喧嘩

 愛抱夢と喧嘩した。

 ことの起こりは、愛抱夢の不用意な発言だった。

「メインディッシュは君だけだよ。ランガくん以外のスケーターは良くてオードブルさ。もちろんオードブルだって悪くない。それなりに楽しめるからね」

 歌うような調子で語る愛抱夢にランガは眉をひそめた。イラッとする。

「メインディッシュとかオードブルとか……愛抱夢は、すぐそういうことを言う。スケートは楽しんで滑るものだろう」

「メインディッシュと例えられるのはお気に召さなかったのかな。そんな顔をして……美貌が台無しだ。君は僕にとって特別なスケーターだということを伝えたかっただけなんだ」

 ランガは、むっと唇を尖らせ横目で睨んだ。

「茶化すのはやめてよ。俺のことじゃなくて――なんか愛抱夢はさ、みんなのことバカにしているように感じるんだ。暦のことだって……」

「赤毛くんが、どう関係あるんだろう。僕にはさっぱりわからないよ」

「暦は俺の親友なんだよ。親友がバカにされたら誰だって気分悪いだろう」

 愛抱夢は心外だというように眉を上げ、指を伸ばしランガの頬に触れてきた。その指をランガは乱暴に払い除けプイッと横を向いた。

「気分を害してしまったのなら謝ろう。でもバカにしているなんて誤解だよ。なぜなら僕はオードブルであっても一流を求める人間だからね」

「って、やっぱりオードブル扱いじゃないか」

「それは当然だよ。メインディッシュになれる才能があるのはランガくんだけだ。僕と同じ高みに辿り着くことができたスケーターは、君以外いない」

 そういうことではない。

 それから堂々巡りのやり取りが続いた。話が通じない。意見の相違。食い違い——どうしようもなく噛み合わない。しまいにランガはムスッと黙り込んでしまった。わかって欲しい。なのにそれを言語化するのは今のランガには極めて難しかった。自分の語彙力のなさ未熟さが悔しい。

 ランガの一方的な主張をただ受け止め理解しようとしていた愛抱夢が口を開いた。

「滑ろうか。お互い冷静にならないとね」

 このままでは空気が悪くなるだけだと考えたのだろう。今はふたりとも——いや、困惑していただけの愛抱夢はいいとして、ランガは頭を冷やす必要があった。スケートをすることで落ち着かせようということなのだろう。

 同意はしたけれど露骨に不機嫌な顔をしている自覚はあった。我ながら感じ悪いとは思っている。それでも、スケートボウルに飛び込み滑れば気も晴れていった。

 それにしても、どうしてこんなに感情的になった。親友のことを貶されたように感じたからか——もちろんそれもあるだろう。

 しかし、冷静になってみれば今の愛抱夢に貶そうとする意図などないことは明らかだ。

 人によって重視するものや大切なものは違う。

 スケートは誰と滑っても楽しい。それは大前提だ。それでも暦や愛抱夢と滑るスケートは自分にとって特別だった。きっと愛抱夢も同じなんだろう。ランガが他のスケーターを軽んじたりしていないように、今の愛抱夢は暦や他のスケーターを軽んじているわけではない。

 つまりランガだって愛抱夢と大差なかったということ。ただメインディッシュとかオードブルとか妙なものに例えたりしないだけに過ぎない。

 なのに、どうしてこんなモヤモヤを引きずってしまっているのか。

 すごいスケーターと滑れば、胸の鼓動がうるさいくらいだ。一度あのヒリヒリとした感覚を知ってしまえば繰り返し求めずにはいられない。まるで中毒のよう。

 あの高揚感——あれは最高の快感だ。

 勝負の世界だ。ビーフでは必ず勝つスケーターと負けるスケーターがいる。当たり前のことだ。

 愛抱夢はランガによく愛の言葉を囁く。周りに誰がいようが臆面もなくだ。

 そういえばチェリーやジョーが教えてくれた。昔から愛抱夢は、スケートの才能と可能性で愛の対象を決めてしまう単細胞野郎だと。あれは遠回しに気をつけろと言ってくれていたのか。

