歯ブラシ

 少し汚れが目についたので洗面所を軽く掃除した。週二日ほど家事代行サービスに依頼して掃除や片付けを手伝ってもらっているけれど、汚れに気づけば自分でさっと掃除したりするようにしていた。

 ふと二本並んだ歯ブラシに目が止まる。赤い歯ブラシは愛抱夢、水色の歯ブラシはランガが使っている。よく見れば二本とも毛先が少し広がっていた。特に愛抱夢の赤い歯ブラシがかなり広がっている。そろそろ替えどきかもしれない。

 シンプルな形状で色違いの歯ブラシをまとめ買いしてあって、その中からなんとなくのイメージで愛抱夢とランガそれぞれの色を選んで分けている。ランガは買い置きの歯ブラシを取り出し古い歯ブラシをゴミ箱に捨てた。今回、濃い青の歯ブラシとピンクの歯ブラシを選んだ。

 愛抱夢所有のこのマンションに東京の大学進学のタイミングでランガは間借りさせてもらっている。いや同棲といってもいいもかもしれない。

 愛抱夢とランガはそこそこ歳が離れている。 つきあい始めてからランガが愛抱夢を恋人だときちんと認識するようになってからもキス止まりで、ふたりがはじめて肉体関係を持ったのはランガの高校卒業を待ってからだった。

 自分はいつでも良かったのに……と少々焦れったい思いもしたし、Sでの傍若無人のめちゃくちゃさを考えれば妙なところで慎重だったりすることに首を傾げていた。Sを離れれば彼の職業がそうさせてしまうのかもしれないなと今では思っている。

 ここで同棲をはじめてからもスケートをする余裕があればとにかくふたりで滑る。それが基本だったが、そんな夜でも時間が許す限り、求め合いお互いを夢中で貪った。そのころの頻度こそなくなったけれど、 今でも無理のない程度にはセックスをしている。

 互いに気心が知れて相手の生活リズムを理解し、その中でも自分のペースを維持できるようになってから毎日の生活が快適になってくれた。

 今ではセックスはスキンシップの一環なんだと感じている。もちろん快楽を求め性欲を満たすためというのは大きいが、そんな他でもできるようなことだけを求めるのは勿体無いだろう。僕たちはアダムとイヴなんだから——と愛抱夢は言った。

 確かにそうかもしれない。

 だから今では、疲労や時間の問題でセックスできなくても、同じベッドでからだを寄せ体温を感じながら眠るだけでも安心してしまう。そんな関係が心地よかった。

 ジーンズ脇ポケットのスマホがブルブルと振動した。手にとってみれば愛抱夢からだった。

「ランガくん、今どこ?」

「家にいる」

「早かったね。何していたの?」

「午後休講だったから。滑ってから帰っても早かったんだ。今洗面所を少し掃除したところ」

「ありがとう。僕も今日は早く上がる。夕食の用意とかしたかな?」

「うん、これからかな」

「それなら一緒に何か食べに行こう。場所は……地図を送るよ。外食も久しぶりだろう。明日は休みだし……ふふっ……今夜はゆっくり愛し合えるね」

 チュッというリップオンを残し電話は切られた。

 ずっと愛抱夢は忙しかったな——と新しく交換した歯ブラシを眺めながら考える。毛先がこんなになるまで使っていても放置されていたなんて。

 スマホをポケットに仕舞い胸の心臓の上を拳で抑え目を閉じる。

 トクントクントクン……と鼓動がうるさい。切り際に愛抱夢が発したリップオンが耳に残って離れないからだ。しかも何度も何度も自ら脳内で再生している。再生して興奮しているなんてどうしたんだろう。意識しないようにしていたけど、もしかして自分は欲求不満だったのではないだろうか。

 ゆっくり愛し合える——愛抱夢がランガに言ったその言葉の意味を違えることはない。

 そうだね。愛抱夢。今夜は俺も楽しみだ。