Milky Way

 その夜、愛抱夢からクレイジーロックで滑ろうと、いきなり連絡が入った。あまりにも突然の誘い。ふたりきりなんてもったいないから、暦も誘っていいかと訊けば「駄目」と即答された。

 今夜の僕は、誰にも邪魔をされない、ふたりだけの世界で滑りたいんだ——と。

 またもや空気が読めていなかったらしい。

 ギャラリーもキャップマンもドローンも邪魔だと彼は言う。


「ようこそ、スノー」

 愛抱夢は両腕を広げランガを歓迎した。

「えっと……こんばんは」

「とりあえず、軽く滑ろうか。ムキにならないようにね。勝敗を決めるようなビーフではないよ。わかった?」

「わかった」

 シグナルどころかコインパスもなく、なんとなく同時にスタートを切った。

 ところが、滑りはじめるとそんなことは、自分も愛抱夢も綺麗さっぱり忘れてしまったらしい。

 ランガが先にコーナーを回れば、どうやっても前を滑りたいのだろう愛抱夢が抜きにかかる。

 結果「これのどこが軽くだ?」と自分で自分にツッコミそうなくらいスピードに乗っていた。

 風を切り、抜きつ抜かれつを繰り返した。

 頬を掠めていく風が涼しい。多湿の沖縄にしては珍しく、今夜は比較的湿気が少ないようで気持ちが良かった。

 廃鉱山の地形を生かし山道をそのまま利用したコースは、ただでさえ起伏に富んでいる。さらに強風で飛んできた木の枝や落石などが思わぬ障害物になり、それを瞬時に判断して、うまく避けたり利用したりして、より勝負を有利に持っていく。その駆け引きの面白さもSの魅力だと思う。

 ランガの少し先を滑っていた愛抱夢が、不意に片手を上げなんらかのサインを作ってきた。薄闇の中で目を凝らせば「止まれ」のハンドサインらしく、愛抱夢はスピードを落としながら止まると振り返った。ランガも続いて立ち止まり、スケートボードを蹴り上げ掴んだ。

「どうかした?」

 不思議に思って訊けばば愛抱夢は、黙って夜空を指差しながら見上げる。

 促されてランガも続いて頭上に広がる天空を仰げば、無数の煌めく星々が目に飛び込んできた。その強い輝きに息を呑む。降るような星空は、まるで宝石を散らしたように美しい。

 沖縄に来てから、初めてこんなにすごい星空を見た。

「星と星の間に隙間がない……」

「そうだね。星が美しく見えるために一番大切なのは、晴れていて空気が澄んでいること以上に、暗いことなんだ。新月であること。あと夜中でも明るい街中では星なんかまばらにしか見えない。それで、ここのコースを照らす街灯も三十分の間消すように指示しておいた」

 言われて初めて気がついた。いつも路面を照らしていた照明が消えていることに。今、ふたりを照らしているは星あかりだけだ。

「すごく綺麗だ」

「天の川もよく見える」

「アマノガワって?」

「銀河——Milky Wayのことだよ」

「そうなんだ」

 改めて見上げれば、雲状の光の帯が空に横たわっていた。

「英語だとミルクの道に喩えているけど、日本などアジアだと天にある川と、川に喩えているんだ」

「面白いね」

「こんなにくっきりと明るく天の川が見えるなんて、僕も久しぶりだよ。人口光の強い街だと光害で見えないからね。この辺りまで来て、やっとかな」

「そういえば、沖縄に来てから〈Milky Way〉を見るの初めてだ」

 夜空にぎっしりと散りばめられた無数の星々は腕を伸ばせば触れそうなくらい迫って見える。ランガは夜空に向けて手を伸ばす。そして星を掴もうとするかのように指を動かした。

「ランガくん、星を取ろうとしたって無理だよ」

 流石にそこまで子供ではない。

「知っている。俺が、まだ小さかったころ、星を捕まえようとしたことがあったんだ」

 夢中になって指を伸ばし星を取ろうとピョンピョン跳ねるランガを、両親が温かく見守っていた。

 カナダの山は、冬でなくても夜になると冷え込み、三人の吐く息が白く漂っていたことを覚えている。

 だからこそ両親に握られた手に伝わる温度が心地よかった。

 空はひとつだ。この夜空も父さんの眠るカナダの空に繋がっているのだ。

「ありがとう。愛抱夢」

「喜んでくれたのなら何より」

 ランガは、天の川を高く上げた指でなぞった。

「滑りたいね!」

「ん?」

「〈Milky Way〉で。道だから滑れるよ!」

「諦めて。天の川は川だから滑れない」

「えー」

「ふふ……この星空を君に見せてあげたかった——というより、この星空の下で君を愛でたかったんだ。ここに立つランガくんはどれほど美しいか想像しただけで行動に移さずにはいられなくなってね。でも半分諦めていた。新月と晴れと僕の日程が合うなんて無理だろうと思ったんだ。でも奇跡が起こったんだ。僕のランガくんへの愛を邪魔するほど気象現象は無粋ではなかったってことだね」

「すごいね」などと返してみたけど、また何か愛抱夢らしい大袈裟なこと言っているのだろう。

 愛抱夢は微笑して、ランガの頬を両手のひらで包むように挟み顔を覗き込んだ。

 息がかかるほどの距離で黙って見つめ合う。

 いつも愛抱夢の笑顔は、どこか胡散臭いと暦たちは主張する。特にランガを見る目はいやらしいし、良からぬことを考えているに違いない。愛想良くても、腹に一物あるやつの顔だと。ピンとこなかったけれど、敏感な暦と違ってランガは鈍いと自覚している。

 だとしても、今の愛抱夢の笑顔は——自分に向けられるこの人の眼差しはとても優しい。それだけは信じられる。

 二つの吐息が混ざり合う中、どちらからともなく唇を重ね合わせた。

 いつまでも抱き合うふたりを星明かりが密やかに照らしていた。