 ――君の滑りは本当に素晴らしい。僕の愛を受け止められることができるのはランガくんだけだよ。

 すごいスケーターに認めてもらえたのだ。嬉しかった。

 愛抱夢が繰り返し口にする愛の言葉は、彼が認めたスケーターへの賛美だ。今までだって何人ものスケーターを愛してきたと彼は言っていた。

 ああ、なるほど。

 そこまで思考を巡らせ答えがうっすらと見えてきた。これは漠然とした不安。

 愛抱夢の愛が優れたスケーターに向けられるものなら、いつか思うようなスケートができず勝てない、あるいは滑ることすらできなくなったとき、愛抱夢は変わらずランガを愛し続けてくれるのだろうか。

 誰だって永遠に勝ち続けることは不可能だ。それなりに歳を重ねれば若いスケーターが軽々と追いつき追い越していくだろう。

 いつか確実に来るだろうその瞬間——それがただ怖い……

 せっかく気持ちが晴れてきたのに……晴れたモヤモヤの先に見えてきたのは、よりはっきりとした不安だった。

 ランガはスケートボードを蹴り上げ掴むと大きく息を吐き夜空を仰いだ。そのとき——

「ランガくん」と名を呼ぶ声がした。

 声の方向へと振り向く。

「さっきは嫌な思いをさせてすまなかったね。でも信じて欲しい。僕は君の大切な親友のことを見下しているわけではないんだ」

「うん。わかっているよ。わかっているんだ……俺のほうこそ、ごめん」

 愛抱夢は微かな笑みを浮かべた。

「昔は確かに赤毛くんのことを取るに足らない雑魚だと思っていたことは否定しない。僕は君以外まったく見えていなかったからね。見ようとしていなかった。しかし、今はそれなりに彼のことを認めているよ」

 そんなこと、とうに知っていた。愛抱夢は憎まれ口の中に紛れさせて、さりげなく暦を誉めることがある。エキサイトしている暦は気づくこともないので、後からそれとなく指摘すれば「んなわけねーだろ」と口では否定してくる。それでも満更でもない様子だった。

「うん。それも、もうずっと前から知っているよ——これは俺の気持ちの問題なんだ」

「君の気持ちとは」

 目を伏せる。

 思い切って訊いてみようか。しかし、彼の答えを聞くのが怖い。それでも——放置するのは嫌だ。

 唇を噛み、ゆっくりと顔をあげ愛抱夢と真っ直ぐ向き合った。

「あのさ……もし……もしもだよ——俺が今のように滑れなくなったら、もう愛抱夢のメインディッシュではなくなるよね。そうなったら、どうするの?」

 深紅の瞳が一瞬揺れる。愛抱夢は何かを言いかけようと口を開いたランガの腕を掴みグイッと引き寄せた。胸と胸がぶつかり唇が彼の肩口に押しつけられる。愛抱夢はそのまま強く抱きしめた。

 ランガの耳元に低い声が優しく響く。

「愛している」

「俺のスケートを?」

「そうではない――いや、無論スケーターとしての君も愛している。しかし僕はランガくんを愛しているんだ。ランガくんをだ」

「いつか俺が勝てなくなっても? そんな俺に価値ある」

「誰だって最初から勝てたわけではないし、いつかは勝てなくなる。勝てないスケーターに価値がないというのなら、勝てなかった過去や勝てなくなるだろう未来——君だけではなく僕も価値がなくなってしまうよ」

「スケート下手くそになってもいいの?」

「いいさ。なるわけないだろうけどね。滑れなくなったらなんて考えなくていい。心配しないで」

 心配するなと言われても——

「でも……」

 ランガを包み込んでいた両腕に力がこもった。

「こんなふうに抱きしめたり……」

 からだを少し離し「キスをしたり……」と顔が近づいてきて唇と唇が軽く触れ、すぐに離れた。

「一緒に寝たりとかね——どれもスケーターとしての君だけが愛の対象なら意味はないだろう。それでも信じられないというのなら、君が信じてくれるまで繰り返し言おう。愛している——とね」

