波しぶき

 カナダで見た海と、ここ沖縄の海。同じ海でも大きく違う。

 岬の断崖で、強い海風に髪を嬲られながらランガは崖下を見下ろした。

 今日は愛抱夢に連れられ、この岬まで冬の海を見に来ていた。南国沖縄とはいえ、一年で一番気温の低い真冬は、カナダのような凍てつくような寒さではないが、それでも沖縄の温暖な気候に体が馴染んでしまったランガには、寒いと感じさせる。

 夏の明るい太陽の下では、穏やかなコバルトブルーの海を望むことができると聞く。ランガが漠然と想像していた南国の海のイメージだ。

 でも北風が強くなる今のシーズンの波は荒々しい。波のうねりが岩にぶつかり波頭が砕け白い波しぶきが強風に煽られ吹き飛ばされる。崖の上に立っていても、霧状になった波しぶきがうっすらと肌を湿らせる。

 青い海と真っ白な波しぶきの美しいコントラスト。寄せては返す波の音。

 この海の色彩も波音も潮のにおいも、カナダのそれとは違う。それなのに不思議と懐かしいと感じた。

 じっと見つめ続けるうちに、意識が吸い込まれていく。踏みしめていた大地が心許なくなり、足の裏からその感覚が消え、ぐらりと景色が揺らいだ。

「ランガくん」

 後ろから逞しい腕に抱きすくめられた。よく知ったオードトワレの香りがふわりと鼻先を掠め、首筋や頬に自分のものでない髪が触れた。

 その感覚にランガは我に返った。

「愛抱夢?」

「心臓が止まるかと思ったよ」

「どうして?」

「どうしてって、ここから海へ飛び込みに行くような雰囲気だったんだ。驚かせないで」

「そんなこと——するわけないじゃないか」

「君は海に向かって、ふらりと歩き出したんだよ。最初は数歩で立ち止まるだろうと思って見ていたんだけど、様子がおかしかったから慌てて引き留めた」

「え? そうだったんだ。俺、歩いていた?」

 自分が歩いていたことすら記憶になかった。

「無意識だったとは、本当に危なかったな。歩いていたよ。夢遊病のような感じだった。海から何かに手招きされているふうにも見えた。もしかすると龍……かな」

「龍?」

「この岬には龍神伝説があるんだよ」

 ランガはもう一度、断崖から海を遠望する。沈みかかった夕日が水平線をオレンジ色に染めていた。そのまぶしさにランガは目を細めた。

 この光。これも知っている。あやふやな既視感に襲われ、ランガは強く頭を振った。

 愛抱夢がランガの肩を強く掴み、くるりと体を回される。真っ正面で向き合い、胸を合わせ強く抱きしめてきた。首筋に触れる彼の唇が、声が震えている。

「ランガくん。行くんじゃない」

「愛抱夢?」

「たとえ、龍神に呼ばれても僕を置いて行くんじゃない」

「行くってどこへ? 俺は愛抱夢を置いてどこかに行ったりしないよ。愛抱夢だけじゃない。母さんや暦や仲間がいるし。あと……それにお腹空いたし……」

 耳元でクスッと小さな笑い声が聞こえ、ホッとする。

 顔を上げた愛抱夢が「おや……」と言った。

「どうしたの?」

「海の上の空を見て」

 言われてランガは振り返った。

 愛抱夢が指差す方を見れば、水平線に沿って妙に細長い雲が見える。その雲が海面の下へと沈んだ太陽の残光を受け黄金色に輝いていた。

「龍雲だ」

「りゅううん?」

「よく見てごらん。あの雲、龍の形をしているように見えるだろう」

「言われてみれば——左側に頭があって口を開けていて、小さな手があるみたいに見える。ドラゴンというより細長い蛇みたいな?」

「こらこら。東洋の龍と西洋のドラゴンって全く別物からね。便宜上ドラゴンと訳すしかないんだけど。——龍って肉体を持たないんだ。それで、たまに自分の姿を雲に映し出して人間にメッセージを届けてくれると言われている。だから大丈夫だ。君は龍神に守られている。守られているんだ」

 まるで自分に言い聞かせているような口調だった。

「ん? それなら愛抱夢も守られているってことだろ」

「そうか……そうとも言えるのか」

 なんで、言われるまで気づかなかった——みたいな顔をするんだろう。そうに決まっているじゃないか。

「それより、お腹空いたんだけど」

「ああ、すまない。食事にしよう」

 歩き出した愛抱夢の後ろをついて行く。

「あの……俺、愛抱夢をひとりぼっちにしたりしないよ」

 言えば、愛抱夢は振り向き、一瞬なんとも言えない表情でランガを見て、それから嬉しそうに微笑んだ。