暮らしではありませんよ。実は知り合いの大学生と一緒に住んでいるんです」

「ほう、それはどういう関係の方でしょう?」と口を滑らせてしまう。まったく余計なことだ。そこまで言うのなら女子大生ということは流石にないだろう。「すみません——プライベートなことについ好奇心発揮してしまって。忘れてください」

「なあに。隠すようなことではありませんよ。その子はカナダ人の父親が亡くなったということで母親の故郷である沖縄に連れられて来たんです。ただ母子家庭ということもあって東京の大学に進学が決まったとしても経済的に苦しいことは想像つきました。そこで僕が引っ越すマンションに住めばいいと提案したんです。ふたりで住むには十分な広さはありますし。とても助けてもらった過去がありましたので恩返しのチャンスだって考えたんですよ」

「そういう事情とは。よほど世話になったんですね」

 神道は目を伏せコーヒーを一口飲み、顔を上げ目尻を下げた。

「ええ、僕は本当に救われたんです。この程度では恩を返しきれない。それほどに」

 想像するにアメリカ留学中のことなのだろう。何があったのかまでは訊かなかったが、その一家に「救われた」とまで言うのは相当なことなのに違いない。彼がどれほど恩を感じているのかはその口調の端々から伝わってきた。

 穏やかな彼の表情を見ていると、変わったなと思う。どこが? と問われると返答に窮してしまうのだが、雰囲気——彼が纏う空気感なのだろうか。この変化に気がついたのは高野議員逮捕の衝撃が落ち着いたあたりからだった。頭のいい彼のことだ。薄々何かに勘づいていたとしても父親が親しくしていた世話になっただろう先輩議員だ。その疑惑を否定したかったに違いない。それなりに苦しんだだろうことは容易に想像ついた。そこから解放され踏ん切りがついたというか吹っ切れたのかもしれない。


 当事者を呼んでのL G B Tに関する勉強会が終わったときだった。何気に神道議員と意見を交わしていた。彼は質問してくる。

「同性婚についてどう考えていますか?」

「もちろん基本的には賛成です。当然得られるべき権利でしょう。同性婚を認めたとして国民にとって不都合は何もない。まあ年寄りには根強い嫌悪感があるから成立させるのは困難でしょうね。代替わりするまで」

 同性婚を頑なに認めたくない年寄り連中を票田としている重鎮たちは、たとえ内心で同性愛者に心を寄せていたとしても、単純に推し進めようと動くことは難しいだろう。

「神道さんは賛成ですか?」

 質問すれば意外な言葉が返ってきた。

「いいえ反対です」

「それはどういう?」

 驚きを隠せないこちらの表情を見て察した彼が、反対の理由を補足してくれた。

「いえ、現行の婚姻制度に単純に当てはめてしまうことが反対と言う意味です。同性婚を認めている国も調べてみると結婚と同じ権利がもらえる、準じた制度と設定しているところも多い」

「なるほど。パートナーシップ、シビルユニオンのような別枠で法的に彼らの權利を保証している、ですね」

「そういうことです。同性のパートナーだからという理由で、異性愛者が結婚で普通に得られる権利を得られないことが問題だと考えています。それを解決する法を新しく整備することが急務で、結婚制度は必ずしも必須ではない。これはあくまでも人権の問題だと考えています」

「法定相続、財産分与、家族として入院や手術の同意や面会……少し考えただけで問題点がいくつも浮かびますね」

「僕は思うんですよ。同性愛者は異性愛者の真似ごとをしたいわけではないと。パートナーとのロマンスを国から祝福してもらいたいわけでも、紙切れ一枚で家同士で繋がっていたいわけでもないんです。ああ、これは愛で結ばれた異性愛者でもきっと同じですね」

