空気のような存在

 夜、顔が見たくなってランガを呼び出した。雑談の流れの中で、ふとランガが言った。

「あなたが忠って呼んでいる人はスネークだよね。S以外でもあなたの命令で仕事しているってこと?」

「彼は神道家に仕える使用人というか秘書だからね。これからもちょくちょく会うことになると思うがいてもいなくても気にしなくていい」

 流石に忠のことでランガが誤解したりはないだろう。それでも多少なりとも嫉妬してくれればほんの少し嬉しいのだが、ランガはとにかく鈍い。なので、その手の発想になるはずはない。

「スネークは愛抱夢のスケートの先生なんだろう」

「不本意だけどね」

「似てるよね……」

「似てるって。僕と忠がか?」

「そう。滑りが似ているなって思った。はじめてスネークのスケートを見たとき、愛抱夢と重なったんだ」

 やはりそうなってしまうか。自分で思っていた以上に忠の影響は大きかったということだ。普通に考えれば初めてスケートを教えてくれた人。ならば影響が大きくても当たり前なのだ。なのに、このモヤモヤ感はどうだろう。

 実際かなり動揺していたらしい。声にできた反応は「ほう……」だけだった。

「愛抱夢にとってスネークはどういった人なの?」

「僕にとってか……忠は空気みたいなものだな」

 そうだ。存在感のない——自分にとって、いてもいなくても大差ないやつなのだ。

「空気?」

「そう。空気のような存在」

 ランガはじっと愛之介の顔を覗き込み、目をパチパチと瞬かせた。

「そっか……スネークって愛抱夢のとても大切な人なんだね」

 どうしてそうなる? 焦って反論する。

「ランガくん、それは誤解だ。忠はそんな……」

 狼狽えていたのだろう。声が裏返っていた。

「何を言っているんだ? だって大切だろ。空気がなければ生きてはいけないよ。いつもはあるって意識しないけど、無くなったら死んじゃうんだから。愛抱夢はそんなことも知らないのか」

 彼は真っ直ぐ、射抜くような視線を向けてきた。目が合い一瞬時間が止まる。

 喉まで出かかった反論の言葉が舌先で凍りついた。愛之介は目を伏せ、口元に苦い笑みを浮かべる。

 この子には敵わない。おそらく他の誰かが一字一句違わず同じことを言ったとしても、自分は屁理屈でねじ伏せていただろう。

 深く息を吸って大きく吐いた。

「まあ、そうかもね……君の言う通りかもしれない。あいつがいなければS運営は不可能だし、政務の仕事はかなり滞るだろう。まあ便利なやつだ……」

「そういう意味じゃない」

 ランガは身を乗り出し眉を寄せ口を曲げ睨みつけてくる。もちろんランガの言葉の真意は理解していた。だが、しかし……これは自分のわずかに残った捨てられない意地なのだ。

 さらに何かを言おうとするランガの唇にキスをすることで続く言葉を遮った。

 唇を離して彼の顔を覗き込めば、澄んだ青い瞳がキラキラと揺らめいていた。

「しっ……それ以上、言わない。僕はわかっているんだから」

 ランガは唇を尖らせ、それでも何も言わなかった。

 ふと手に握っているスマホを見た。そういえばアラートで忠の誕生日が近いことを知らせてきていたっけ。

「そろそろ忠の誕生日だったな……」

 ぽつりと口にする。

「プレゼント用意した?」

「まさか。そんな歳じゃないよ。それはお互いさまだ。でも、まあ一杯飲むのも悪くないかもな。生牡蠣を肴に」

「ナマガキ……?」

「こっちの話だよ。一応そこそこの働きをしてくれているやつだ。日頃の慰労も兼ねて祝ってやらないことはない」

「何、その言い方。ちゃんとお祝いしてあげて」

「わかったよ。そうする」

「絶対だよ」とランガは愛之介の肩に頭を乗せてきた。その頭を撫でる。

「ああ、ランガくんに誓って」