町外れ

 その狭い路地で足を止め、派手な電飾看板が立ち並ぶ知らない街並みを呆然と眺めていた。どうやら道に迷ったらしいのだがここはどこなんだろう。すでに陽は沈み周囲はすっかり暗くなっていた。

 それにしても雰囲気が妙だ。商店街とはいえない。もちろん住宅地ではない。小さな低層ビルが無秩序に立ち並んでいた。おそらくなんらかの商業施設。他には映画館か劇場っぽい感じの建物もあった。パブやカフェらしき店も。そしてあのビルはごく小さなホテル。全体的にチープな印象だ。

 ピンクや紫の光が額縁のようにぐるりと囲み明滅している看板に目を止めた。そこに映し出されている写真がどうもおかしい。女の子がにっこりランガに笑いかけているのだが不自然だ。そもそもそんなに胸や太ももを強調する意味があるのか? メイドカフェの一種かと思ったが雰囲気が違うような気がする。本物のメイドカフェは知らないけど。これも日本特有のオタク文化なのだろうか。

 他の看板も似たり寄ったりのけばけばしさで目がチカチカする。それらの看板に書かれている日本語を目についたところから読んでみた。

「すてきな紳士に開発されたい」

「イメージソープランド」

「沖縄で2番目にエッチなお店はこちら」

「安全安心にかわいい女の子と遊ぶなら」

 頭の中で文章を反復してみる。もしかしてこれって噂に聞く風俗なのだろうか? 少なくても学生がいていい場所ではない。

 まずい。なるべく見ないようにしよう。そして早くこの場から立ち去らなければ。来た道を引き返して……と周囲をぐるりと見てみるが、暗くなり自分がどちらの方向から来たのかまったく見当がつかなくなっていた。

 額から汗が滲み心臓が激しく鳴り出す。とにかく落ち着こう。とりあえず一直線に走っていけばここから抜けられるはずだ。

「お兄さん」いきなりかけられた声に振り返れば、スーツ姿の若い男が笑顔を浮かべていた。「うちの店に寄って行かない? 今の時間は早割三千円ポッキリだしかわいい子もつけるよ。ん?」ランガの顔をジロジロと見て「若いね。ここはじめてかな?」と言った。

「あ、あの……ここはどこですか?」

「なんか困っているのようだね。力になれるかもしれないからあっちで詳しい話を聞こうか」と親指でクイっと背後にある店を差した。

「ありがとうございます」

 そのとき、後ろから肩を掴まれ飛び上がりそうになる。

 恐る恐る振り向けば上質なスーツに身を包んだ長身の男が立っていた。

「この子は僕の連れでね。はぐれて探していたんだけどやっと見つけた」そしてランガに視線を移した。「ダメじゃないかこんなところに迷い込んでしまって。ここは子供の来るところではないんだ」

 サングラスをかけているし暗くて顔はよく見えなかったけどこの声は愛抱夢だ。間違いない。

「なんだ。本物の迷子か」と男はつまらなさそうに舌打ちをして離れていった。別のターゲットを見つけたらしくそちらへと近づいていく。

 男が離れると間髪をいれずミニスカート姿の女の子が声をかけてきた。

「素敵なお兄さんたちだー。ねえ、うちの店に来てよ。はい、特別に割引券」と甘ったるい声でピンク色のチラシを差し出してくる。

「どうも」

 反射的に受け取ってしまった。目線を向ければ愛抱夢は眉間にシワを寄せ渋い顔だ。そしてランガからチラシを引ったくると柔和な笑顔をつくり女性に返した。

「今夜は無理だな。この子を探していただけだから。那覇に来てまだ日が浅くてここに迷い込んでしまったんだ。それに彼はまだ未成年だよ」

「そう残念。また今度来て」

「機会があればね」

 言いながら愛抱夢はランガの手首を掴み、ずるずると無言で引きずっていった。

 その風俗街から抜け出してすぐの道に黒塗りの車が停車していた。車の前で男が軽く頭を下げる。スネークだ。愛抱夢の表の顔である政治家神道議員の秘書で、いつも「忠」と呼ばれていたっけ。

