虹—プリズム—

 暦に誘われて沖縄本島中部にある岬にきていた。

 東シナ海からの強い風に乱される髪を手で抑えながら雄大な断崖絶壁を眺めやる。彼方水平線上では色調の違う海の青と空の青が溶け合っていた。

 暦の父親の解説によると、この崖の高さは三十メートルくらいあり、二キロほど続いているという。

 ランガの想像する沖縄の海とはまったく違う景色は壮観だった。沖縄の海といえば白い砂浜に寄せては返す穏やかな波と透明なエメラルドグリーンのサンゴ礁——と思い込んでいた。でも、この荒々しさはどうだろう。ゴツゴツとした岩に、波が激しく打ち付け、白い波頭が豪快に砕け散っていくのだ。


 最初は二人だけで来る予定だったのだが、それならばと暦の父親が運転手を買って出てくれ、さらに三人の妹たちも一緒に行くと言い出した。急遽、大所帯のドライブとなり、おかげで車中は賑やかで退屈しなかった。沖縄は車社会だから七人乗りのミニバンは家族の多い喜屋武家には必需品だと暦は説明した。

 大家族で恥ずかしいと暦はたまにこぼす。でも何が恥ずかしいのかランガには理解できなかった。実直なお父さん、おおらかで明るいお母さん、おっとりと優しいお祖母さん、かわいい妹たち。正直うらやましいとすら思う。自分に兄弟がいればまた何かが違っていたのだろうか。そういえば暦の父親は、こそっとランガに「息子をよろしく」と言いにきた。あんな息子だけどあれでも面倒見はいいし優しいところがあると。そんなこと、もちろん知っている。


 強風に煽られ散った白い波しぶきに鮮やかな色彩が浮かんだ。思わず声が出る。

「rainbow!」

 首を回せば白い歯を見せニッと笑う暦と目が合った。

「だな」

 飛び散った白いしぶきが太陽光を受け虹をつくったのだ。

「にっじ」「にーじ」「虹ができた」「できたー」と暦の小さな双子の妹たちが両手を上にピョンピョン跳ねながらはしゃいでいる。

「へえ、きれいだね」

 ロリポップをくわえた月日がランガの隣に並び話しかけてきた。

「ランガくんはここ来るの初めて?」

「うん、沖縄に引っ越してから那覇からほとんど出ていないからね」

「だから俺が誘ったんだよ。ここ知らないって言うからさ。そうしたらお前ら騒々しいのがぞろぞろとついてきた」

「何よ、お兄ちゃん。私たちいて邪魔だった?」月日は唇を尖らせ不満顔だ。

 ランガはクスリと笑う。

「賑やかな方が楽しいよ。一緒に付き合ってくれてありがとう。月日ちゃん」

 月日は照れたように「うん、まあ……」と軽く両肩を持ち上げた。ふと目線を下げれば、飽きたのか小さな双子の妹たちがしゃがんで地面に棒で絵を描いていた。

「これにーにー」「こっちはねーねー」

 自然と笑みがこぼれる。ここ——暦と暦の家族はこんなにもあたたかく、いつも自然体でランガを受け入れてくれる。だから人見知りのランガでも居心地がよくリラックスできた。そんな健全な家庭環境の中で暦は育ったのだと今ごろになって思う。

「どうした? ランガ」

「え?」

 不意に声をかけられ顔を向ければランガを覗き込む親友の顔が間近にあった。じっと見つめてくる澄み切った茶色の瞳。

「なんかぼーっとして……っていつものことか」

「ひどいな暦は。なんでもないよ。この景色にずっと見惚れていた」

「久しぶりに見るとやっぱすげーな。俺たちにしてみれば今更だけどさ、満更でもねーだろ?」

「うん、連れてきてくれてありがとう」

 今この瞬間、ランガも暦も暦の家族たちも皆、同じ景色を眺め同じ波の音を聞き同じ風を全身に受け同じ虹を見ていた。赤の他人と感動を共有できる。そんな些細なことが嬉しいなんて、暦と友人になってはじめて知った。

 もう一度海へと視線を戻す。

 岩へと激しくぶつかり砕けた波濤が強風に煽られ、細かい真っ白なしぶきとなって宙空へと高く広く舞い上がっていた。そしてさっき見たものよりずっと大きく鮮やかな虹がアーチ状に描かれたのだ。

「おおー」と観光客のどよめく歓声が響く。

 ランガもその情景に目を奪われ、同時に無意識下に抑え込んでいた記憶が揺り起こされた。ズキンとした痛みに胸を拳で押さえ目を閉じる。

 同じ虹色に輝く——同じ色のはずなのに何も感じない寂しいところだった。一切の生命を拒むような、それでいて汚れのない清浄な世界。それはランガにとって無であり死と同義だった。でもあの人にとってはどうだったのだろう。唯一たどり着いた救いだったのかもしれない。そんなことに今更気づく。

 冷たく輝く虹色に縁取られあの人が振り向いた。

 ——ようこそ! ふたりだけの世界へ

 会いたいと思った。可能ならば今すぐにでも。

 会いたい。愛抱夢。今はただあなたに会いたい。