声が聞きたくて

 与野党の攻防は長時間わたり、ようやく解放された今現在、疲労のピークであるはずなのに脳内は、まだ興奮状態を引きずっている。そう……脳内麻薬のせいか気分は若干ハイなのだ。

 夜空を仰げば雪の勢いはますます強くなっていて、公共交通機関は軒並み麻痺状態に陥っていた。午後から降り出した雪は明日の朝まで止むことはないという。見渡す限りの雪化粧された都心を街の灯がところどころ染めていた。

 異世界に迷い込んだような一面の銀世界。ここは本当に東京か。振り返れば雪景色の中に国会議事堂がどっしりと構えていた。痩せた木々の梢に積もった雪が、その重みに耐えきれずバサっとまとめて地表に落ちる。そんな音だけが静かに響いた。

 不要不急の外出は控えるようにと通達が出ているだけあって、眠ることのない都心も静かだった。

 あたりが闇に沈むころ、東京では様々な建造物がライトアップされビルの窓からも明かりが漏れる。ひとつ、またひとつとそれは呼応するように数を増し、高層ビルから眺めれば、街全体が散らした宝石のように煌めいているのだ。通常ならば。しかし今夜は東京自慢の夜景も控えめなのだろう。

 突然、強い光が眩しく目を突き刺す。車のヘッドライトだ——やっと迎えが来てくれた。

「遅れて申し訳ありません。乗ってください」

「こんなコンディションでは致し方ないだろう」

 雪を軽く肩から払ってからドアを開け後部座席に乗り込んだ。車が走り出す。

「おまえは積雪した道路の運転は不慣れだ。慎重に行ってくれ」

「かしこまりました」

 スマホを取り出して時間を確認すれば、すでに二十二時近かった。彼はそろそろ就寝の時間のはずだ。声を聞きたいのだが諦めよう。それでも……

 口の中でぶつぶつ言いながらメッセージを打ち込んだ。〝君が僕のために生まれてきてくれた奇跡……〟そこまで打ち込んで〝僕のために〟を消した。もちろんこのことをひとつの真理だと確信しているが、今のランガにこの言葉は、まだ早い。急いてはことを仕損じるだ。


〝Happy Birthday, Langa! ランガくんお誕生日おめでとう。君が俗世に生まれてきてくれた奇跡を心から感謝するよ 今やっと仕事が終わってね もう眠っているかもしれないが今日中にお祝いの言葉を贈りたかったんだ 僕が沖縄に帰ったとき直接会ってお祝をさせて欲しい どうかな?〟


 送信ボタンを押して数秒で呼び出し音が鳴ったことに胸が高鳴った。

 ——「愛抱夢? メッセージありがとう」

「まだ起きていたんだね。あらためてお誕生日おめでとう。ランガくん。皆に祝ってもらえたかな」

 ——「うん。母さんと暦がお祝いしてくれて、母さんが俺と暦をジョーの店に連れて行ってくれたんだ。誕生日だって言ったらジョーがケーキをサービスしてくれた」

「それはよかったね。僕もお祝いをしたいのだが、何か欲しいプレゼントの希望はあるかな」

 ——「そんなお祝いの言葉だけで十分だよ」

「遠慮しないで。僕を喜ばせると思って欲しいものを気にせずに言って欲しい」

 ——「そうだな。えっと。んーと。そうだ! 滑ろう。一番の希望は愛抱夢と滑ること。ずっと滑れなかったし。俺は愛抱夢とスケートしたい!」

「了解だ。スケジュールを調整しておくよ」

 もちろんスケートだけで済ませるつもりはない。それはこちらで勝手に企画させてもらおう。

 ——「愛抱夢とやれるって、すっごく楽しみだ」

 弾んだ声に思わず頬が緩んでしまう。やっとここまで距離が縮まったのだ。それでも焦りは禁物だと自分に言い聞かせる。

「ところで、こっちは雪が降っていてね。もっともカナダほどではないけど。ただ東京としては数年に一度の大雪だから交通が麻痺している」

 ——「そうなんだ。寒い?」

「寒いよ——少し待っていて、今動画を送るから」

 迎えを待つ間の暇つぶしで撮影した国会議事堂を背景に降る雪。その動画を送信した。

 ——「へえ。東京は沖縄と違って雪降るしちゃんと積もるんだね」

「ここまで降ることは滅多にないし、明後日にはほとんど溶けてしまう——その程度の雪だ」

 ——「そっかー。そういえば沖縄来てから一度も雪見ていなかったな。愛抱夢が送ってくれた雪の動画見ていると……なんかスノーボードが懐かしいなって……」

 スノーボード――スケートに出会う前、カナダにいた頃のランガが親しんでいたスポーツだ。いくら懐かしくても、沖縄で暮らしている限りスノーボードをすることは難しい。

「沖縄では無理だけど、日本にだってスノーボードのできるゲレンデはたくさんある。いつか連れて行ってあげよう」

 ——「うん。愛抱夢や暦や——みんなと一緒に滑り……たい(ふわぁー)……な……」

 最後にはあくび混じりだった。

「眠そうだね。また連絡するよ。今夜はゆっくりおやすみ、ランガくん」

 ——「おやすみなさい。愛抱夢」

 スマホを片付け、車窓から雪に覆われた東京の夜を眺める。道路を走る車も人もまばらだった。雪の降る勢いは変わることなく弱まってくれる気配はない。天気予報通り明朝までこの調子で降り続くのだろう。

 ふと暗い天空から落ちてくる白い雪の中に天使——いやランガを幻視した。汚れなき銀世界で翼を広げる彼は清らかで美しかった。脳内麻薬が作り出す幻覚であっても構わない。

 いずれ自分の腕の中に堕ちてくる——そう信じているよ。ランガくん。