 話しているうちに自分の考えがまだ浅かったこと、完全に人ごとであったことに気づかされた。

「これは深くうなずくことばかりです。色々と新しい発見がありました。さて残念ながら今日は次の予定が迫っていますので、この話はまたゆっくりさせてください」

 そう断って腰を上げた。続いて彼も椅子から立ち上がる。

「お忙しいところ引き止めてしまって申し訳ありません。とても有意義なお話ができました」

「こちらこそ。今後も情報を共有していきましょう」

 すっと差し出された手を握る。大きく力強い手だった。

「僕たちはいい同志になれそうだ」


 お囃子の笛や太鼓、威勢の良い掛け声が鳴り響いていた。すごい人混みだった。今日は神社の大きな祭りだったのだ。はっぴを着た男たちが担いだ神輿が商店街の大通りを練り歩いていた。

 所用があって来ていたもののタイミングが悪かったのか良かったのか。この後の予定が入っていないこともあってつい立ち止まって見物していた。こんな機会は滅多にない。

 確か有名な祭りだったと記憶している。取材のテレビカメラも入っていた。

 やがて陽が落ちると、お囃子も掛け声も消え、火入れされた提灯を高く掲げた男たちが荘厳な雰囲気の中ゆっくりと歩を進めて行く。なかなか幻想的な光景だ。

 ふと見物客の中に、見覚えのある長身のシルエットを見つけた。

 あれは神道議員?

 まさかと薄明かりの中で思わず目を凝らした。カジュアルなファッションに一度も見たことのないラフなヘアスタイル。それにサングラスだ。国会議員の神道愛之介と結びつけることのできるものなどマスコミ関係者にもいないだろう。そのくらい普段の彼と印象が異なる。いや正直まだ自分も本当に彼なのか確信が持てない。

 そして彼の隣に立ち楽しそうに笑いかける少年——いや青年に視線を移した。神道議員の方が少し上背はあるがやはり長身で日本人離れしているスタイルだ。なるほど、彼が同居しているというカナダ人の血の入った大学生なのか、と理解する。不思議な透明感のある綺麗な子だと思った。薄暗い中にあってもその美貌は際立っているほどに。

 やがて押し合いへし合い状態の見物客がぎゅうぎゅうと詰めてくる。そんな群衆から庇うように神道が青年の肩を抱いた。青年もなんでもないように神道に顔を向け、ふたりは見つめ合いほほ笑んでいる。なんと優しい眼差しなのだろう。お互いをとても大切に思い合っている。そんなごく自然な空気が伝わってきて思わず口元が綻んだ。なるほど。色々と腑に落ちた。揶揄ったり冷やかしたりできるような関係ではない。

 不意に神道の顔がこちらを向いた。サングラス越しに目があったような気がする。なんとなく気まずい。別に盗み見していたわけではないのだが。と、いきなり彼はサングラスをスッと外して、バサリと髪を振って自分にウインクをしてみせてから「やあ」というように片手を上げた。自分も慌てて笑顔をつくり手を上げる。その様子に気づいた青年は神道に何か話しかけ、そしてペコリと会釈してきた。多分だが「知り合い?」とでも訊いたのだろう。

 これから神社の中で宮司による祈祷と奉納の儀式が執り行われる。この混雑だ。見物は無理そうだということで諦めて立ち去ることにした。神道に向かって「帰るよ」と軽く手を振れば、彼と青年も手を振ってきた。くるりとふたりに背を向け歩きはじめる。

 あの青年は神道と同居する大学生であることは間違いないだろう——それ以上詮索する気はなかった。寄り添うふたりがあまりにも幸せそうだったから。何より政治家ではない彼はいつもよりずっと若く見えた。いやあれこそが本来の彼なのだろう。

 どうやら自分はあの男にまんまとはめられたらしい。彼が親しげに自分に話しかけてきた理由も、同性婚についての見解を尋ねてきた意味もすっきりと繋がる。それでも悪い気はしなかった。自分は稀代の政治家となるだろう神道愛之介にとって信頼に値する人間だったのだと。だからあのときサングラスを外し素顔を見せてきたのだ。そのまますっとぼけることも可能だっただろうに。

 さて。新しい法案の骨子は早急にまとめていく必要がある。やれやれと嘆息する。来週から今まで以上に忙しい日々がはじまるのだ。