憂鬱

 雨は嫌いだ。服や靴は濡れるし汚れるし……丁寧にセットした髪も台無しになる。それだけではなく気圧が急降下するのだから頭痛や気分の落ち込みに悩まされる人は多く自分も例外ではない。気象病というやつだ。

 なにより最大の問題はスケートには最悪なコンディションをもたらすということ。濡れた路面は滑りにくいだけではなくボードが傷むなどスケーターにとって忌々しい天気なのだ。

 と、カーテンの縁が光り少しの時間差でゴロゴロと小さな雷鳴が轟いた。

 冬の雷か……

 やれやれ。雨はただでさえ憂鬱な気分にさせてくれるのに、その上雷とは。嫌な記憶が揺り起こされた。仄暗い闇の中ひとりぼっちの子供が膝を抱える。

 だからこそこんな夜には——スマホを取り出し確認する。思わず笑みが浮かんだ。

 ——良い位置だ。

 それから秘書に連絡をして手短に要件を伝えた。


 ドアホンが鳴った。玄関に向かい両腕を広げ来訪者を歓迎する。

「やあ、ランガくん。よく来たね」

 リビングまで入ってきた彼は、バッグとスケートボードを無造作に置くと少々不満げに口を歪めた。

「あのさ……もう少し早く連絡くれない? たまたま用事がなかったからいいようなものだけど。いつも空いているとは限らないだろう」

「僕が君のスケジュールを把握していないとでも思っているのかな」

「まあそうだけど。でもさ、俺は気にしていなかったけど暦にそれって怖いことだと散々言われた」

「怖いなんてことあるものか。思い人の居場所を常に確認できるGPSアプリ入れているのはお互い様だろう。君だって便利だって言ってくれたじゃないか」

「そりゃ便利とは思うけど……スマホの通知とスネークから車に乗るように声を掛けられたのほぼ同時だったんだ。いくらなんでも早すぎるだろう。一緒にいた暦なんて、めっちゃ焦って挙動不審になっていた」

 そこまで話してランガは、ん? と上目遣いで宙に視線をやった。

「——そうだった。暦に心配しなくて大丈夫ってメッセージ送っておかないと……」

 ランガはスマホを取り出し赤毛にメッセージを送っている。

「ふふっ……すまなかったね。僕が思っていた以上に忠は有能な秘書だったようだ」

 何往復かのメッセージのやり取りを終えたランガはスマホをポケットに片付けた。すかさず彼の手首を掴み引き寄せそのまま腕の中に閉じ込めた。

 頭を撫でジャケット越しに背中に手のひらを滑らせていく。雨で少し濡れた髪、ジャケット……どこを触っても冷たかった。

 沖縄は亜熱帯に分類される。真冬でも最低気温が氷点下になるどころか通常十四、五度くらいまでしか下がらず、十度を切ることは滅多にない。最高気温などつい二日前には二十五度近くまで上がり夏日一歩手前だった。それでも温度計が示す数値よりずっと寒く感じられ、県民が震えてしまうのは皆寒がりだという理由だけではなく強風のせいだ。このシーズンの沖縄は北からの強い風が容赦なく体温を奪っていく。体感温度は東京の五度くらいにあたるのではないだろうか。

「冷え冷えだ。今日は北風が強かったし寒かっただろう」

「うん寒かったね。気温を聞いてこんなものでいいかと薄いジャケットで済ませちゃったけどこんなに風が強いとは思わなかった。滑りづらかった。暦なんて寒い寒って震えて大騒ぎしていた。最後には雨まで降ってくるし」

 そっと彼の指をとり唇に押し当てキスをしたた。

「指もこんなの冷たい」

 その手にランガは自分の手を重ねた。

「愛抱夢の手……あたたかい……」

「ところで食事は? お腹空いてないかな」

「暦と食べたから大丈夫」

「そうか。それなら、まずは冷え切った体をあたためようか。バスタブに湯を張ってあるんだ」

「わかった」

 素直に同意してくれるようになったのは、ここ最近のことだ。前はシャワーで十分と猛抵抗していた。慣れたというか諦めたらしく渋々付き合ってくれるようになり、今では香りの良い湯に浸かりながら筋肉を緩めること、スキンシップの重要性、いちゃつくことの楽しさを知ってもらえた——と信じたい。


 ぬるめの湯を張った湯船にふたりでゆったりと浸かる。

 ランガが両手で乳白色の湯を掬い上げた。

「いい匂いだね。バラ?」

「そうだよ。冷えてきたからね。肌がしっとりとする入浴剤を入れたんだ」

 ランガのを背後から腕をまわし膝の上に引き寄せる。体重をかけてきたランガの背中が自分の胸に押しつけられた。彼の肩に顎を乗せ腕に力を込め強く抱きしめればランガは目を閉じ愛之介の腕に自分の手を 添える。

 そんな彼の胸を手のひらでゆっくりと撫でた。やがて胸から腹、腿、尻へと、刺激が過ぎないよう加減しながら優しく愛撫を繰り返す。

 くすぐったたいのか彼は、身を捩り撫で回す手を掴んだが引き剥がそうとはしなかった。

 ぴちゃっと小さな水音が浴室に響く。

 ランガの全身をまさぐりながら、目を細めゆらゆらと揺らめく水面を見つめていた。

 微かに乱れはじめた息。首筋に唇を押し当てれば、彼の口からため息のような喘ぎが漏れた。

 こんなふうに身を預けてくるランガの無防備さがたまらなく愛おしい。

 ランガを愛している。心から。愛をただ注ぎたい。誰からも傷つけられないよう彼を守りたい。

 なのにもうひとりの自分は、その肉体に永遠に消えることのない愛の証を刻印することを望んでいる。痛みと共に深い傷痕をランガの白い肌と心に刻みたい。それはあまりにも醜悪な欲望だと自覚していながら愛之介の中で日ごと肥大化していき、今や誤魔化しようがなくなっていた。