「おかえりなさいませ。愛之介様。ご無事で何より」

 愛抱夢はサングラスを外しながら「何を大袈裟な」と返す。

 ランガを一瞥した忠の両口角が少し上がる。

「やはり彼でしたか」

「ああランガくんだったよ。僕が言った通りだろ」

「ほんとうによく気がつかれましたね」

 そこでランガは疑問に思っていたことを訊いてみた。

「あの、どうして俺があそこにいることがわかったんですか?」

 暗がりの中で紅を失くした瞳がランガを見やった。

「ただの偶然だよ。君があの路地に入っていく姿がチラリと目に入ってね。慌てて追いかけた。運が良かったよ」

「偶然?」

 愛抱夢は唇をキュッと結んでうなずいた。

「それより家まで送って行くから乗って」

「はい」

 後部座席にふたり並んで座る。ドアを閉めると同時にエンジンがかかり車が動き出した。

 しばらく顎をつかみ何か考え込んでいた様子の愛抱夢が口を開いた。

「ランガくん。説明してくれないかな。どして君はあんなところにいた?」

「今日は暦と会っていたんだ。用事があるって暦が先に帰って、まだ早いし、なんとなく違う道歩いてみたくなって。そうしたらどこにいるのかわからなくなった。あそこは何なの?」

「歓楽街、風俗街だよ。戦前、空襲で丸焼けになる前は、あの辺一帯は遊郭がある花街だったんだ。その流れかな」

 はなまち? 花屋がたくさんあったのだろうか。よくわからなかったけどここで質問すれば話が長くなる。それは避けたいということで黙っていた。

「風俗ってエスコートとかストリップとかエロマッサージみたいなの?」と訊いたら愛抱夢は驚いたように目を丸くしてランガを見た。

 呆れられたのかもしれない。そんな顔をされるほど無知を晒してしまったのだろうか。カナダで言うところのその辺りかなというぼんやりとしたイメージしかないんだから仕方ない。

「まあ大体当たっているよ」

「よかった」

 そんなに間違っていなかったようでほっとした。

「あそこにあるのは、キャバクラ、デリヘル、ピンクサロン、ソープあたりだね。どんな店であるかはいずれわかるだろう。いずれにしろ日本では売春——prostitutionは違法だ。カナダはどうだったかな?」

「俺もよく知らないんだけど、prostitutionは合法だけど斡旋したり仲介したり客を集めたりはダメだったと思う。個人的に金を払ってセックスするのは大丈夫だよ。確か」

「そこが日本と違うか——って、君と風俗談義をしたいわけではないんだ」

「ごめん」

 ランガは肩をすくめた。

「君は警戒心がなさすぎる。そもそもあの胡散臭いキャッチの男について行こうとしただろう」

「力になってくれるって言っていたよ。親切そうな人だったし」

 愛抱夢は額に手を当て小さくうめいた。

「もし危険な男だったらどうするんだ。店に入っていたらジュース一杯くらい出され、君が口をつけたら法外な金銭を請求されていたのかもなんだぞ」

「そうしたら逃げるから平気だよ。見た目俺より弱そうだったし」

「複数の男たちに取り囲まれたかもしれないんだ」

「あの程度なら五人くらい相手しても問題ないよ」

「確かに君なら五人やそこらから襲われても返り討ちにしそうだ。だとしても敵は素手で来るとは限らないんだ。刃物とかを持ち出すかもしれない」

「刃物——ナイフとか? 日本は安全なところだって聞いていたんだけどな」

 チラリと見れば苦虫を噛み潰したような顔だ。それにしてもさっきからこの人は何を心配しているのだろう。やたらイライラしているように見える。

「それは比較論の話だ。あくまでも他国に比べてで、場所によっては治安の悪いところもある。あそこにある風俗店は一応風俗営業法に則った経営がされている。連中としても摘発はされたくはないからそこまで無茶なことはしてこないはずだ。でも違法なところは見つからないよう地下に潜る。あそこからほんの少し離れた場所にはそんな危ないところがゴロゴロある。そうなるとこっちも手を出せない。だから最大限警戒した方がいい」

