デザート
愛抱夢とのビーフの勝敗はほんの少しの偶然や、そのときどきのコンディション、瞬時になされるコースどりなどの判断の積み重ねだったりする。
今回は頻差で負けてしまった。楽しかったけど少し悔しい。勝った愛抱夢はとても嬉しそうだ。次は負けない。
いつも愛抱夢と滑るSでのビーフは決闘という意味合いは希薄で、ただ滑ることが目的になっている。でも珍しく愛抱夢はこのビーフでの賭けについて触れてきた。
賭けはデザートだという。何を賭けるのか考えるのも面倒だったランガも「じゃあ俺もデザート」と適当に話を合わせた。
もっとも、学生でアルバイト収入しかないランガには、そんな高価なデザートは無理だ。コンビニのアイスクリームとかシュークリームくらいしか無理だよ——と言えば、愛抱夢の要求は一緒にデザートを食べることだという。つまりランガがデザートを用意する必要はないというのだ。
それではどちらが勝っても負けても結果は変わらないではないか。
愛抱夢が考えていることは謎だ。もっとも最近はそんなことにも慣れてしまって、あまり気に留めることもなくなっていた。
そして、デザートを一緒に食べようと愛抱夢に指定された当日の夜。なぜかいつもの別荘にディナーまで用意して彼は待ち構えていた。
「あの……食べるのはデザートでは?」
「もちろん食べるよ。でもデザートの前にはメインディッシュがいるしその前にはオードブルさ。デザートだけなんてそんな無粋なこと僕がすると思っていたのかな?」
目の前に料理が運ばれてくる。配膳してくれたシェフらしき人の背中をちらりと見てランガは気になっていたことを訊いた。
「今の人は知り合い?」
「出張シェフだよ。今夜のために依頼したんだ。メインディッシュを出し終えたら彼には片付けて帰ってもらうことになっている。デザートは冷蔵庫に用意されているからね」
「そうなんだ」
流石に愛抱夢は美食家だ。あまり味にうるさくないランガであっても、その丁寧で手の込んだ料理であることくらい理解できる。愛抱夢は贅沢だなといつも思う。
出されたものすべて美味しくいただいて、最後のデザートを愛抱夢が用意してくれた。目的から考えれば、むしろこれがメインなのかもしれない。
プレートの上には、マンゴーのチーズケーキ、ガトーショコラ、紅芋のアイスクリーム、赤いベリーソースにフルーツやミントが彩よく添えられていた。
それらを美味しく平らげて、お腹いっぱい大満足の食事だった。
けれど腑に落ちない。
「あのさぁ……これじゃ、愛抱夢が食事に俺を誘ってくれたときと——いつもと変わらなくない。わざわざビーフの賭けにする必要ある? まあ俺は別にいいけど」
自分としては豪勢な食事にありつけたし不満はないのだけど、ビーフの賭けにする理由がわからないという単純な疑問だ。
「おや……ランガくんはこのデザートが賭けだと思ったんだ」
「違うの? 賭けるものは一緒にデザートを食べることだって言っていたの愛抱夢だろう。ちゃんと説明して」
「確かにそうだが――」
ふむ、と彼は顎を指で摘んだ。
「ということで少し庭に出て滑ろうか。食べた分のカロリーはちゃんと消費しないとね。僕は君と違ってもう若くないから、お腹に脂肪がつきやすいんだ」
全然繋がっていないじゃないか。何が「ということで」なのかさっぱりわからない。
また適当にはぐらかされたのかと、もやもやしたけど〝スケート〟とか〝滑ろう〟の言葉ひとつで、そんな疑念など些細なこととして、吹き飛んでしまうのはスケーターの性だ。責めないで欲しい。
促されるまま庭へ出てガーデンライトに照らされたスケートボウルへ飛び込んだ。
夜の別荘の庭にウィールの振動音が鳴り響く。この辺りはあまり民家はないから気にしなくていいらしいのは気が楽だった。
そして、愛抱夢と無心に滑れば時間はあっという間に過ぎる。
スケートは、いつだって誰と滑っても楽しい。その中でも、暦や愛抱夢と滑るスケートは特に楽しいのだけど、楽しさの方向性が全く違う。
暦と滑るスケートは、いつもふたりとも笑顔になれる。
すれ違いざまにハイタッチを交わし、滑り終えれば笑顔のDAPで健闘を称え、ふたりで無限に滑っていられるのだと信じられた。
声を出してお腹の底から笑い合うことができる。そんなスケートは暦と滑ったときだけだった。
それなら、愛抱夢とのスケートはどうだろう。神経を研ぎ澄ませ限界ぎりぎりまで自分を追い込んでいくスケートだ。愛抱夢とではなく自分自身との戦いのように感じた。ランガの才能を引き出し新しい世界を見せてくれる。愛抱夢とのスケートはそんなふうにランガを導いていくスケートだ。