「あの……」

「愛している愛している愛している愛している……僕はランガくんを愛しているんだ」

「わ、わかった。わかったから」

「安心してくれた?」

「うん」

「不覚だったよ。君にそんな疑念を抱かせてしまっていたとは」

「あなたが気にすることじゃないよ。あとさ、同じだよ。俺も同じなんだ。愛抱夢はすごいスケーターだから一緒に滑りたいし、でもそれだけじゃなくて……えっと……」

 気持ちを伝えるための言葉を見失ってしまった。それでも愛抱夢は目尻を下げたかと思うと、ぬっと顔を近づけてきた。至近距離に浮かぶ深紅が煌めいている。

「そうか。それは嬉しいなぁ……嬉しいついでに、今夜は一緒に寝ようか」

「う、うん。わかった」

 一緒に寝る……同じベッドで眠る。ただそれだけだ。夜遅くまで滑ったとき愛抱夢は泊まっていくように言ってくれる。よく似た流れで暦の家にも泊めてもらったことがあったしと、ランガは遠慮なく愛抱夢の厚意に甘えることにしていた。

 前に暦たちにそのことを話したことがあった。そのときの皆の反応を思い出す。

「えええええーーーーっ! なんだとぉ?」

 隣に座ってコーラを飲んでいた暦は勢いよく立ち上がるとランガの肩を掴んでグラグラと揺すってきた。そのはずみで椅子が大きな音を立てて後ろへ倒れた。

「暦……どうかした?」

「どうかしたじゃねーだろう! なんかいやらしいことされなかったのか? あいつは変態だから気をつけろって、俺はあれほど忠告したはずだ。おまえは不用心すぎるんだよ!」

 床から椅子を起こしながらジョーが静かな声で「落ち着けよ」と暦の肩を叩いて宥め、ランガに視線を向けた。

「特に何かされたりは、しなかったんだろう?」

「うん……頭を撫でてきたりするくらいかな。いつも俺のこと子供扱いなんだ……」

「そうか」

 ジョーは笑っているけど、暦は不満そうだ。

「そんなこと、なんでわかったんだよ」

「ふたりの様子を見ていればそのくらい見当つくさ」

「ふーん。さすがジョー。プロのたらしだな」

 暦が感心半分呆れ半分で椅子に座り直し、グラスに残っている氷を口の中に放り込むとガリガリと噛み砕き始めた。

「あいつは童貞だな……」

 チェリーがボソッと言った。

 ドーテー? 知っている発音だけど、この場合……きっと知らない意味の単語だ。

「愛抱夢だって童貞のお前には言われたくないと思うぞ。どーせおまえはカーラ一筋でリアルな女と恋愛したことなんてないんだろう。AIに貞操捧げているなんて、ロボキチはキモいな」

「んだとー、この色情ゴリラめ」

 また額を突き合わせての喧嘩がはじまった。いつものことだ。それにしても——

「暦、ドーテーって何?」

「そんなこと人に訊くなよな。おとなになれば自然にわかる。まったく……この場に実也やシャドウがいなくてよかったぜ」

 日本語は難しい。同じ発音で当てはまる漢字がいくつもあって、意味がひとつひとつ全く違ったりする。その逆で全く違う発音なのに限りなく近い意味の言葉も多い。

「ふーん。暦はドーテーなのか?」

「だから、訊くんじゃねえ!」

 それから少しして童貞の意味を知った。へえ……となった。

 トーナメント後、色々あって愛抱夢との関係もゆっくりと変化していく。ふたりだけで滑ることも増え、ふと立ち止まって思い返してみれば、スケート以外でも一緒に過ごしていることがちょくちょくあった。

 もともと気に入った相手には、パーソナルスペースを思い切り縮めてくる人だ。ランガが鈍感なせいもあって、あれよあれよという間にふたりの距離感は——

 やがて同じベッドで眠っていても気にならないくらいの関係に。もちろん同じベッドに入るだけで特に何かをするわけではない。

 はじめは別々の寝室だったのだが、話し込んでいるうちに用意された寝室に戻るのが億劫になって、こんなに広いんだしと同じベッドに潜り込ませてもらった。

 一緒に眠るとなんとなく安心した。父さんと一緒に寝たときと似た空気を感じたせいかもしれない。愛抱夢はどうだか知らないけど。

 それからしばらく経ってからだ。キスしていいかと愛抱夢が唐突に訊いてきた。どこにするのかと確認すれば唇にと返ってくる。少し考え、別に嫌ではないな——と思いキスを交わした。