「へえ、そうなんだ」と言ってみたものの、どうもピンとこない。

「とにかく今後あそこには一切近づかないように。間違って中に入ってしまってもすぐに逃げること。むやみやたらに人を信じない。自分を過信しないことだ」

 これはもしかして説教されているのか。ここでいちいち反論したり質問していたら説教時間が伸びるばかりだ。それは勘弁して欲しい。なるべく早く切り上げてもらおうと話を適当に合わせることにした。

「わかった。これからは気をつける」

「そうしてくれ。たまたま通りかかったから大事に至らなかったものの、これからも君が無茶なことをして危険な目に遭う可能性を考えると僕は生きた心地がしない」

 芝居じみた動作で愛抱夢は両手で顔を覆いうなだれた。

 いくらなんでも大袈裟だろう。危険かどうかっていったらSの方がよほど危険だと思う。もっともこの人が大袈裟なのはいつものことだ。

 うつむいていた愛抱夢が、ゆっくりと首をひねりランガに顔を向けた。そのとき、街灯の光が入り込み、彼の顔に深い陰影を刻み浮き上がらせた。息を呑む。それは憔悴し切った男の顔——のようだった。演技なんかではない。この人は本気でランガを心配してくれているのだ。

 ランガは急に申し訳ない気持ちになった。愛抱夢の忠告をきちんと受け止めることもなく軽く聞き流していた自分に。

 ランガは愛抱夢と視線をまっすぐ合わせて、謝罪の言葉を口にした。

「ごめんなさい」

「え?」

「心配してくれていたんだよね」

「もちろん心配したけど君が謝ることではない」

「でも俺、愛抱夢に助けてもらったのに、まだお礼も言ってなかった。だから、ありがとう」

 愛抱夢は無言でランガの頭を抱き寄せポンポンと軽く叩いた。愛抱夢の肩口に額を押し付け目を閉じる。

 そんなタイミングで車が止まった。見れば自宅マンションの前だ。

「到着しました」と秘書が軽く振り向き告げた。

「ありがとう」

 ランガは車のドアに手を掛けた。

「エントランスまで送らせて」と愛抱夢も続いて降りる。

 マンション入り口でふたりはしばし向き合った。

「本当に今日はありがとう」

 車中での陰鬱な表情からガラリと変わって愛抱夢はすっきりとした笑顔を見せた。

「どういたしましてランガくん」

 声まで明るい。

「俺、愛抱夢に助けられたね」

「そうだよ。僕はランガくんの恩人なんだ」

 グイッと顔を近づけてきた愛抱夢に「は、はい。感謝しています」と反歩ほど後退った。

「それでね。ランガくん。恩人の頼みを聞く気はないかな?」

「俺にできることなら」

「ではランガくんを丸一日貸して欲しいんだ。もちろん君の嫌がるようなことはしない。何をするかは君の希望を第一優先にするよ。一日中僕と滑るのもよし、美味しいものでお腹いっぱいにするのもよし。どうかな?」

 謎すぎる要求だ。愛抱夢にとって何の得があるというのだろう。

「それが頼みなの。愛抱夢の希望より俺のやりたいことを優先とかおかしくない?」

「そんなことはないよ。僕は楽しそうにしている君と一緒にいたい。それだけで幸せになれるんだ。ということで決まりだ。いいね」

「はい」

 そのまま押し切られてしまった。というかそんな条件ではダメという理由なんて見つけようがない。

「ああ、楽しみだなぁ。スケジュールを調整しないと。また僕の方から連絡しよう」

「わかった」

 視線を下げれば彼の足は陽気にステップを踏んでいる。そのまま踊るようにしてランガから離れると車の前で手を振った。

「おやすみランガくん。よい夢を」

「おやすみなさい」

 喜びを全身で表現するように投げキッスをひとつ飛ばし愛抱夢は車に乗り込んだ。

「ラブアゲイン!」