水溜まり

 窓から外を眺めていたランガが袖を引っ張った。

「雨止んだよ。滑ろう」

 その指にやんわりと自分の手を重ねる。

「止んだとしても一時的なものだ。今夜滑るのは無理だって言っているよね。残念だけどね」

 ランガはムッと唇を尖らせた。

「これから降らないとしても、あれだけの降りだったんだ。コースはぬかるんでいる。水溜りにうっかり突っ込んでみろ。びしょ濡れになればデッキは傷み下手すると使えなくなる」

「じゃあ庭のボウルは?」

「まだ完全に水が捌けているわけない。それ、お友達が作ってくれた大切なボードなんだろ?」

「わかってくれた?」とスケートボードをぎゅっと胸に抱きしめ項垂れるランガの肩を抱く。

 もともと今夜会ったところでスケートは無理だろうなんてことはじめからわかっている。スケート抜きにしてもランガと会いたいと思ったからこうして誘い出した。でも彼はどうだったのだろう。こうしてボードを持ってきたところをみると単純に諦めが悪いのか。もしかすると滑れると信じていたのかもしれない。

「滑れないのなら僕と会う意味なんてなかった——なんて思っている?」

 ランガは首を横に振る。

「そんなことない。そりゃ滑れた方が楽しいけど」

「それなら、せっかくこうして会えたんだから楽しいことをしよう」

「楽しいことって?」

「僕は君と一緒ならなんでも楽しいけどね。君は何をしたい?」

 ランガはしばし考える様子を見せ「楽しいことをしたい」と顔を上げた。

 それは答えになっていない。まあ具体的な楽しいことなど何も思いつかなかったらしい。

 窓の外を眺めているランガがぽつりと言った。

「こっちでは水溜りつくるのは雨なんだよね」

 意味がわからず彼の顔を見れば目が合った。

「カナダだと違うのかな?」

「雨が降ってもできるけど、それより春になって雪が解けてできるイメージなんだ。水溜りって」

「ああ、なるほど」

「日中は暖かくなって雪が溶けてあちこちに水が溜まる。でも夜から明け方にかけてまた冷え込んで、水溜りに氷が張るんだ。それをバリバリと足で踏むのが好きだった。もちろん小さい頃の話だよ。何が面白かったんだろうね」

「そうか。雪が溶けて水溜りができるって——なるほど」

 水溜りといえば雨が降って、もしくは人為的に水を撒いてできるものだ。沖縄で雪が積もることも氷が張ることはないし、週の半分過ごす東京でも滅多に雪は積もらない。

 白い息を周囲に漂わせ、水溜りに張った氷を踏みつけヒビを入れていく小さなランガのはしゃぐ姿が目に浮かんだ。

「水溜りといえば」

 ふと思い出したことを口にした。

「ん?」

「子供の頃の話だけど。自分と同じくらいの年頃の悪ガキどもが、わざと水溜りの中に入っていって遊ぶんだ。雨靴やビーチサンダルでね。びしょ濡れになって水を蹴ったりして。皆泥だらけだったよ」

「愛抱夢はやらなかったの?」

「まさか。服や靴を汚せば叱られるのはわかっていたからね。それにそんなガキっぽい遊びのどこが面白いんだ——とかなり冷ややかな目で見ていたよ」

 水溜りは大人なら避けて通るものだ。けれどあの子どもたちはそんなことなどお構いなしで皆楽しそうだった。きっと心のどこかに自由で伸び伸びとした彼らがうやましいという気持ちがあったのかもしれない。今ではもうわからないが。大人は自分が子供だった頃を忘れ、なぜそんなことが楽しいのだろう? と理解できなかったりする。

 不意に腕をグイッと引っ張られ危うくバランスを崩しそうになった。

「行こう」顔を向ければキラキラとした青い虹彩が愛之介を誘う。

「え?」

「外へ」

「何をしに?」

「水溜りたくさんできているから。今なら遊べる」

「はあ?」

 素っ頓狂な声が出た。いきなり何を言い出すんだ。

「話しているときの愛抱夢、なんだかうらやましそうだったから」

「いや、別に水溜りで泥んこ遊びをしたいわけではなくて。もう大人なんだし」

 ランガにずるずると引きずられながら反論してみるが抵抗しなくてはいけない理由も見つからなかった。

「愛抱夢、子どもの頃家が厳しくて普通の子供の遊びなんてさせてもらえなかったって言っていたじゃないか。やったことないのならやってみようよ」

「ちょっ! ランガくん」

 ついに玄関にたどり着きドアが開いた。しっとりと濡れた庭を見回せばあちこちに水溜りが出来上がっているのがわかった。



「愛之介様、これはいったい何事ですか?」

 忠はランドリーボックスの蓋を持ち上げ、泥まみれの衣類らしきものを掴み上げた。

「ん? まあちょっとした事故だ」

「事故って、お怪我はありませんか?」

「それは問題ないのだが、悪いがクリーニング屋に取りに来るように連絡してくれ」

「それは構いませんが、こちらは愛之介様の服ではありませんね」

「それはランガくんのシャツとジーンズだ。流石に泥だらけの格好で帰すわけにはいかないからね。少々大きいことに目を瞑ってもらって僕のシャツとパンツを貸してやった」

 押し黙ったままの忠を見ないようにそっぽを向いた。少々気まずいのは気のせいだろう。軽く咳払いをしてどうでもいいことを付け足してしまう。

「ランガくんはまだまだ子供だね。いやー水溜りで遊びたいとか急に言い出してね。付き合わされて僕も泥だらけになったというわけだ。まあ水を蹴ってはしゃぐランガくんも実にラブリーだったな」

 そのときのランガの笑顔が思い出されにやけた笑みが口元に浮かんだ。ふと見れば呆れ顔の忠と目が合う。次の瞬間忠はくるりと背を向け、泥で汚れた服を一枚一枚丁寧に袋へと詰めはじめた。何かをこらえるかのように肩が震えている。苦々しく思うが下手に何かを言えば墓穴を掘る。

 ——忠のやつめ、覚えていろ。