 ベッドで一緒に寝たことは暦たちに話せたが、キスのことは流石に黙っていることにする。もしかするとジョーは気づいているのかもしれないけど。

 愛抱夢とキスをするのは好きだ。すごく好き……


 ベッドは大きくて、ふたり並んで横になったとしても余裕だった。

 背中とシーツの間に滑り込んだ腕がランガをひょいと持ち上げ抱き寄せる。からだがピタリと密着し布地越しに心地良い体温がじんわりと伝わってきた。

 見つめ合えば間接照明がふたりの表情に柔らかな陰影を作っていた。

 愛抱夢に頭を撫でられ目をすがめる。

「また子供扱い」

「子供扱いというわけではないんだ。愛しい相手の頭を撫でたくなるのは当然だろう。それとも頭なでられるの嫌かな?」

「嫌じゃない」

「嫌じゃないだけ?」

「えっと。好き」

「よろしい」

 髪をいじっていた指は、首をなぞってするりと肩まで下りた。しばらく肩を包みじんわりあたためていた手のひらはやがて背中へ。大きく円を描くように背中から尻をゆっくりと撫で回しはじめた。

 少しくすぐったいけど気持ちよくて全身から力が抜けていく。リラックスしているんだ。

 しがみつきたくて腕を伸ばせば、彼は肩肘を立て上体を浮かせ、見下ろし微笑むと覆いかぶさってきた。唇が重なり彼の首に腕を絡めた。

 抱き合い、全身撫でられ、じゃれるようなキスを何度も交わし、ただイチャイチャしている。一時間くらいそうしていただろうか。やがてどちらかともなく深い眠りに堕ちていった。


 ざっとカーテンを開ける音がした。

 ——眩しい。

「おはよう。ランガくん」

 瞼を上げれば、真上に愛抱夢の顔があった。ぼやけた視界の中で彼は優しく微笑んだ。

「おはよう」

「朝ごはんにしよう。顔を洗って用意してきて」

「わかった。俺、手伝うよ」

 のっそり起き上がり、支度をしながら昨晩のことを思い出していた。

 あれって仔猫と仔猫が舐め合ったりじゃれていたりしていて、疲れるとそのまま寝てしまうのと大差なかったような気がする。性的な印象はほとんどなかった。この先の未知の領域を知りたくないわけではなかったが、今のままでも十分満足だったし気持ちよかった。

 でも……愛抱夢は? 愛抱夢としてはどうなんだろう。

 チラリと見れば鼻歌を歌いながらダイニングテーブルに食器を並べる、ご機嫌な愛抱夢の横顔が目に入った。

 ふとチェリーの言葉を思い出した。

 ——あいつは童貞だな……

 え? あ……もしかしてそうなのか? だとしたら俺が頑張らないとダメなのだろうか。本人に直接確認した方がいいのかな。

 そのとき視線を感じたのか愛抱夢がランガの方を向いた。

「どうしたのかな。ジロジロ見て。僕の顔に何かついている?」

 窓に背を向け逆光の中、愛抱夢がにこやかな笑顔を向けてきた。

「あのさ……愛抱夢って、ど……どう……」

 やっぱりまずい。すんでのところで思いとどまった。

 ここで余計なことを言って、誰から聞いたのか愛抱夢に問い詰められたら黙っていられるわけはない。せっかく修復されつつあるチェリーやジョーと愛抱夢の関係だ。ここで余計なことを言ってまたヒビを入れてしまったら自分の責任だ。

「どう?」

「あ、あの……どうしてそんなにハンサムなのかな……とか」

 こんなので誤魔化せたのだろうか。

 愛抱夢の顔がぱぁーと明るくなり、両腕を広げランガに近づくとぎゅっと抱きしめてきた。

「そうか。見惚れてくれていたんだ。ランガくんにそう言ってもらえるとは、この上ない幸せだよ。でも僕なんかより君の方が何倍もハンサムだし美人だよ」

 大丈夫。誤魔化ていた。

 でもハンサムだと思っているのは嘘ではない。いつもいつもそう思っている。

 だから……まあいいか。

「そ、そうなのかな」

「愛しているよ」

 彼の声が耳に優しく響いた。

 きっとふたりとも相手のことがすべて見えているわけではない。だから……あと少し愛抱夢とわかり合えたのなら、そのときはきっと自然に先の世界を見ることができるのだろう。

 ランガはからだを少し離し、彼の唇にキスをしてその思いに応えた。