そういえば、愛抱夢はランガと滑るスケートがメインディッシュだと言っていた。他のスケーターとのスケートはオードブルだとも。正直その例えは、まったくピンとこない。
暦と愛抱夢、どちらがメインディッシュかオードブルかとか——まして、どちらが大切かなんて考えたこともない。比較しようがない。自分にとってまったく異なるもので、ふたりとも大切なのだから。
「ランガくん、そろそろ上がろうか」
「わかった」
かけられた声にボウルの外へとふわりと飛び上がれば、こちらのコースを読んでいたらしい愛抱夢が両腕を広げ待ち構えていた。
躊躇わずに胸の中へ飛び込めば、強く抱きしめられた。
心臓の鼓動はうるさく息は荒く乱れ、汗でシャツが背中にピタッと貼りついている。
もっと滑りたかったけど諦めよう。また明日がある。
「楽しかったかな」
「うん。すごく」
愛抱夢は額にくっつく水色の髪を指で丁寧に掻き上げ——
「髪が濡れているね。これから汗を流して——デザートにしよう」
デザートって愛抱夢は食べ足りなかったのか? いや大食いの自分のためにデザートを用意したというのだろうか。流石にそれは多すぎると思う。
「デザートはもう食べただろう。俺、お腹空いていないけど」
「ふふっ……僕のメインディッシュはランガくんと滑るスケートだって言ったよね。ではデザートは何かな?」
そっか。食べるデザートではないってことなのか。
「うーんと、俺以外の誰かと滑るスケート……」
――のわけないか。ここには愛抱夢とランガしかいない。
愛抱夢は両手のひらを上に向け肩をすくめた。
「オードブル、メインディッシュときて、ではデザートはなんだろうって、ふと気になってね。少し考えて結論が出たんだ。——それってなんだったと思う?」
愛抱夢はランガの顎を指で軽く支えた。彼の顔が近づいてくる。薄闇の中でガーデンライトの光を受け煌めく瞳が迫ってきた。深く暗い赤に吸い込まれそうになる。
「さあ。わからない」
「なんのことはない。デザートも君だったんだ」
「俺?」
彼は左手を胸に当て、右手のひらを上に高く掲げて芝居がかった仕草でうっとりと夜空を仰いだ。
「ああ。僕の腕の中でとろけるランガくんはこの世のものとも思えぬほど、甘美で美味だ。君の存在そのものが至高のデザートだったんだよ」
ランガはただ目をパチクリさせていた。またいつものポエムか。
この人の言い回しは何を言いたいのか掴めず、いちいち悩む。昔は日本語って難しいで片付けていたのだが、皆が言うには愛抱夢の言葉のチョイスが独特で日本人でも意味不明だということらしい。それなら日本語の怪しい母語英語のランガにわかるはずもないと、そのときは安堵した。
「えっと、じゃあもう一度滑ればいい?」
彼の目が丸くなり眉が下がり困り顔になった。一瞬押し黙ったのち口を開いた。
「どうしてそうなるのかな?」
どうやら答えを間違えたらしい。やはり日本語は難しい。
「もう。俺にもわかるように言ってよ」
ランガが苛立ってみせれば、愛抱夢は大袈裟にため息をついてくる。
ため息をつきたいのはこっちだ。
「これから君を抱くよ。僕の望むままに。君が想像もできないようなやりかたで」
「……」
少しの時間その意味を考え、やっと彼の言わんとしたことを飲み込めた。
なんだ。そういうことか。
「怖いかな」
「別に……いいよ。俺をあなたの好きにして。だって勝者は愛抱夢だ」
彼はそれを聞くと目尻を下げ、くしゃっと笑った。
「ははっ……僕が君にそんな無体なことできるわけないだろう。安心して」
「なんだ冗談か……でもさ、いつもと同じじゃ賭けの意味なくない?」
露骨にがっかりしているように見えたのだろう。むしろ愛抱夢が困惑しているような顔になった。
「もしかしてだけど、僕が言ったことで期待したりしちゃったのかな?」
ランガは素直にうなずいた。
「だって、新しいことや知らないことに挑戦するって——わくわくするだろう。誰だって」
愛抱夢の指先が頬に触れ、顔が近づいてくる。フッと……と小さく笑う声が聞こえ、唇にあたたかい吐息がかかった。
「好奇心旺盛で肝が座っているランガくんは、実に僕好みだよ。今夜は必ず君の期待に応えてみせよう」
唇が重なる。ゆっくりと深くなっていくキス。
これから、いつもと違う新しい世界に導かれるのだろう。大丈夫。怖くはない。
——ねえ愛抱夢……今夜どんなふうに俺を抱く? 俺に何を見せてくれる?
了