 そんな暴力的な衝動をねじ伏せ自分の暗い欲望など微塵も見せたりしない。今は、まだ自制できている。しかしいつか、たがが外れ己を律することのできない未来がやってくるのかもしれない——そのことをただ恐れていた。何より彼を失う最悪の結末に。

 すでに妄想の中で、あるいは夢の中で、繰り返しランガを犯している。それも酷く暴力的なやり方で。

 かぶりを振ってきつく目を瞑った。

 この天候のせいだ。雷雨の夜には、そんな暗い妄執に囚われやすい。一度その思考にはまってしまえば抜け出すことは難しい。

 ランガをそんな自分から守りたかった。心よりそう願っている。

「愛抱夢……」

 一瞬で我に帰った。

「何かな?」

「あのさ、もう出ない? なんか頭……ぼーっとする……」

 見れば息も苦しそうで、顔が赤い——いや、全身隈なく赤かった。

「のぼせちゃったかな」

「喉渇いた」

「上がって水分保有しよう。この続きはベッドでね——おっと!」

 立ち上がったランガがぐらりとふらついた。愛之介は、慌てて腕の中に彼を抱き留める。余計なことに気を取られ時間が経つのを忘れていた。

 しばらく愛之介にしなだれかかったままだったランガが、からだを離した。

「もう大丈夫。立ち上がった瞬間、クラクラして目の前が真っ白になって……ごめん」

「脳貧血だよ。長く浸かりすぎたんだ。僕のほうこそうっかり長湯させてしまって、すまなかったね」


 水分を補給して少し休んだだけでランガはすぐに回復したらしく、ほっと胸を撫で下ろした。

 仰向けに横たわった愛之介の上に跨ったランガは、キスの雨を降らせた。頬に額に目尻に耳朶……そして唇を啄み顎へと。飽くこともなく浅いキスを繰り返した。まるで子供のようなキス。

 ふとランガが頭を上げた。

「愛抱夢……?」

 不思議そうな顔で彼は覗き込んできた。

「何かな」

「愛抱夢……今日ちょっと変」

「どこが……かな?」

 ランガは眉を寄せ首を傾げた。

「よくわからないけど……何となく……ずっと変。難しい仕事のこととか考えてる?」

 言葉にはできない違和感なのだろう。

「そう……かもね」

 曖昧な返事と共にごまかし笑いを浮かべた。ランガは眉をわずかに吊り上げぬっと顔を近づけてきた。

「もう……俺がいるのに。愛抱夢がそんなんならやめるよ」

「おやおや、薄情だな君は」

 彼のうなじを掴みグイッと引き寄せる。そのまま唇と唇がぶつかり、ついでに歯と歯も。それがおかしくてふたり顔を見合わせ思わず笑ってしまった。一度笑い出すと止まらない。なんとか笑いを止め、ランガの背に手をまわし、くるりと態勢を入れ替え彼を下敷きにして覆いかぶさった。

 ランガが〝変〟と感じたものの正体は、今の自分の不安定さにある。正直自分で認めるには時間がかかったし、ランガに悟られてしまうなんて冗談ではない。論外だ。

 この子の勘は悪くない。ただ漠然と感じるだけのようで、言語化して説明することは難題なのだろう。とはいえ自分だって解決法も見つけられず、ただモヤモヤしたものを抱え、ランガだけではなく己を適当にごまかすことしかできないのだ。

 ならば言葉を封じひたすら抱き合うしかない。口から発せられた瞬間、消えてしまう儚い言葉なんかより、嘘のつけないからだのほうが愛を語らせるに相応しいのだ。五感を研ぎ澄ませ全身全霊で相手をただ感じていればいい。

 甘い吐息を分かち合って、胸の鼓動に耳を傾け、指と指を絡ませれば、シーツを擦る衣擦れと肌を合わせる音が藍色の夜気の中へと静かに溶けていく。何もかもが溶けていく。ふたりは混ざり合い、いつしか魂が共鳴し求め合うのだ。

 白い指がそっと愛之介の心に触れてくる。あたたかく優しい光に包まれ、その瞬間ひとりぼっちではない自分を確かに感じていた。

 雨音がまだ聞こえてくる——静かな雨だ。でも雨は苦手だ。特に雷雨は最悪だ。

 そんな夜は黙って君を求めよう。それでいい。今はまだ。

 愛之介の胸の上に頭を乗せていたランガが、気怠げにからだを少し持ち上げ真上から見下ろしてくる。

「愛抱夢は、雷が怖いんだろう」

 え?

 ランガの顔をまじまじと見つめる。とろんとした青い瞳は、彼が眠くて朦朧としているのだろうことを伝えている。

 ランガはふわぁーと大きなあくびをして、愛之介の肩口にコンと額を押し付けた。

「大丈夫……俺がいてあげるから……大丈夫」

「ランガくん」

 呼びかけるが返事はなく、すーすーという気持ちよさそうな寝息が聞こえてくるだけだった。ランガの頭を撫でひたいに唇を落とす。

 雷が怖いかどうは別にして、確かに好きではない。嫌な記憶が蘇り暗い妄想に囚われるから——いやそれは確かに怖いということなのだ。

 ランガは光。この子がこうしてここにいてくれるのなら、自分は闇の中でひとり囚われてしまう——そんな不安などないことを知っている。