心がよどむとき

「うわぁぁーーーっ!」

 絶叫した次の瞬間それは夢だったのだと知った。もしかすると実際に大声を張り上げてしまったのかもしれないが。

 ふとかたわらに寄り添う体温と素肌を掠める静かな寝息を感じた。薄闇の中、目を凝らせば健やかなランガの寝顔を確認できる。

 彼を起こしてしまわなかったことに、ほっと胸を撫で下ろした。もし夢の中だけではなくあんな声を張り上げていたのなら、さすがのランガでも目を覚ましただろう。

 のっそりと上体を起こし大きく息を吐き薄闇の宙にぼんやりと目をやった

 さて、どのような夢だったのか。まったく思い出せない。夢の内容はすっかり忘れているのだが、何かとても嫌な夢だったのだと思う。叫びたくなるほどの悪夢だ。

 覚えていないのに、なんともいえないモヤモヤとした気分の悪さが、胸の奥底に重く沈澱しているようだった。

 視線を落とす。

 熟睡する恋人——自分はそうだと信じている——の額にかかる水色の髪をそっと退け、その無防備な寝顔をしばし眺め落ち着こうとした。

 この子がこうして安心しきって自分のかたわらに寄り添ってくれている。なんと幸せなことだろうか。

 思い起こせばランガは愛之介の誘いを断ってきたことは一度もなかった。赤いバラの花束を受け取ってくれたあの日から。

 彼は先約があるとか都合が悪いなどという明確な断る理由が無い限り、常に誘いを受け入れてくれていた。おそらく自分が特別だったわけではなく、誰に対しても同じ態度を取るのだろう。

 ならば悩む時間を与えず、とにかく強引に押して押して押しまくるのが最適解だろうと判断させてもらった。

 はじめての誘いは、Sとは違う場所で一緒にスケートをしようという提案だった。ランガは目を輝かせ「もちろん」とあっさり快諾してくれて拍子抜けしたことを覚えている。何回かは、断られることを覚悟していたのだが。ただ、赤毛も一緒でいいかと訊かれて、少し迷ったのち了承した。焦りは禁物だ。しかし赤毛が愛抱夢を嫌っているらしく、当日来たのはランガひとり。残念だったねと言ってみたものの、心の中で歓喜のステップを踏んでいた。

 それからも忙しい中、スケジュールを調整しつつ度々ランガを連れ出した。スケートは必須だと思えたが、それでも滑る以外の時間も少しずつ増えていく。やがて悪天候で滑れない日であっても、デートしてくれるくらい親密になれた。

 やがて、さりげなく手を繋ぎ、肩を抱き、了承を得てキスを交わし——心を許してくれたのだろう。いつしか、こんなふうにベッドの上で寄り添って眠ってくれるようになったのだ。

 もちろん一線は超えていない。急いてはことを仕損じるというではないか。らしくもなく慎重な自分に笑ってしまう。

 あまりにも、とんとん拍子にことが進むとかえって不安になる。

 これは本当に現実なのか、もしかして妄想なのではないのだろうか——と。

 いや、たとえ現実だとしても、手に入れたもの——思いや、絆や、愛だと信じたものすべてが、永遠ではないことを知っている。俗世おいてそれらは唐突に奪われる、あるいは壊れてしまうことがあるのだ。

 永遠に失われないと信じてしまうような子供の無邪気さは、とうに失くしている。

 あの日——スケートボードを燃やされたあの日から。

 何より、怖いのだ。

 ランガはまだ若い。まだ子供だといっていいほどに。自分に対して向けてくる素直な好意や愛情は演技などではないと断言できる。しかし彼の見ている世界はまだ狭い。カナダで友人付き合いをしている相手はいなかったとも聞いている。沖縄で出会った赤毛がはじめての友人だったと言っていた。

 これからもランガの世界は大きく広がり、出会いと別れを繰り返していくのだろう。無限の可能性に満ちた未来を持つランガにとって自分はどういう位置づけになるのか。

 神道愛之介の前に今後ランガ以上の存在は現れないだろう。それは確信めいた予感だった。

 しかし、まだ若いランガにとって自分が唯一の相手ではない可能性を否定できない。つまり彼が一生自分のそばにいてくれる保証などなく、いつか目の前から姿を消してしまうかもしれないということなのだ。

 ランガのいない世界を自分は受け入れられるのだろうか。

 ああ、絶対に無理だ。そんなこと堪えられない。ランガを失う未来だけは避けたい。

 たまらない不安に襲われる。

 ふと胸の奥の暗い淵に揺らめく不気味な黒い影を感じた。その影が禍々しく笑い耳打ちしてくる。

 そうか。自分のものにならないのならば、いっそ——

 そのとき「眠れないの?」という掠れた声が闇に響いた。視線を下げればランガがうっすらと目を開いている。焦点が合っていない瞳が瞼から覗いていた。

 と、いきなり腕を掴まれグイッと引っ張っられた。

「え?」

 気が付けばランガの胸の上に頭がすっぽりと収まっていた。

「怖い夢を見たんだね。俺が追い払ってあげる」

 ランガは愛之介の髪を撫でてきた。それからポンポンと軽く頭を叩きながら——

「Dreamcatcher, catch bad dreams. Let only the good ones through……俺、ドリームキャッチャーを今度、探してくるよ……それまで、ずっとこうしていてあげるから大丈夫。眠って……愛抱夢」

「ランガくん?」

 呼んでみたものの返事はなく、トクントクンと落ち着いた心音とスースーという気持ちよさそうな寝息だけが聞こえてきた。

 胸の中があたたかいもので満たされていく。それなのにじーんと目頭が熱くなり全身から力が抜け、愛之介はゆっくりと眠りに落ちていった。